2023年11月16日木曜日

水戸学の道を歩き、大日本史と光圀肖像を見る

茨城県に行く用事があり、42年ぶりの水戸に寄った。

みまつホテル(前のブログ)をみたあと、駅前の大銀杏のわきの銀杏坂をあがると三の丸。
坂を上った突き当りは武家屋敷のような土塀に囲まれ、これこそ三の丸の弘道館だと思ったが、よく見たら小学校だった。名前もずばり三の丸小学校。
10:33
水戸市立三の丸小学校
42年前の1982年はこんな時代がかかった外構はなく、普通の小学校だったのだろう。記憶に残っていない。(学校沿革によれば、冠木門、白壁の塀は1984年2月という)

信州でも松代小学校は藩校の敷地に建つが、このような観光資源とすることはなく、年月とともに昔の建物は消えて行き、復元計画もないだろう。

駅前を含め水戸城周辺は散策用の地図が多い。
小学校の塀の前にもある。
10:35
地図のタイトルは「水戸学の道」という。

水戸学というのは、第2代水戸藩主の徳川光圀によって始められた『大日本史』の編纂を通じて形成された。やがて幕末の第9代斉昭のもとで大きく発展した、尊王攘夷の思想、学問、学風のことである。明治維新の思想的原動力となった。
しかし、この散歩道のタイトルに水戸学の道とは大げさかな。
10:38
南東の角を東にまわると再び冠木門があり、小学校の中がよく見えた。先ほどの衝立があった門より、こちらのほうを常に使っているようだった。
見れば屋根や腰壁部分に擬古的デザインがあるが、もっと派手にやっても良い。

小学校の並び(北)に有名な弘道館がある。
10:39
弘道館 正門
1982年に来たことは間違いないが、ほとんど記憶がない。
夕日が当たる白い壁くらいしか覚えていない。

弘道館のある三の丸はもともと重臣の屋敷地だったが、幕末斉昭の時代に藩校弘道館が開設された。単なる子弟の教育機関ではなく、藩政運営の一環としてとらえられたため、三の丸の真ん中に広い敷地を有した。

私の城巡りは相変わらず忙しいので中へは入らない。
10:44
弘道館正門と向かい合うように、濠の向こうに二の丸の大手門がある。
景観整備の一環として2020年に復元された。
10:46
徳川御三家の大手門として立派。
これを正門とするかのように、くぐるとすぐ学校がある。
10:47
茨城大学教育学部付属小学校・幼稚園

前身は茨城師範学校付属小学校(1877)で、1888(明治21)年にこの地に移転してきた。
戦後、付属水城小学校と改称。
茨城女子師範付属小学校(のち付属愛宕小学校)と統合され、ここ水城校地が付属小学校に、愛宕校地が付属中となった。

小中学校としては珍しく警備員がいる。2001年大阪教育大学附属池田小学校の事件以来だという。

付属小学校の向かいの武家屋敷のような門も学校。
10:49
こちらは水戸市立第二中学校。
門は閉じているが登校時は開いているのかな?

この中学は戦後できた水戸市立三の丸中学校と市立五軒中学校が1949年合併し、現在地に作られた。どうせなら二の丸中学校に名付ければよかったのに。

ちなみに、ここは城としては二の丸だが住居表示では本丸も含めて城内はすべて「水戸市三の丸」となる。
そして一丁目、二丁目、三丁目は、逆順の三の丸、二の丸、本丸である。なぜこの順番にしたのか、役所のある三の丸を一丁目にしたかったのだろうか。
10:50
第二中学校の正門わきに「大日本史編纂之地」。
この校地は彰考館があったところ。

碑の書は、徳川圀順(くにゆき、1886- 1969)、水戸徳川家第13代当主。

彰考館は、二代藩主・光圀が世子時代の1657年、江戸駒込別邸(現・東大農学部)内に開設した史局を前身とする(明暦の大火で上屋敷は焼失していた)。光圀は日本史に関心を持ち、数人の局員と文庫を設けて日本史の編集に取り組んだ。
のち彼は1672年、史局を小石川の上屋敷(現・後楽園)に移転し、「彰考館」と命名する。光圀は西山荘(常陸太田)に隠居して1698年、総裁はじめ主な史局員を水戸に移転、二の丸のこの地に水戸彰考館(水館)を発足させた。

光圀死後、1715年に修史事業は本記・列伝の170巻が完成し、書名を「大日本史」とした。
その後も志・表154巻の編集事業は続けられ、全397巻226冊(目録5巻)が完成したのは1906年(明治39年)。徳川慶喜の同母兄・長兄の10代藩主慶篤の孫にあたる徳川圀順の時代である。
1645年光圀が学を志してから数えて261年、光圀が史局を開設してから満248年の歳月を要した。南朝を正統とする日本史(つまり後醍醐天皇を王とし、それを追った足利尊氏を賊とする尊王攘夷思想)の編集に携わった学者たちは水戸学派と呼ばれた。
11:01
二の丸の真ん中を東の本丸に向かって真っすぐの道路ができている。
塀の内側の教室には児童生徒がいっぱいいるはずだが、外は観光客どころか誰もいない。
弘道館まではニ、三人観光客がいたが、平日ともなればここまで来る人は少ない。

ひとり何もせずに立っている方がいたので、この塀はいつできたのか聞くと、10年くらい前から何年にもわたり少しずつ整備されたとのこと。歩道に低い街灯が並び、夜はライトアップされるらしい。

