2024年9月16日月曜日

院展と東京都美術館、谷中の日本美術院

お隣の伊藤さんに院展の招待券を頂いた。

院展は日本美術院の展覧会である。
日本美術院は谷中と縁が深い。
創立者の岡倉天心、初期メンバーの横山大観、菱田春草らは谷中に住み、日本美術院の事務所は、谷中六阿弥陀道の現岡倉天心記念公園の天心邸に置かれた。(明治40年の地図には南隣)。
大正2年、天心がなくなり、事務所は大観らが中心になって大正3年、三崎坂うえ、谷中瑞輪寺の参道西側に移転、今もそこにある。
だから、日本美術院は、この千駄木菜園のブログ、散歩編「お出かけ・ご近所」カテゴリーに何度も出てきた。

(谷中というのは、東京美術学校に対抗した明治美術会(中村不折、浅井忠、荻原碌山ら)の後身、太平洋美術会のゆかりの地でもあり、事務局は戦前に谷中真島町、今は西日暮里・富士見坂にある)

さて、谷中三崎町に移転した大正3年(1914)、大観らが中心になって日本美術院を再興し(このとき洋画部、彫刻部もできたが、その後日本画だけになった)、その年、日本橋三越で展覧会を開いた。これが再興第1回院展で、今年が再興第109回である。
2024₋09₋15
会場は東京都美術館。
ここはロビー、レストランなどは展覧会入場者でなくても利用できる。西洋美術館などもそうだが、なぜかこちらのほうが入りやすい。無料で休憩できるベンチ、椅子も多く、学生時代から上野公園を散歩するときはふらりと立ち寄ったりした。
11:50
入り口は地下。
地下にすることで外光が入るフロアが1つ増え、建物全体の高さを抑えられる。
1926年実業家佐藤慶太郎からの寄付を受け、日本初の公立美術館として開館したが、老朽化のため、1975年前川国男設計で新しく建て直した。
企画展は入口の東側、また、普通の展覧会は西側の公募棟で開かれる。公募棟は地下1階(ロビー階)から地上2階まで、公募展示室が4つずつ、全部で12ある。

メインの公募展示室は公募団体と学校教育機関に貸し出し、地下2/3階のギャラリーA、B、Cは。3人以上で展覧会の「企画案」を持っている個人グループに貸し出すという。
年間260もの展覧会が開かれ、「公募展のふるさと」といわれるらしい。
11:51
ロビー階・公募展示室のホワイエ
2012年に改修したというが、この景色は1980年ころと変わらない。

11:50に待ち合わせであったが、少し早く着いたらしい妻がカフェで座れたとラインに入ったので急ぐ。レストランミューズは行列ができていたが、ここ(カフェ・アート)は2,3人待って座れたという。院展の最終日前日というより3連休の中日のせいか、どこも混雑している。客の回転はレストランのほうより速いから、こちらで正解。
11:58
カレー 950円
配膳下膳と水はセルフ。
ここは精養軒が運営している。窓の外には奏楽堂が見える。

あっという間に食べ終わり、館内を少し見た。
レストランの行列はさらに長くなっていた。

院展は公募式・日本画の展覧会である。
公募だから誰でも応募でき、審査され入選すれば展示してもらえる。

院展は初めてだが、日本画は好きである。
大観、春草、前田青邨、下村観山、鏑木清方、東山魁夷、平山郁夫など、好きな絵はみな日本画である。
日本画は墨、岩絵の具、和紙、絹を使うというのが条件らしいが、写真のような写実を追わず、陰影がなく、表現が簡潔というのが、いかにも和食、数寄屋建築にも通じる、さっぱりとした味になっている。

初めて日本画展を見たのは、奇しくもここ、まったく同じロビー階の公募展示室だった。
池田さんと付き合い始めたころだから大学院の2年生、1980年9月か10月、公園内をぶらぶらしながらたまたま建物に入って無料の展覧会があったから覗いただけだった。
しかしいい絵がいっぱいあった。田植えが終わったばかりの田んぼの水が感動するくらい緑の中に光っていて、まだ覚えている。特に絵に興味があったわけでないから、作者の名前も見ず、もう一度見たいが手掛かりがない。
44年前、あれは何の展覧会だったのだろう? 院展のように150号のような大きな絵ではなかったが、レベルは高く、しかし無料だった。(院展は1000円)
妻に当時のことを聞いても、彼女はホワイエの椅子で居眠りしたことしか覚えていなかった。

ちょっとわくわく緊張しながら入っていく。
いきなり日本美術院賞(大観賞)・東京都知事賞の絵が目に入ってきた。
12:19
「井の頭(11)―樹下生生(せいせい)」樋田礼子

絵はどれも大きい。
150号(長辺が 2.27 メートル)
描くほうも飾る(見る)ほうも大変だから、もっと小さくても良いと思うのだが。

12:30
今回私が一番気に入った作品。

ジャンルは日本画でも、例えば、逆光に立つ暗い女性とか、水中に魚と絡む人間とか、変な形の木とか、夢の中のような、つまり、絵の意味が本人しか分からないような作品は苦手である。私は、単純に、きれいだと思ったものを再現しようと描いたのだろうな、というような分かりやすい絵が好きだ。
自分の好きなものを描いて売れるに越したことはないが、人に見せるなら自己満足だけではダメだろう。
12:55
日本画であるが題材が現代風。
巨匠らの時代からみると、日本画も変わってきた。
しかしこの作品は嫌いではない。
技術や色彩感覚、構図は、どの作者もすぐれているから、題材の選び方が大きい気がする。

