2023年11月12日日曜日

水戸城址の堀跡を絵図と歩く

10月26日、茨城県立勝田高校で講演した。

話すのは午後だったので、早めに家を出て一駅手前の水戸を42年ぶりに歩いた。
水戸は、駅が南の千波湖と北の水戸城址に挟まれ、駅の近くに見どころがいっぱいある。

2023₋10₋26 10:18
水戸の面白いところは、道路わきに江戸時代の様子を表す歴史地図が多く立っていることだ。本当は観光、散策用なのだろうが、普通の市街図があまりないから、いまの道路で目的地に行こうとする人は難儀する。

この地図を見れば、城の南、すなわち水戸駅のすぐ裏まで千波湖である。いまより4~5倍も広かったという千波湖が北の那珂川と東でつながり、三方が天然の濠になっていることが分かる。しかも広い関東平野にあって見晴らしの良い丘陵である。城を攻めるには西側しかなく、要害といえる。

その地形は埋め立てられる前の江戸時代の絵図をみれば、もっとよくわかる。
常州水戸之城絵図(国会図書館デジタルアーカイブ)
江戸中期から後期という。
三の丸には「侍屋敷」「士屋敷」と2種類ある。

この素晴らしい地形は、平安時代末期~鎌倉時代から有力領主の館、居城として利用されてきた。
最初は桓武平氏の大掾(だいじょう)氏(馬場氏)、その後、足利時代の1423年から、大掾(だいじょう)氏を破った常陸江戸氏の居城となる。
(常陸江戸氏は、江戸の地名となった武蔵江戸氏ではなく、那珂郡江戸郷を本拠とした武家。ちなみに「戸」というのは、江戸、松戸、亀戸、青戸(青砥)、水戸のように、川のそばの港を意味するようだ。そもそも港も大和言葉ならミナトすなわち水(みな)戸と書いたのだろう)

江戸氏は7代、170年続いたが、秀吉の小田原征伐のとき、北条の呼びかけもあり常陸の多くの領主とともに秀吉のもとに参陣しなかった。いっぽう、それまで江戸氏としばしば対立していた常陸太田城の佐竹氏(常陸守護)は秀吉のもとに参じ、その結果、佐竹義重は常陸国54万石の支配権を認められ、江戸重通を水戸から追い出し、自らの居城とした。

しかし関ヶ原の合戦で旗幟をはっきりさせなかった佐竹氏は、出羽国久保田(秋田)20万石に転封となる。
空いた水戸城は徳川家のものとなった。すなわち、家康5男・武田信吉が入り、彼が若死にしたあと10男・徳川頼宣が2歳にして遺領20万石を与えられる(のち25万石)。
頼宣は駿府にいて水戸に来ることはなく、1909年駿府50万石を与えられると、異母弟である11男徳川頼房が6歳で初代水戸藩主となった。(なお頼宣は1619年、駿府から紀州55万石に転封)

頼房は1619年、17歳のとき初めて水戸城に入ったが、2か月で江戸にもどり、生涯をほとんど江戸で過ごした。すなわち御三家の兄二人と異なり参勤交代のない江戸定府だった。

水戸藩は1622年3万石加増されて28万石、3代綱條時代の1701年、新田開発の分として表高を35万石に改めた。

・・・・

みまつホテル(前のブログ)を見た後、三の丸に上がるため、少し駅のほうに戻ると、駅前広場の一角、国道50号の歩道脇に大きなイチョウの木があった。
2023₋10₋26 10:30
大銀杏
説明版を読めば昭和20年8月2日未明、マリアナ基地を飛び立った167機のB29のうち160機が水戸を襲い、1時間45分爆撃が続いた。死者300人、市街のほとんどが焦土と化し、このイチョウも黒焦げになった。誰もが枯れたと思ったが、戦後まもなく芽が吹き、復興のシンボルとなったという。

明治以前、駅のあたりは台上のお城の下、濠と千波湖にはさまれた東西に長い帯曲輪であり、このイチョウは濠のほとりにあった。この脇の「銀杏坂」をあがると三の丸。
ちなみに銀杏坂の名は300年前の古地図にもあるらしい。

市立三の丸小学校や弘道館のある三の丸はもともと重臣の屋敷地だったが、幕末斉昭の時代に藩校弘道館が開設された。単なる子弟の教育機関ではなく、藩政運営の一環としてとらえられたため、広い敷地を有した。

弘道館は素通りして水戸城の中心だった二の丸に行く。
10:44
三の丸の弘道館正門と向かい合うように、堀の向こうに二の丸の大手門がある。
景観整備の一環として2020年に復元された。
大手橋は昭和10年12月竣工
よく見ると竣工ではなく竣功だった。
今は使わない文字だが本来同じ意味である。
10:44
大手橋の下、すなわち三の丸と二の丸の間は深い空堀。
関東の城の常で、空堀と土塁で曲輪が分かれている。
今、下は道路が走っている。
ちょっと古い地図を見れば、国道6号線とある。
東京仙台を結ぶ幹線道路が三の丸と二の丸の間の堀を通っていた。
10:45
南のほうを見れば駅前広場のビルが見える。