その方は道路脇の「大日本史編纂之地」の碑の横、すなわち彰考館の跡地に建つ、二の丸展示館という小じんまりとした施設に入っていかれた。
ここでシルバー人材として働いているそうだ。
11:02
二の丸展示館
表札は「水戸城跡 二の丸展示館 水戸市立第二中学校」とある。
中学がなぜ関係しているのか? 
今は市の職員(嘱託シルバー)が管理されているが、つい最近まで中学校の先生が朝夕鍵の開け閉めをされていたらしい。中学の先生?生徒?が展示を始めた、中学校付属ということか。しかし中学は市立だから結局は市立博物館なのかな?
11:04
展示は水戸城の歴史かと思ったら、「近世日本の教育遺産群と水戸」と題する企画展のような内容だった。
11:05
彼の前職は60で定年退職のとき東日本大地震があり、ドタバタしているうちにそのまま勤務が続いてしまったという。つまり全く同じ勤務内容だったのに4月から給料が半分になったそうで、それに私も応え「うちの会社なんて60過ぎたら時給勤務で年収は3分の1です。私はその前に転職しましたが」などと老後の雑談が始まってしまった。

こちらは時間がないのでうまく切り上げて展示を急いで見た。
11:05
徳川光圀画像と「大日本史」現物
大日本史は名前からもっと大きな本のイメージがあったが、思ったより小さい。しかし250年にわたる大事業、全402巻とは、まさに「大日本史」である。
諸国から学者を集め、史館員を遠方に派遣しての史料収集、調査が行われたから、修史事業は水戸藩の財政をだいぶ圧迫したらしい。趣味というのは金がかかる。

ところで光圀はご存じ、水戸藩第2代藩主である。
家康の孫であるが、初代藩主徳川頼房の三男で、同母兄の頼重がいた。二人とも正式な側室の子ではなかったため、頼重は家臣・三木之次の江戸別邸で生まれ、のち京に送られ、いっぽう光圀は三木之次の水戸屋敷で生まれた。先に光圀が二代藩主に決まったため、頼重は次男扱いとなり、17歳で常陸下館5万石を与えられた。のち讃岐高松12万石に加増転封となったあたりは、ただの次男扱いではなく御三家嫡男を考慮されたか。

光圀は兄・頼重の二男、綱条を養子にとって、後継の第三代水戸藩主とし、自分の長男・頼常は高松の兄の養子とした。兄を差し置いて水戸家の家督を継いだことが負い目になっていたのだろう。

なお光圀・黄門様が天下の副将軍とされるのは諸国を漫遊したからではなく、水戸藩主は参勤交代のない江戸常府で、逆に、ずっと江戸、将軍のそばにいたからである。
11:06
各藩に広まる水戸学。
大日本史の骨格となる各天皇の事績を書いた本紀「百王本紀」・列伝は江戸時代には完成していたから、北海道・松前藩から九州・佐土原藩まで多くの藩校はこれを教科書として採用した。松代・文武学校、福山・誠之館、萩(のち山口)・明倫館、福岡・修猷館など多くの名が連なる。

当時の藩校で教えていたのは(幕末、一部では医学、兵学なども併せて教えたが)、主として国学と漢学である。そもそもそれまで国学の全国的な教科書がなかったわけだから「大日本史」を通じて水戸学が諸国の藩士に与えた影響は大きい。
すなわち尊王攘夷思想(天皇を王、幕府を覇とし、後者を否定する)を刷り込まれた。まさか光圀も自分の研究事業が討幕につながるとは夢にも思わなかったであろう。

11:07
水戸城の模型。
彰考館は確かにこの場所にある。弘道館も大きく、水戸における歴史研究というのは大したものだ。模型をよく見ると、この展示館(彰考館あと)の前、二の丸を東西にまっすぐ伸びる道路がある。いまの二中、付属小の間の道は、いかにも観光用に新しく作ったように見えたが、実は江戸時代からあったものだった。
11:07
「水戸学の道」という散策図
駅前から上がって三の丸小学校前の地図でこのタイトルを見た時は大げさだと思った。しかし明治維新を引き起こす尊王攘夷思想を生んだ地、また幕末に桜田門外の変、天狗党の乱などを起こした熱血の水戸藩士たちが歩き回った地ということを考えると、このタイトルでも良い気がしてきた。
11:08
弘道館を中心とする水戸の文化財は、足利学校、閑谷学校、咸宜園(日田市)とともに「近世日本の教育遺産群」として2015年文化庁の日本遺産第1号に指定された。
(同時に指定された18件は、2号以下が「かかあ天下・群馬の絹物語」、「琵琶湖とその水辺空間」、「四国遍路」などである。)

二の丸展示館を出て東の本丸に急ぐ。
11:12
土塀の切れたところから水戸市立第二中学校の校舎が見えた。
白壁と瓦屋根の城郭建築を(少しだけ)思わせる和風のデザインである。
どうせならもっとテーマパークのようにお城っぽくしちゃえば良かったのに。

水戸三高の前を通って二の丸から本丸にわたり、水戸一高を見た後(別ブログ)、同じ道を戻ってきた。
11:26
左:茨城大学付属小学校 右:大手門

大手門を出ると三の丸の弘道館。
11:28
大手橋から見た弘道館

「水戸学」についての展示を見たあとだから、その中心たるべき弘道館は見学しても良かったが、とにかく時間がない。
中には入らず、北の梅園を通り抜ける。
11:29
弘道館北側の梅園
ふつう、今時こういう公園は桜であるが、さすが水戸である。
なぜ梅か? 
9代、列公・斉昭が好きで種を江戸から送り、偕楽園や城内に植えさせたという。
冬の寒さに耐え、春に先駆けて咲き、詩歌の材料となり、実は戦時の保存食となり、薬効にも優れているという。しかし、梅は好文木とも呼ばれ、菅原道真・天神さまとの関係のように、梅は学問と関係があったからではないか?

このあと旧茨城県庁のほうを周り駅に戻り、12:02発の電車で勝田に向かった。

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