5月12日、熱海に行く途中、1時間半ほど大磯を散歩した。
大磯発12:32の電車に乗ったが、熱海駅には14時半に着けばいいので、さらに途中下車する。
大磯の隣は二宮駅。
12:37
二宮という地名を知ったのは大学に入ったころ。東大農学部の付属農場の所在地だった。農場としては東京の田無が有名だが、二宮にも付属果樹園があった。
今回行ってみようかな、と思って調べたら、なんと閉鎖されていた。
東大果樹園はミカン栽培に適した場所として1926年(大正15年)に開園。
しかし2008年3月に閉鎖。
その後、東大から町へ10億円で売却したい打診があるが町は予算がなく購入を断念。さらに東大が5億円に値を下げ、2013年、町が購入したらしい。
東大果樹園正門(二宮町公式サイトから)
https://www.town.ninomiya.kanagawa.jp/0000000694.html
さらに調べると東大は明治26年、駒場の土質が果樹園に適さないことから、神奈川県橘樹郡大師河原村(現川崎市)に1町4反歩の大師河原果樹園、さらに大師河原果樹園が水害を被ったため、新たに明治32年、東京府下荏原郡六郷村(現大田区)に1町2反歩の六郷果樹園を設けた。(当時、多摩川の下流はナシの産地で、子規の句に、川崎を汽車で通るや梨の花 がある。)
その後、東大はミカンの経済的栽培をめざし大正14年から3回にわたり二宮の園田孝吉男爵別荘(諏訪脇)、隣地の水田(栗谷前)併せて4.6 ヘクタールを購入、果樹園を造成し、先の2つの果樹園は閉鎖した。
さて、二宮では閉鎖された今も戦前の歴史的建造物が残る。
最古は大正時代に園田男爵が建てた家屋を転用した肥料舎。また、震災後に東大の重厚な校舎を多く設計した内田祥三が監修したとされる建物も3棟現存。
さらには古墳時代の横穴墓が53基、また戦時中に米軍の相模湾上陸に備えて掘られた陸軍の洞窟陣地も敷地内にあるらしい。
これはぜひ行かなくては、と思ったが、どうも二宮町がまだ整備中であり公開されているかどうか(建物は立入禁止だとしても、近くで外観だけでもみられるのかどうか)分からない。門だけでも見れればいいかと思ったが、地図を見たら駅から大分離れている。
今回は残念だが断念した。
他に二宮というと神社があるはず。
相模国一之宮は寒川神社だが、二之宮は知らなかった。これも調べると川勾神社(かわわじんじゃ)。しかしこれも地図で見たら遠かった。断念。
ちなみに相模三之宮は比比多神社(ヒヒタノ、伊勢原)、四之宮は前鳥神社(サキトリノ、平塚)、また一国一社の八幡宮として平塚八幡宮が五之宮格とされる。
12:38
二宮駅から東大果樹園跡、川勾神社のある北側を見る。
すぐ次の電車が来たので12:44に二宮を後にした。
二宮の次は国府津。
12:49
国府津駅が近づくと車窓から海が見えた。
12:49
ホームからもよく見える。
降りよう。
退職前の職場が大宮の先だったから、帰宅時は上野東京ライン、湘南新宿ラインをよく使った。この2つの列車の行き先は、熱海、小田原、逗子などのほかに国府津が多かった。
毎日、夜の大宮のホームで列車を待ちながら、どんな駅かと思っていたが、来てみるとほとんど乗降客がいない。
12:51
そしてホームが異常に長い。
しかも3面5線ある。
出口はその長い西の端にありずいぶん歩いた。
この長さは歴史的な意味があるのだろう。
1872年に新橋ー横浜が開通した東海道線は1887年、国府津まできた。そのあと難工事が予想された熱海方面にはいかず、大きく北に曲がり御殿場、沼津を経て2年後の1889年に静岡まで開通した。
国府津から御殿場までの区間は勾配がきついため、列車を後押しする機関車を連結することとなり、国府津は機関車の基地としても重要な駅となった。
その後、東海道線が小田原・熱海まわりとなり、国府津は御殿場線との乗り換え駅となったが、駅周辺は全く発展せず、それにもかかわらず、今も上野東京ライン、湘南新宿ラインのターミナルなのはこのホームの長さ、多さが関係するだろう。12:56
改札を出てすぐ機関車のレリーフがある。
「国府津駅開業100周年記念 明治20年7月11日開業」
国府津の一番の名所はこれかもしれない。
12:57
駅前広場の南側から海が見えた。
地図によれば住所は小田原市である。
波打ち際まで行ってみよう。
12:58
国道1号線と海。
と思ったが、国道まで出ると、道路を渡って海まで降りる適当な道がない。
簡単に諦めた。
しかし名前は国府の港(津)である。
相模の国府はここだったのだろうか? 国分寺もあったのだろうか?