堀はけっこう深い。
どのくらい深いのだろう。
帰宅後、正保城絵図をみてみた。
常陸国水戸城絵図(国会図書館蔵)
https://www.digital.archives.go.jp/gallery/0000000424
この絵図は、正保元年(1644年)に幕府が諸藩に命じて作らせた城下町の地図、すなわち正保城絵図の一つ。城郭内の建造物、石垣の高さ、堀の幅や水深などの軍事情報などが精密に描かれているほか、城下の町割・山川の位置・形が詳細に記されている。
ここに水戸城大手門の堀は「堀ノ深六間五尺」と書いてある。12.3メートルである。

(江戸時代の地図としては幕末の尾張屋版切絵図が見慣れているが、その200年前のほうが、縮尺などはずっと正確である。各藩は幕府の命を受けてから数年で絵図を提出し、幕末の紅葉山文庫の蔵書目録には131舗の所蔵が記録されている。しかし現在、国会図書館所蔵の正保城絵図は63舗である。1986年、国の重要文化財に指定された。)

三の丸から二の丸に入り、復元された大手門をくぐる。
10:46
徳川御三家の大手門として立派。
この先には公立学校がいっぱいある。というか学校しかない。茨城大学教育学部付属小学校・幼稚園、水戸市立第二中学校、県立水戸一高、三高と、ひろい二の丸、本丸はすべて学校に使われている。

こどもたちは毎朝この大手門をくぐっているのだろうか。見てみたいものだ。
11:01
二の丸の真ん中を東の本丸に向かって真っすぐの道路ができている。
両側の付属小学校と水戸市立第二中学校の壁は、たいそう時代がかっている。
何年もかかった景観整備の一環で、42年前はこれはなかった。
おそらく歩いたと思うが、全く記憶がないのは、普通の公立学校の前の道路として城を感じさせなかったことだろう。その意味では観光目的とはいえ、こういう塀もいいものだ。

通りの左に平屋の小さな二の丸展示館(水戸市立第二中学校の敷地内)があり、立ち寄った。
11:07
二の丸展示館にあった水戸城の模型

本丸、二の丸、三の丸の南には、水をたたえた濠があり、千波湖との間は細長い三日月形の帯曲輪というべき家臣がすむ区画があった。義公(光圀)はここで生まれたようである。

よく見ると二の丸を東西に縦断するような道路がある。御殿と彰考館などを分けていた大通りで塀があり、今の通りと同じ場所である。その意味でも、この道路、学校のフェンスを擬古的に整備したのは正解だろう。

二の丸のその道路を本丸に向かって歩く。
11:12
右に県立水戸三高、左に大きな樹木。
11:13
大きなシイの木(2株)
樹齢400年以上、戦国時代から自生していたという。

椎の木の先に復元されたような門があった。
11:14
杉山門
水戸第三高校の正門の前あたりにある。
二の丸の北口(那珂川側)から入る門で、2015年に復元された。門の向きを見れば、おそらく桝形門の内側のように、かつては土塁などに囲まれて直角に曲がって入ったのだろう。

いま北口はただの切通しの道路(杉山坂)のようになっていて、那珂川が見えた。
もっとしっかり見たいと思い、通り過ぎた大シイまで戻り、第二中学のグランド脇の道から「見晴らし台」に行った。
11:15
二中うらの見晴らし台からの眺め
左は三の丸との間の堀から出た旧国道9号。
右は本丸との間の堀から出た水郡線の鉄橋。

私の城見物は相変わらず時間がないので、わずか数秒見ただけで急いで本丸に向かう。
11:17
二の丸(御城)から本丸(御本所)に入る本城橋
11:17
橋の下は堀跡を通る水郡線
東京にいると珍しい単線である。
11:18
二の丸から本丸にはいるところには門があったはずだが、いまは水戸一高の門である。
「一高関係者及び史跡見学者以外の方の通行はご遠慮ください」とある。
しかしれっきとした史跡見学者なので入ってみた。
11:19
本丸跡に立つ水戸一高と薬医門。
この門は幕末の弘道館戦争、廃城、昭和の空襲を生き延びた、水戸城で現存する唯一の建物。安土桃山時代すなわち佐竹時代に建てられたらしく、こじんまりとしている。

門というのは外から中へ入る場所にあるものだが、この位置はおかしい。調べると、明治20年(1887)頃と昭和19年(1944)の2回、水戸市内で移築され、3回目の場所として1981年ここに来たらしい。おそらく本丸への正門だったのだろう。御三家の門としては小さいが、佐竹時代なら分かるし、江戸時代になると敢えて大きな門に作り替える必要もなかったのであろう。
11:20
校舎玄関前に水戸一高の校舎案内図があった。
相撲道場(敬義館)、江山閣、飛田穂洲胸像なども「案内」されていたから「史跡見学者」として見に行って咎められても言い訳できると思ったが、時間がないので引き返した。
緑の崖地をみれば、この高校の敷地は本丸いっぱいに広がっているようだ。

