2021年9月16日木曜日

墨田区民を守る万里の長城、白鬚東アパート



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南千住駅の東、汐入公園にきて隅田川の堤防に出た。(別ブログ)

2021‐09‐08
水神橋の向こう、対岸の墨田区側に、万里の長城のようにマンションがつながっている。

何棟あるのだろう? 延々と下流の白鬚橋のほうまで続いている。
よく見ると屋上に橙色のタンクのようなものが載っている。

白鬚橋(明治通り)から墨田区側に渡る。

橋の東詰め、明治通りと墨堤通りの角にデニーズ。
人工池に囲まれてなんとおしゃれなファミレス!
このガーデンプラザにはバーミアンなども入っていて、これらがやっていけるには周辺人口が十分でなくてはいけない。

デニーズの斜め向かいは貸布団・間中ふとん店。
ガラス戸が割れそうなほど、布団が乱雑に積んである。
一等地が昔のままというのが、向島らしい。
しらひげ書房は廃業した感じ。

2021‐09‐08
この交差点、すなわち明治通りのデニーズの向かいから、巨大アパートが始まる。
東京都都市整備局の設置した建物配置図の看板を見ると、一帯は白鬚東アパートというようだが、建物には「東白鬚第一マンション」と書いてあった。はて?

1号棟の「1」の横、5階に放水銃がみえる。
近くに火が迫った時に放水するのだろうが、ちょっと想像しにくい。

各棟は、墨堤通りと隅田川の間を細長く北へ伸びている。
どこもそうだが、たいてい団地の商店街は元気がなく廃れている。


商店街は二列だった。
どこか近くに大きなスーパーでもあるのかな。

普通に解放されているのでエレベーターで最上階、13階にあがってみた。

エレベーターホールはきれいに掃除されていて、自治会もしっかりしているようだ。
建物は川(西)側に廊下があり、玄関が並ぶ。
白鬚橋方面

2021‐09‐08
水神橋方面。荒川区汐入公園のポンプ場が見えた。

荒川区側から見えた屋上の橙色のタンク?を見たかったのだが、屋上への階段は封鎖されていた。
2021‐09‐08
下に降りて公園側から見上げると5階に放水銃が3基あった。

墨田区は土地が低いうえに大河2本に囲まれ水害が心配されるが、これは火事を意識した建物になっている。それなら放水銃は東に向けるべきだと思うのだが。

帰宅後、調べた。
ウィキペディアによれば、正式名称は白鬚東アパート。

都営団地部分1607戸、住宅供給公社分譲部分256戸。計画人口は約6500人。
1号棟 住宅供給公社分譲。東白鬚第一マンションとも。鹿島建設施工。102戸、13階建て。
2号棟~9号棟 都営白鬚東アパート。
10号棟 東白鬚第二マンション10号棟とも。大成建設施工。13階建て。
11号棟 東白鬚第二マンション11号棟とも。大成建設施工。13階建て。
12号棟 駐車場
13号棟・14号棟 防災備蓄庫
15号棟~18号棟 ツインコリンダー型の4棟。

1号棟、第一マンションは1982年築。64平米、2500万から2800万円。43平米の物件は1800万だった。
(IESHIL)
第2マンションも1982年築、ほぼ同じ価格。賃貸しだと12万円。東武の鐘ヶ淵駅から歩いて5分である。

東京都は1969年、東部地域の防災6拠点構想を策定し、その一つとして「白鬚東地区防災拠点」を1975年(昭和50年)に着工、高さ40mの高層団地を1.2㎞に渡って配置、1982年(昭和57年)3月に完成した。約27.6ヘクタール。

墨田区は関東大震災で被服廠の空き地に避難した4万人が、火に囲まれて焼け死んだ歴史がある。
おなじ防災6拠点構想で完成した白鬚西地区(荒川区汐入のマンション群、別ブログ)が主に水害を意識したのに対し、こちらは墨田区北部が大火に見舞われたとき、住民を川側に避難させ、18棟が防火壁となる。

・・・・・
9月11日、自転車で向島、曳舟を探検するため団地を再訪した。
前回は白鬚橋から墨田区に入ったので水神大橋をわたる。

2021‐09‐11 15:56 梅若門
1と2,3と4など棟が雁行して重なっているところは南北方向に隙間ができる。
そこには災害時に閉鎖する防災ゲートが設けられており、北から鐘淵門、梅若門、水神門、寺島門、白鬚橋門という。

また、2と3、4と5など、棟と棟が横に並んでいるところは東西方向に隙間ができる。ここも災害時に閉鎖されるようだが、こちらは名前がない。

屋上にはオレンジ色の物体はやはり巨大な水タンクだった。火災時にシャッターに散水するらしい。
避難場所となる東白鬚公園は周辺からの約8万人を収容するように設計され、延焼しにくい常緑広葉樹が植えられている。

15:59 水神門
字体といい、名前といい、古代中国城塞都市の門のようだ。

ちなみにこの地は、1962年(昭和37年)に操業停止した鐘紡東京工場があった。
カネボウ化粧品だけ残し消滅したカネボウ(のちクラシエ)は、鐘ヶ淵紡績として出発したから、ここが発祥の地であったのかもしれない。本来隅田川と綾瀬川の合流地点を差した鐘ヶ淵は、東武の駅名(9号棟から徒歩5分)として残るが、住居表示としてはない。

ここに東のほうから住民が皆避難してきて防火シャッターを下ろして放水する事態なんてあるだろうか? 計画策定が戦後の空襲から17年後の1962年とはいえ、大げさな気もする。公共事業というのは防災というとなんでも通る。
でも、どうせ住宅供給が必要だったのだから、こういう形もありか。




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