駅そのものは山と海に挟まれているが、西のほうは酒匂川の平地が広がる。
調べるとそもそも相模の国府はどこにあったかよく分からないらしい。
相模は今の神奈川県から川崎と横浜(ともに武蔵)を除いた地域だが、それは律令制以後のことで、記紀によれば、第13代成務天皇の時代(実在したとすると古墳時代)には、相武国造(さがむのくにのみやっこ)の領域(相模川流域、県中央部)と師長国造(しなが~)の領域(酒匂川と中村川流域、県西部)に分かれていたとされる。(同様にのちの武蔵は3人の国造がいた)。
ふつう国府の近くにあるはずの相模国分寺は海老名にあるが、国府の遺構は発見されていない。いっぽう、小田原の東、酒匂川東岸にあった千代廃寺も国分寺だったという説があり、国府津の「国府」は小田原・酒匂川流域を中心とする師長国の国府という意味かもしれない。が、よく分からない。
千代廃寺のあった場所は国府津駅のすぐ西で、下府中、上府中という地区に上府中公園、下府中小学校もあるが、かみふなか、しもふなか、と読むらしい。
結局、国府の海まで行かず駅まで戻ってきた。
12:59
国府津駅舎
ふつう駅ビルと言えば、町一番の人の集まるところだから商業施設がメインである。しかし国府津駅の場合、1階の改札付近のみが駅利用者が来るところで、残りは4階分すべてJRの管理施設となっている。鉄道の町といっていい。
13:01
切符売り場の横に「こうづの思い出 エピソード展」と題して利用者の体験談などが貼ってあり、しばらく足を止めて読んだ。
次の電車は13:04,13:10とあったが両方とも小田原どまり。
国府津の次の鴨宮は何もなさそうだし、次の小田原も二回歩いてブログにも書いたし降りる気はない。
そこでベンチで待って13:20の熱海行きに乗った。
発車メロディーは「みかんの花咲く丘」。
(ちなみに隣の二宮は菜の花畑の「朧月夜」、次の次の小田原は「お猿のかごや」。)
根府川で降りた。ここも小田原市。
根府川駅は海のすぐそばにあり、以前熱海に来たとき景色のいい駅だと思っていた。
地図を見れば箱根外輪山が相模湾に落ちていく中腹にある。
崖を削って道と線路を作ったようなものである。
13:38
ホームから改札口に向かう跨線橋の上から相模湾を見る。
駅舎は線路の山側にあるから当然、ホームより高いところにある。
ホームは2面3線。
1番線がなく、駅舎のある左(山側)から2~4番線である。
小さな改札を出る手前に石碑があった。
13:38
関東大震災殉難碑。
「殉難」は殉職や殉教と違って職務中に死んだ人でなくても使うようだが、1973年に駅職員一同で建てたらしい。
根府川は1923年の関東大震災の時、土砂崩れがあったことで知られる。住民289人が命を落とした。
また地滑りは直下を走っていた国鉄熱海線(現東海道本線)の根府川駅を襲い、停車中だった8両列車の6両が飲み込まれ、駅舎、ホームもろとも海中に没し、131人がなくなった。列車は昭和になって引き上げられたが、今も海中にホームなどが残るという。
東京にいると本所被服廠に集まった数万の避難民が四方を炎に囲まれ焼け死んだ惨事などが大きすぎてつい根府川のことなど話題にならないが、震源地は相模湾だったのである。
(ちなみに内閣府の防災関連広報誌「ぼうさい」106号で根府川駅列車転落事故のことが書いてある。
「現在の根府川駅は2・3・4番線がありながら、1番線が存在しません。これは当時もっとも海側にあった1番線が列車とともに海中に流れてしまったためで、わずかにホームの名残を残す石積みが確認できます。」
これは嘘である。
駅のホーム番線は駅長室に近いほうから番号をつけ、実際今の根府川駅は山側から2,3,4と並び、1番線は山側の貨物線であったものが使われなくなっただけである。)
13:39
JR東日本管内の東海道本線では唯一の無人駅。
日本一豊かなところを走る東海道線は、西のほうへ行っても愛知県の西小坂井駅まで無人駅はない。
無人改札の向こうに海が見えた。
根府川駅周辺かと思ったら小田原市街に隣接する早川から根府川までのウォーキングトレイルだった。かろうじて左の端に根府川駅がある。
13:41
駅の近くに寺山神社と釈迦堂があるようだ。
行ってみる。
歩く道は県道740号だが、線路の下の海側を走る真鶴道路が2008年に無料開放されるまで国道135号線だった道である。車も少なく山村の旧街道のような雰囲気。
旧街道と言えば少し北西の新幹線のそば、白糸川に根府川関所跡がある。東海道は小田原を出るとずっと北の箱根を通っていたから、この道は小田原と熱海・伊豆を結ぶ道で小田原藩が管理していたらしい。
13:44
寺山神社の前から海側に降りる細い道に釈迦堂の案内石があった。
関東大震災の慰霊碑があるらしいので降りてみる。
13:48
脇の夏ミカンの木はほとんど管理放棄された感じで、昨年の実をつけたまま新しい花を咲かせていた。次の代が実をつけても先代が残る「ダイダイ」である。
遠くに白糸川を渡る東海道線の橋梁と相模湾が見えた。
しかしずっと道は下り坂だが釈迦堂がどこだか分からない。
さらに進めば、坂を上がってくるのがきつくなるのでここで諦め、来た道を戻った。
13:54
駅の近くまで来るとホーム越しに海が見えた。
また似たような地震が起きたら駅舎ごと国道に、あるいは海中に滑り落ちるだろう。
それは仕方がない。
景色の良いところは災害に弱いものだ。
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