本丸の先(東)すなわち川と沼に挟まれた台地の先端は下の丸。
いまは一高のグラウンドになっている。
11:22
本城橋から二の丸を見れば水戸三高がある。
その間の堀は水はないが深い。
11:23
左、水戸三高、右、杉山門
二の丸を西に戻って歩いていく途中、二の丸隅櫓の案内板があった。
11:24
二の丸隅櫓は、明治時代に撤去され、2021年に復元された。茨城大付属小学校と水戸三高のあいだの歩行者用道路をいくようだ。
行けば駅や千波湖方面に何か見えたかもしれないが、先を急ぐので立ち寄らず。
11:28
大手橋をわたり三の丸に戻ると弘道館の正門。
弘道館については別のブログで書くつもり。
11:31
北の梅園をとおって裏に回ると、鹿島神社、八卦堂、学生警鐘があり、梅園の向こうに旧県庁の建物が見えた。
11:32
42年前を思い出せは、弘道館の裏は役所がいっぱいあったという気がするというだけで記憶はぼんやりしている。
11:33
役所の駐車場の向こうに変わった建物が見えるが行く時間はない。
白い塔は水戸市水道低区配水塔。
その左の瓦屋根は水戸東武館(剣道、なぎなた道・居合道の道場)のようだ。

11:33
旧県庁の正面玄関
1871(明治4)年、水戸県などが統合され茨城県ができたとき、土浦などは新治県だった。
1872年、弘道館裏の現在地に県庁がおかれ、1876年新治県が編入された。
この建物は1930年に竣工、テレビロケにも使えそう。
1999年 、新庁舎がずっと南の水戸市笠原町に完成し移転した。
11:35
旧県庁はいま茨城県三の丸庁舎という。
堂々とした建物に、水戸黄門漫遊マラソンの垂れ幕が下がっている。
名前からして仮装マラソンのイメージがある。
それとも3人一組かな。
11:36
実は三の丸庁舎という名前は、この表札板で知った。
11:36
三の丸の西側の堀
正保城絵図では「堀ノ深五間半」とある。33尺だから10メートル。3階建てのビルくらいか。

橋を渡って三の丸を出る。
三の丸の西側は四の丸、五の丸という順だが、普通日本の城に四の丸はない。四は死に通じるせいか、西の丸とか鐘の丸、砂の丸、山里丸とか違う名前になっている。(弘前に四の丸はあったか?)
11:38
その四の丸?はほとんど市街地になっているが、裁判所(地方、家庭)があった。
ちなみに水戸二高(旧県立水戸高等女学校、1900年弘道館跡に仮校舎で設立)はこの先、右側にある。

かつては武家屋敷が並んでいたはずだが、今は普通のオフィス街なので三の丸に戻る。
そろそろ駅に行かなくちゃいけないし。
三の丸庁舎の南は芝生広場になっていて、真四角な建物がある。
11:41
いかにも昭和の建物だが、Hoshino Coffee, Library Cafeの看板だけ新しい。
Libraryとは図書館か。
このあたりは1982年の地図だと県会議事堂があった。
するとこの古いデザインの図書館は新しいのだろうか?
1982年にもらった地図
11:42
表にまわり玄関の壁をみれば、コーヒーカップとともに星乃珈琲店とある。
その文字は「茨城県立図書館」よりずっと大きく場所も良い。
これだけ看板が目立つのは命名権でもあるのだろうか?

帰宅後、この建物について調べたら、1970(昭和45)年竣工の県会議事堂を2001年図書館に改修、2020年改装時に星乃珈琲が入ったらしい。いろんな疑問が解けた。

三の丸にはほかに西堀を埋めたあとに警察署や常陽郷土会館、三の丸小学校の西に市民センターがある。

三の丸の弘道館(現・三の丸小学校、市民センター)と南の武家屋敷の間の道は今もあり、そこに立つ地図を改めて見る。
11:43
弘道館・偕楽園 周辺案内図
水戸城の総構えは偕楽園のほうまで続いている。
偕楽園は物見砦あるいは支城のような役割も期待されていただろう。
水戸は町屋(紫)よりも武家地(茶色)のほうが目立つ。

本日の講演に間に合うには12:02発の電車で勝田駅に行かねばならない。
あと19分。
あまり時間がない。駅ビルのどこかに上がれば水戸城の南を守った千波湖が見えるかと期待して水戸駅に戻った。
しかし42年前に湖畔を延々と歩いた湖は見えず、かといって南口から歩く時間もなく、改札口に向かった。

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