2024年1月17日水曜日

壬生という地名、歴史館前の宥座の器

1月10日、薬物乱用防止講演で栃木市の学悠館高校にきた。

三部制の定時制高校である。二回話すことになり、午後時間が空いた。
栃木市は巴波川に沿った蔵の街。散策に適するが、2017年に歩いたことがある。
そこで近くの壬生町に行くことにした。
栃木駅からは新栃木で東武日光線から宇都宮線に乗り換えねばならないが、1時間に2本程度あり、16分、261円で行ける。車両はワンマンカーでドアは乗客がボタンで開閉する。
14:02 壬生駅
自動改札ではないがSUICAが使えた。

壬生は気にはなっていた。
京都・壬生の新選組屯所については、20年ほど前、出張先のKRPに行く朝、壬生寺の境内を通り過ぎたことはあるが、下野壬生については全く知識がなかった。

壬生とは変な地名である。ウィキペディアには「水辺、水生(みぶ)の意で泉や低湿地を意味する」とあるが、それなら水戸のように水生と書けばいいではないか。こんな字は壬生以外に書かない。だいいいち「壬」を何で「み」と読むのか?古代朝鮮の任那(みまな)はニンベンがあるけど。
ここで壬申の乱を思い出した。「壬」は十干、つまり甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の9番目。陰陽五行説の木火土金水の9番目は水の兄、みずのえである。ここから壬をミと読んだか?

さて、下野壬生が気になったのは、千駄木に引っ越してから近所を歩いていて本郷通りに江岸寺を見たから。三河以来の徳川譜代大名、鳥居忠政が建立し、彼の墓もある。父の元忠は関ヶ原前哨戦で伏見城を2千人で守り4万の大軍を相手に奮戦、戦死したことで知られる。江戸大名としての初代・鳥居忠政は山形22万石であったが、長男・忠常は後継を決めず死去、改易された。しかし祖父の功績を考慮され異母弟が3代目として高遠藩3万石で家名を残され、5代目忠英が近江水口から壬生に転封され、以後、明治まで壬生藩は鳥居氏8代が治めた。
この江岸寺には子孫の鳥居忱( まこと)の墓もあり、彼は箱根八里の作詞者である。

次に壬生が気になったのは2か月前、第20回全国殿様・藩校サミット2023が文京区で開かれたとき。壬生藩は全国最大の16人の関係者を送り込み、また第18回大会の主催地でもあった。これは行かねばならない、とその時思った。
14:03
駅前広場に壬生タクシーという会社はあるが、タクシーはいない。
人もいない。店もない。とても城下町に思えない。
14:06
歩くと少し動きのある通りに出た。
壬生街道(県道18号)だが、「蘭学」という旗が通りに沿って下がっている。
電柱を地中化し、しゃれた街灯にしたが、北関東らしく車社会であるから道路が広く(新しく)、樹木もなくてあまり風情はない。
14:08
「壬生城 大名最中 大師塩羊羹 なからい」という看板。
笹の家紋のようなものが見える。鳥居家の家紋は鳥居笹だが、ちょっと(だいぶ)違う。
閉まったシャッターは汚れていて、営業していないように見える。

車は通るが、歩いている人は少なく、商店街ではない。
これが壬生一番の通りだろうか?
14:10
なからい菓子店の隣は営業していないどころか廃屋に近い。
「喜沢屋質店」「壬生金融株式会社」という看板。
質店と金融会社は同じなのか別なのか?
14:12
しかし、いったいどこが蘭学通りなのか、全く分からないまま歩いているとICHIKAWA ENGLISH HOUSEという英語教室があった。これでは英学通りである。

蘭学通りと大手門通りの角、足利銀行の向かいに立派な木造商店があった。
14:14
造り酒屋かと思ってみると淀川肥料店とあった。
肥料のほか農薬、米麦の集荷を業とされているようだ。

大手門通りは壬生街道から直角に西へ向かう。
壬生小学校の体育館がお城のような屋根をもっていた。
道路端に新しい石碑があったので見ると、
14:18
壬生論語教育之礎 藩校 学習館 故址
正徳三年(1713)正月創立
とある。
下の説明を読めば、全国260の藩校のうち、10番目に古いという。
2021年の全国藩校サミット開催地を記念して建てららしい。

小学校の向かいは城址公園になっている。
14:20
駐車場なども屋根付きの塀で囲み、城址らしい景観を作っているが、人工的な新しさに風趣がないことは否めない。
14:21
公園正門
建造物はどれも新しい。
14:22
典型的な平城である。
しかし石垣や石段、斜面、老木が生えて崩れた土塁などの古い遺構がなく、アスファルトの駐車場や整備された植え込みなどの雰囲気は、まるで田んぼの中に作った体育館、運動公園のようである。

案内看板を見ていたら、屋外スピーカーからメロディーが聞こえてきた。カラスが鳴くから帰りましょうといった夕方の放送ではなく、「箱根八里」のメロディーであった。
なぜ箱根八里か、町外から訪ねた人で分かる人はあまりいないであろう。私も近所の江岸寺に行っていなかったら気づかなかった。

