2023年12月26日火曜日

関宿5 城下町の絵図と久世氏

天気の良い師走の水曜日、関宿にやってきた。

ここは江戸川と利根川の分岐点であり、スーパー堤防の上に千葉県立関宿城博物館がある。
建物はお城の形だが、水運と洪水関連の展示が主である。

洪水の歴史や利根川東遷、利根運河開削などの展示を見た後、エレベーターで模擬天守閣の4階に上がり、遠く筑波山や利根川を見た後、階段を下りてきた。
天守閣部分の2階、3階は展示面積が少ないが関宿の歴史にも触れている。
2023₋12₋13
中世・戦国時代の関宿
関宿は関東平野の中心に位置し、江戸時代に商業的水運が盛んになる前から内陸水上交通の要衝として重要な地点だった。
1455年、簗田持助が下総国関宿に配されて以来、簗田氏が古河公方足利氏の筆頭家臣として築城、河川水上交通も掌握し、代々この地を治めた。しかし戦国時代、小田原北条氏が力をつけ北関東まで手を伸ばそうとすると関宿が邪魔になる(欲しくなる)。北条(氏康・氏政・氏照)は重ねて簗田晴助(上杉謙信・佐竹義重が支援)を攻め(関宿合戦)、最終的に関宿は北条氏のものとなった。

1590年北条滅亡、家康が関東に入ってからここには家康の異父弟、松平(久松)康元が入城、関宿藩を興す。
その後は、松平(能見)、小笠原、北条氏重、牧野、板倉と譜代大名が入り、1669年、久世広之が5万石で入る。広之は徳川家綱の下で側衆、若年寄、老中を歴任した。
久世氏は広之の子である重之の代にいったん備中庭瀬藩に移るが、22年後に牧野氏(前出の牧野氏とは別家)に代わって戻り、以後5万8千石の関宿藩主として明治維新を迎えた。関宿の久世氏は前期、後期あわせて9代。
 12:18
江戸時代の関宿 城下町と河川、堀
12:23
久世氏家紋入りの膳と鎧
久世氏は広長が家康の祖父・父である松平清康・広忠に仕え、その孫・広宣が家康に仕えた。広宣の三男広之が秀忠・家光に小姓として近侍し出世、1648年には1万石に達して譜代大名となった。その後も順調に加増され、1669年に下総国関宿藩5万石の藩主となり、若年寄、老中をつとめた。

久世氏は9代藩主・広業の時代に明治維新を迎え、明治2年版籍奉還で藩知事となった。
明治4年の廃藩置県で免官、明治17年の華族令で子爵に列した。
その名は文京区鷺坂の上、小日向の高台に久世山として残る。ここは関宿藩の下屋敷であった。代々の墓は巣鴨の本妙寺にある。この寺は行ったことがあるが気づかなかった。

現当主は12代・久世康生氏(1941~)。ネットを見たら2019年度の関宿城博物館友の会の総会で顧問として挨拶されている。
先月、文京区での全国藩校・藩主サミット2023にも当主として名前があったので出席されたと思われる。

そういえば鈴木貫太郎も学んだ久世小学校。関宿久世尋常高等小学校が関宿町立関宿国民学校と改称し久世が校名から消えたのは、現当主が生まれた昭和16年である。

郷土の偉人・鈴木貫太郎は記念館だけでなく、この博物館でも顕彰していた。
12:20
鈴木内閣は文字通り終戦内閣で、終戦と同時に(玉音放送の後)総辞職した。
祖先の故郷関宿に移ったのは1946年6月二度目の枢密院議長をおえたあとである。
(枢密院は1888年(明治21)から1947年まで存在した天皇の諮問機関)
関宿をとりまく広い河川敷を乳牛の牧草地とするよう提案した。

私は偉人の遺品より古地図を見るのが好きだ。
12:20
「せきやど」絵図
利根川は「ひたち川」と書いてある。「ひ」は「飛」の江戸かなである。
江戸川は「ゑと川」。
二か所の「わたし」には船頭と客が二人乗った渡し船が描かれ、「御城」には三層の天守がみえる。「たいまち」「ゑとまち」は、それぞれ朝降りて、帰りに乗ったバス停の名前として今も残る。
「志ようふくじ」は昌福寺?「そふゑいし」は宗英寺だろうか?「せい連んし」、「やくし」は分からない。見ていて飽きないが、江戸かなを勉強しておくべきだった。

江戸川は江戸に行く川として上流の人が名付けたのだろうが、「ゑと町」はこの川の名から付けたのだろうか。
12:22
家臣たちの屋敷も書かれた城下の図
黒い部分は細いので堀ではなく、土塁(堤防)か斜面を表したものだろう。
逆川が利根川と書いてある。対岸は山王村と読める。
12:27
もっとも正確な関宿城の図
天神曲輪、発端曲輪がよくわかる。
今の川筋も描かれていて、本丸、二の丸の4分の3が川(堤防)になってしまった。

12:28
芸州浅野家に伝わった関宿城下図
これも逆川(今の江戸川)を利根川としている。
当時は今の利根川を常陸川といっていたのだろう。

博物館から外に出ると、誰もいなかった正面の広場にバイクのグループが来たところだった。今日は平日だが、在宅勤務なのかな。このあたり電車では不便だが、バイクだと堤防道路を走ったりして面白いかもしれない。
12:39
正面広場の東に売店があった。
江戸の絵図など他の城址公園にあるようなお土産のほかに、地元の人が持ち込んだ野菜も売っていた。なかに正月に食べるヤツガシラがあった。来年埋める種芋として買おうかなと思ったがやめた。

帰りは堤防の草深い斜面でなく正しい道路を下りた。
博物館のしたに食堂があった。
12:40
けやき茶屋
博物館周辺ではもちろん、人家もまばらな今の関宿城下では唯一の飲食店かもしれない。
店名の二本の欅はまだ若い。堤防と博物館ができたころ植えたものだろう。
かつての多くの食堂のようにラーメン、カレーなどのメニューが外から分かった。
昼食時ではあったが、まだ腹は減っていない。

けやき茶屋から本丸跡に向かって歩く。
12:41
ここは堀(沼?)のあとだろうか。
古城どころか物寂びた古い町並みもない。栄華のあとを詠んだ「国破れて山河在り」、「夏草や兵どもが夢のあと」などという言葉よりも、むしろ、きれいさっぱり農地と堤防になったぶん、現代的な、明るい感じがした。
12:51
八千代牛乳高木牧場の近くの看板をまた写す。
12:57
大手門跡の看板
これも来るとき見ているが、古地図が好きなので拡大してまた写す。
今や影も形もないが、大手門の土塁の幅は8メートルあったらしい。
大手門は外堀を挟んで日光東往還に向かっていて、関宿城の表玄関だった。
13:17
江戸町バス停
かつて関宿一番の繁華街も今は誰もいない。
向かいの商店もやっているのかいないのか分からない。

東武動物公園行きは1時間に2本。
最寄りの鉄道の駅に行く唯一のバスの本数としては少ないが、乗る人もいないのだろう。これが今の関宿である。
しかしバス停にベンチがあり、その前の民家がバス待ち客に深い軒先を貸しているところなど、かつて栄えた首邑の品格と考えられなくもない。


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