2024年5月9日木曜日

駒場4 裏門からトレーニング体育館、プール跡まで

連休終盤の子供の日、暇なので千駄木から千代田線に乗って初めて代々木八幡宮にきた。

そのまま山手通りを48年ぶりに東大駒場の裏門まで歩いた。

2024₋05₋05 15:47
裏門は思ったより小さい。
しかし移動新設した跡もなく、記憶というのはそんなものか。
用はないが、せっかく来たので入った。
15:48
裏門に一番近いトレーニング体育館がなくなって新しい建物を作っていた。
2017年に来たときは懐かしい景色だったのに。

向かいの体育館も新しくなっている。
15:48
第一体育館(奥)と第二体育館(手前)
これらも2017年にはなかった。
男女学生が縄跳び(ダブルタッチ)の練習をしていた。この日は子どもの日、大学が休みなのになんでこんなに学生がいるのか、五月祭の出し物だろうか。

駒場キャンパスは、1983年4月の薬学会、88年10月の生化学会に来ているが当時は何の印象もなかったから、まだ大した変化はなかったのだろう。
2000年3月は駒場IIキャンパスが宇宙航空研から生産技術研、先端研に変わっていて、そこで行われたシンポジウムに出たついでに学内を歩いたが、まだ駒場寮は存在した。

しかし2008年4月、薬学同窓会が学内レストランのアブルボアで開かれたとき、寮はなかった。会は夜だったため散策しなかった。

そして2017年6月、渋谷から旧前田邸まで歩いたとき学内を突っ切ると、寮の跡地に新しい図書館、カフェレストラン、コミュニケーションプラザ(生協、部室)などが立ち並び、すっかり変わってしまったキャンパスに驚いた。しかしその時でも体育館、トレーニング体育館は昔のままだった。(過去のブログ)
2017₋06₋03
旧体育館
2017₋06₋03
トレーニング体育館
1975₋1₋20撮影、国土地理院

トレーニング体育館の裏のグラウンドはさすがに昔のまま。
15:49
体育は学期ごとに選んで毎週同じ種目を習う(遊ぶ)。
2年間で4種目体験できる。私はトレーニングを2回と、テニス、卓球を選んだ。
トレーニングでは室内で重量挙げなどもあったが、グラウンドの日もけっこうあった。ある日、1000とか2000mをできるだけ早く走るのではなく、5分間、10分間でできるだけ距離を走り、その距離の伸びを見るというプログラムがあった。ちょうどその直前だったか数日前だったか献血したあと走ることになり、走っていたら様子がおかしくなり、倒れはしなかったが、手がしびれてきた。今でも、陸上選手が血を抜いて行うトレーニングや、高地練習、輸血ドーピングなどの話を聞くたび、このときのグラウンドの景色を思い出す。
15:50 学生会館
ここは昔のままだが、あまり思い出もないので入らず。

南隣の生協(食堂、購買部)があった敷地には、21 Komaba Center for Educational Excellenceと、呼ぶとき困るだろうな、という新しいビルが建った。
その裏にまわってみる。
15:51
左の8号館、木の向こうの9号館は昔からあった。
その後ろの高いビルは18号館という。
木の北側、9号館の東が生協食堂だったか。

9号館の北に回ってみた。
15:53
このあたりに25メートルプールがあった。
保健センター裏の森で棕櫚の幼い苗をみつけ、鉢に植えるときにこのあたりの土をとった。77年3月に寮を出て本駒込のアパートに引っ越したとき、棕櫚の鉢も大事に持って行った。
1979₋10₋08撮影 国土地理院

近年、都会の大学のプールは屋内に作られる。
木々に囲まれたプールを見るようなことはもうないだろう。

プールの先、9号館とグラウンドの間に古典ギター愛好会の部室があった。一階しかない小さな「小屋」なのだがトーチカのようにコンクリート作りという珍しい建造物だった。1年間在籍し、半年ほどムソルグスキー(ラベル編曲)の「展覧会の絵」を練習した。

密かに期待して来たのだが、やはり部室は跡形もなかった。戦前、放射線の研究でもしていたのではないかと思うほどの厚いコンクリート壁の小さな遺物で、古さは旧トレーニング体育館どころではない。
2008年の薬学同窓会のとき、やはり古典ギター愛好会にいた田中淳二氏が会の前に散策し、部室が残っていた、と言った気がする。
15:54
プールがあったあたりを振り返る。
おそろいのTシャツを着た学生が看板か何かを作っていた。

8号館と9号館の間の道を西にいく。
かつて昼時になると教室から食堂へ向かう学生たちでにぎわった道だ。
15:57
5号館。左は7号館
自然科学は2クラス合同で、このどちらかの建物で受けた。
入ろうとしたが鍵がかかっていた。まあ当然か。
昔は休日でも開いていたのだが。
15:58
5号館(右)、6号館(左)、7号館に囲まれた庭。
昔は植込みのところが芝生だった。
1975年3月、入試のとき、ここで剣道班の由井、吉平、増田、高倉と車座になって、午前のテストの出来具合を話しながら昼飯を食べた。

普通、入試のときは食事などに余計な気を使わないように弁当を持ってくるものだが、高倉は何も持ってこなかった。ひとり生協のほうに歩いて行ってカップヌードルの自動販売機を見つけ、買ってお湯を入れて戻ってきたはいいがフォーク、箸が品切れでなかったそうだ。隣の飲料販売機からストローを2本とってきたが熱で曲がってしまい使えない。全員パンでなく誰か弁当だったら箸を折ればいいが、どうしたか記憶にない。
しかし、みんなに笑われた高倉はちゃんと受かった。由井は信大医学部に行き、吉平、増田は浪人して次の年に入ってきた。

ベンチに座って視線を下げれば少しは芝生に車座した日のことを思い出したかもしれないが、そのまま立去った。

7号館前の銀杏並木通りに出る。
15:58
1号館の北西の隅。ここに電話ボックスがあった。
寮の前にも3台並んでいたが、夜、大事な電話をするときは静かなここまで来た。
15:59
北から覗く1号館の中庭。
銀杏並木から中庭へ入れることを初めて知った。当時中庭は廊下の明かり取りくらいの働きしかなく、誰も入らなかった。

2017年に来たとき、寮や食堂など記憶の深いものほど消え、一方で空き地と森に所狭しと新しいビルが建ち、景色が変わったことを知った。だから今回は、もうこれ以上、奥まで行く気が起きなかった。
正門、900番講堂、旧教務・管理棟(現・駒場博物館)、旧図書館などの建物は残っているはずだが、見たいとも思わず、家に帰りたくなった。
キャンパス滞在時間は13分。

さてどうやって帰ろう。
昔よく炊事門から出て渋谷まで歩いたが、連休中の渋谷駅周辺の混雑はぞっとする。
裏道というか、繁華街を通らず、電車に座って26分、一本で行ける千代田線にしよう。
ひっそりと裏門から出た。
しかし、そのまま山手通りの来た道を歩くのもつまらない。

学生時代、裏門から出ても何もなかったが、代々木公園(プール、スケート)に行くときはここから出た。
48年ぶりにその道を歩いてみる。
一帯は松濤と神山町の高級住宅街である。

(続く)

過去のブログ

0 件のコメント:

コメントを投稿