ちゃんと説明板があった。
14:26
作詞者、鳥居忱は壬生の出身としか書いてない。箱根八里は「中学唱歌」の中で人気が高かっただけでなく、明治期を通してもっとも歌われた歌の一つとある。

鳥居忱(まこと、本名は忠一。1853-1917)は、藩主家の出身ではないが、父は藩祖の鳥居元忠につながる壬生藩江戸家老・鳥居忠敦(志摩)である。大学南校でフランス語を学び、また外国語学校にも入っている。明治15年(1882)、音楽取調掛(後の東京芸術大学の前身)を首席で卒業。直ちに助手に採用され、1891年和漢文と音楽理論を受け持つ教授となった。生徒の中に瀧廉太郎がいた。箱根八里は滝の作曲である。

14:25
壬生城は室町時代なかば、文明年間(1469-1486)に壬生氏第2代・壬生綱重によって築かれたとされる。
戦国時代、壬生氏は北条氏についたため、1590年小田原征伐で滅んだ。その後は小山氏の旧領も併せて結城秀康の所領となった。結城氏が越前に転封された後は多くの譜代大名が2万石から3万石で入った。

というような説明板には城址公園を整備する前の古い写真があり、それは空堀の土の斜面に木が生えている。
14:27
しかし、1989年公園として整備されたのは水をたたえた立派な石垣の堀。
子供にはお城らしいかもしれないが、明治維新の廃城時の面影はない。壬生城は本来、石垣もなければ天守や櫓などもなかった。明治の壬生では保存を考えなかったようで、本丸をのぞいて宅地や畑となり、堀も本丸の南を除いてすべて埋めた。

堀をわたって本丸跡にはいる。
中には中央公民館、図書館、歴史民俗資料館がある。

室町時代に近世の平城のようなものはなかったから、当初は(例えばこの本丸部分だけの)壬生氏の館のようなもので、後に堀、郭を増やして城郭にしたのであろう。
14:31
壬生町医師会による「種痘医 齋藤玄昌翁碑」があった。
下野近代西洋医学の先駆者、とあるから、駅から歩いてきた蘭学通りに屋敷があったのだろうか?
14:32
壬生町立歴史民俗資料館

ショック!
展示替えのためこの日だけ臨時休館している。

歴史資料館なのに「壬生論語 古義塾」という堂々とした看板が掲げられていた。
小学校のフェンスにも論語をもつ子供たちのイラストがあったし、壬生に論語は特別なのだろうか? それを聞くべき資料館が閉まっているのだから仕方がない。

ふと振り向いたら足元に水槽がある。
みれば壷のようなものが鎖でぶら下がっていて、宥座の器という。
14:33
「宥」というのは宥和政策のように穏やかに許す、なだめる、という意味だが、座右に置いて戒めとする器という。
空のときは傾き、程よく水を入れると水平を保ち、さらに水を入れるとひっくりかえる。孔子が桓公の廟でこの器を見て弟子たちに「満ちて覆らないものはいない」と中庸、謙譲の徳を教えたという。

私もひしゃくで水を汲み、少しずつ器に入れて確かめた。
水平になってから徐々に傾き、ざばあーんとひっくり返る。
このひっくりかえる瞬間のインパクトと装置が面白くて、肝心の教訓まで思いが至らない。

その代わりに、孔子以前にこの器があったなら、この教えも有名だったはずで、孔子が出る必要はないではないか?なんて思う。

そばに作者のパンフレットがあった。見れば館林の工房「銅司」針生清司氏の作。
氏は1938年生まれ、20歳で建築板金業を始められる。宥座の器は、教訓はあっても現物がないことから製作をこころみた。試行錯誤を13年、1992年に完成したという。2004年、孔子直系77代子孫・孔徳成氏にも寄贈したとか。(2550年前の孔子から77代というと1代33年か、とつい計算した)

これで何度も水遊びするわけにもいかず休館中の歴史資料館のほうを見ると中に人がいる。
14:36
入り口のドアは動いたのでパンフレットでももらおうと入ってみた。
しかし何もなく、窓口の奥の人も来訪者に気づいているのかいないのか、声をかけられない。このまま二階の展示室にも行けそうな気もしたが、階段を上がるのは憚れた。
ふと階段下に何かごちゃごちゃしたものがある。
14:39
覗くと埴輪がある。壬生は古墳が多いことでも知られる。
古墳時代というのは稲作が始まった時代で、稲を作るには給水・排水が可能な斜面地が良い。だから関東平野でも真ん中より北西部の山に近いところから開けた。壬生は黒川と思川が山から出たところに作った複合扇状地の末端部にある。

階段下には埴輪のほかに、「論語検定」ののぼり、車いす、角材、また鎧、兜などが置かれていたが、説明板がないとただのガラクタと同じである。

資料館が休館で当てが外れ、16:48発の栃木行き東武電車までどこかで時間をつぶさねばならない。冬の午後の太陽は小さくて弱弱しく寒い。
幸い隣が町立図書館である。
14:41
図書館に入るとまたもや書架案内の下に宥座の器。
「虚則攲 中則正 満則覆」
壬生というのはずいぶんと論語に関するものが多い町だ。
(続く)

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