2024年1月19日金曜日

壬生城郭・城下町図、精忠神社の干瓢

1月10日、壬生にきた。

壬生城址公園にある町立歴史民俗資料館を訪ねたのだが、運悪く臨時休館だった。
晴れていたが北関東の冬は寒い。城址は見るべきところも大してないので本丸跡にたつ町立図書館で時間をつぶすことにした。
館内に入ると係の人以外、利用者は一人か二人。
14:51
壬生城本丸跡に立つ図書館だけあって、城の本が多い。
驚くのは分類識別のラベルが「城」となっていることだ。
こちらには佐野城、小山城、宇都宮城、長福城など栃木県の城の調査報告書などがある。
当然壬生城もある。
14:52
「壬生城郭・城下町図」(壬生町立歴史民俗資料館編)
閉館だった歴史民俗資料館ではこういう図をいちばん見たかったので嬉しい。
壬生城は6つの曲輪からなる。
同心円状の本丸、二の丸、三の丸の東に東郭、南に下台郭、北に正念寺曲輪がある。
郭と曲輪を区別しているが、堀に囲まれたのを郭、囲まれていないのを曲輪としたのか、よく知らない。
三の丸、東郭、正念寺曲輪には侍屋敷が並び、下台郭は足軽小屋があった。この絵図で足軽は侍ではないということか。
現在の市街地に合わせたもの。
追手門(大手門)は東郭の東にある。前に馬出のようなものがあった。駅から歩いてきた蘭学通り(壬生街道、日光西街道)と大手門通りの交わるところ、つまり足利銀行と淀川肥料店のあったところである。
今の大手門通りは当時の大手門から西に東郭を突っ切って、三の丸の北、二の丸門の前に至る道をそのまま使っている。
壬生小学校は三の丸の東部分と下台郭にある。二の丸の西部分に精忠神社。
他の城地の多くは民家となった。

明治の廃城で住民は保存を選ばず、残ったのは本丸の南の堀と、北と西側にわずかに残る土塁(段差)だけだった。平城というのは斜面、崖がないから、きれいに宅地、田畑に転換できる。

前のブログで壬生城の城主に少し触れたが、この城郭図の本によくまとまって載っている。
15:18
1462~1590に壬生氏5代の時代があり、小田原征伐後に結城領になって廃城。
関ヶ原のあと、結城秀康が越前に転封されると1601年から日根野吉明、阿部忠秋(福山藩阿部家ではなく、白河藩・藩祖)、三浦氏3代、松平輝貞(大河内松平家、知恵伊豆の孫)、加藤氏2代と続いた。
そして1712年、鳥居忠英(ただてる)が近江水口から3万石で入封。忠宝(ただとみ)が版籍奉還するまで鳥居氏7代の居城となった。

年表を読むと、城地を払い下げたあと残った本丸に鳥居家の隠居所があったらしいが、昭和2年に落雷で焼失、そこへ戦後になって壬生中学校を建設した。壬生中学は1981年、本丸跡から移転。歴史資料館、図書館や公民館はそのあとに作られたようだ。

城址をもう一度歩きたくなって図書館を出る。
南の二の丸から入る本丸門のあったあたりの脇に石柱が立っていた。
16:10
壬生藩領榜示杭
「従是南 壬生領」側面に「下野国都賀郡 家中村」とある。
街道筋にでも立っていたのだろうか。
家中(いえなか)村は合併して都賀村、都賀町となり、2010年栃木市に編入された。

公民館、図書館の裏に回ると神社があった。
16:15
精忠神社
祭神は鳥居氏祖、伏見城を死守し自刃した鳥居元忠である。
16:16
神社に似つかわしくない造形物があり、近づけば
「干瓢伝来三百年記念」
横には多くの商店、会社の名前が彫ってある。栃木は干瓢が有名とはいえ、こんなに業者が多いのだろうかと感心した。しかし、なぜ壬生なのか?なぜこの神社なのか?
300年と言えば江戸時代である。

上に乗っているのは原料のユウガオだろうか? 私の知っているユウガオはもっと細長い。
ユウガオの生産は9割、干瓢は98%が栃木県だというが、50年前の3%までに激減したらしい。そういえば干瓢巻きよりかっぱ巻き、納豆巻きのほうをよく見る。確かに干瓢はなければないで困らない。

ふと、右(東)の奥のほうに大きな石碑が目についた。
行って見るとなんと、またしても干瓢。
16:18
堂々と「干瓢発祥 二百五十周年記念」
栃木県と干瓢の関係は分かるが、なぜ壬生か、なぜこの神社なのか?

16:18
石碑の横は「城内ふれあいファーム」
スイカとトマトの絵が描いてあるが、畑の畝がなく、草すら生えていない。
ヤギでも飼っているのかな?柵があるし、ふれあいだし。

帰ろうと思って戻ると大きな石碑が南に向いてある。
日清日露戦役の戦没者慰霊碑だろうか? それとも戊辰戦争の壬生藩士の慰霊碑か?
16:20
正面にまわってみると「頌徳碑」とある。慰霊碑ではなかった。
しかし誰を顕彰したのかすぐ分からない。
16:25
陸軍大将従二位勲一等功三級男爵奈良武次閣下篆刻
 で始まる。次の行の
鳥居浄泉公追遠記
がタイトルか。
もっと読んでいくと、
浄泉公、諱は忠英、龍見公・諱は元忠の玄孫なり。公は廟を立て龍見公を祀る。即ち精忠神社なり。公は領内の物産乏しきを憂い、旧領江州木津村に於いて瓢の種を取り、郡吏・松本茂右衛門に命じ、これを黒川東西に蒔き始めさす・・・国中耕地三千余町、年産額百万余貫、販路は拡大し遂に海外に及び、我が邦重要物産下野干瓢をなす。・・・二百年後、精忠神社境内に有志相謀りて碑をたて公の徳を表す・・・・昭和十二年四月

なんと、この碑も干瓢だった。
そして栃木の干瓢の碑がなぜ壬生のこの神社にあるか分かった。

この日は栃木市の高校で大麻・覚せい剤に関する講演がある。
16:48の電車に絶対乗らなくてはいけないので壬生城をでた。

大手門通りから蘭学通り(日光西街道)に出る。
ここがなぜ蘭学通りか分からない。
医院があった。
16:36
松本内科医院
奥のほうに立派な門がある。駐車場を通って近づくと、国の登録有形文化財であり蔵は文庫蔵と案内板にあった。
16:37
松本家の板塀はずっと奥まで続く。
ここは蘭学通り、松本家は蘭方医だったのだろうか?
(帰宅後調べたら、壬生で本陣役を担った松本家の分家筋で、蘭方医ではなかった)

駅近くの三叉路でとんがり屋根の家が2軒見えた。
16:39
とんがり屋根の壬生交番と火の見やぐら。
16:40
もう一軒、お洒落なとんがり屋根
喫茶店かケーキ屋かと思ったら、「焼肉もりもり」と看板にあった。

壬生は平坦で丘がなく、つまり斜面の樹木がなく、道路は車社会に合わせて広い。つまり城下町という雰囲気はない。かといって現代的でもない。商店や人が少なく、静かに眠ったような町だった。もっとも、本丸と城下が残っているぶんだけ、本丸が堤防に侍屋敷が畑になった関宿城よりマシか。


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