2024年、復興第109回院展は、同人33、一般(アマ、プロ、無鑑査作品も含む)が243、合計276作品が、展示された。
ここで同人というのは日本美術院のただの正規会員というわけでない。入選すると初めて「研究会員」(現在570名)となり、その後も入選や受賞などキャリアを重ねることで「院友」648名、「特待」160名、「招待」2名とステップアップし、最後に「同人」(37名)となれるらしい。

ちなみによく聞く日展は日本美術展覧会のことで、院展と同じ公募展である。1907年(明治40年)に始まった政府主催の官展の流れをくむ。かつては文展(文部省美術展覧会)、次に帝展(帝国美術展覧会)と呼ばれたが、戦後1946年民営化されてから日展となった。第1回文展から数えれば2024年で117回である。こちらは日本画だけでなく、洋画、彫刻、工芸美術、書の5部門がある。2006年まで東京都美術館で開催されていたが、改修工事を機に、広い六本木の国立新美術館に会場を移した。

同じく公募展の二科展は、1914年(大正3年)文部省美術展覧会(現日展)から分離独立したもので、絵画、彫刻、デザイン、写真の4部門からなる。こちらも国立新美術館。

この日は、院展がロビー階(B1)の4つの展示室全部を使っていたが、1階、2階は主体展、水彩人展、全展、新院展などが開かれていた。無料の展覧会も多く、ギャラリーでも何かやっていた。しかし疲れたので、次回上野に来たときは覗いてみようと、帰宅した。

夕方、翌朝のパンとレタスがないことで買い物を頼まれ、不忍通りまで降りた。
ついでによみせ通りから入ったところにある日本美術院ゆかりの谷中八軒屋跡の写真を撮って来た。
16:51
谷中八軒屋跡
月に1回くらい日暮里駅、谷中方面に行くときの通り道。
明治31年、岡倉天心は校長だった東京美術学校を排斥され、同時に連帯退職した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らと日本美術院を立ち上げた(谷中、大泉寺)。そしてここに8軒の茅葺住宅を建て、大観、観山、春草、西郷孤月、寺崎廣業、小堀鞆音、岡部覚彌、剣持忠四郎の8人と、その家族が住んだ。ここでの生活は困窮を極めたらしい。

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2024年9月13日金曜日

岩船部落の変化、有線電話、町田マケ、岩船地蔵

8月15日、母の新盆で中野市岩船の実家に帰省した。

新鮮屋小田切牧場直営おたぎりで会食のあと、岩船の家でまったりとお茶を飲んで過ごした。信州と言えど猛暑のため、全部で9人がエアコンのある一部屋にいて、世間話でお茶を飲んだ。こういう状況は退屈なので、一人居なくてもいいだろうと、そっと抜け出した。

来るたびに変わっていく岩船の部落内を歩いてみたかった。
お墓や二か所の田んぼに行く南の道をいく。

数年前まで畑だったところに家が何軒も建った。
2024₋08₋15 14:21
実家のほうを振り返る。
左は我が家の畑「もこやしき」(向こう屋敷の意味)
右は近藤忠雄さんちの畑だったが、彼らは以前から畑を切り売りしていて、とうとう集落近くの畑も手放した。
ベージュ色の物置が我が家。
カーブのクルミの木に隠れて頭だけ出ているのがモコノチ(向こうの家)の新しい物置。

同じ場所の昭和34年の写真がある。
昭和34年正月 2歳5か月
道は狭く、両側に小さな川があった。
左の屋根は我が家。右の家はモコノチ(小林利徳さん)の古い物置。
近藤さんちの田んぼ
今や、ここは新しい家が立ち並び、もう向こうの町田良晴(弘治)さんの家は見えない。

岩船という部落は江戸時代から昭和40年代まで、ずっと農家ばかり50軒ほどだった。
(明治15年、54戸)
(昔はこの戸数で高井郡岩船村と称したが(のち下高井郡)、明治22年に、岩船、江部、吉田、片塩の4か村が合併し、下高井郡平野村となる。戸数は順に52、124、104、83であり、合併後の平野村は363戸、1819人だった。1954年に平野村を含めた1町8ケ村が合併し中野市となる)

私が高校生だった1970年代前半まで岩船の景色は、おそらく、明治のころとそれほど変わっていなかったと思う。もちろん、物置や母屋を建て替える家が増え、田んぼにもビニールハウスができ、道路も少し広くなった。
しかし、戸数も家々の場所も変わらなかったからだ。

それが、部落の東端、すなわち信州中野駅の裏、リンゴ畑だった地域に新しい家がぽつぽつでき始めた。

決定的だったのは平成元年(1989)の駅西口の区画整理である。
一輪車くらいしか通れない道ばかりだったリンゴ畑に広い道が縦横に通り、我が家も二か所に離れていた畑が面積は少なくなったものの一か所になった。そして駅に近い住宅地に変貌した。
1988(昭和63)年8月、区画整理前。

ほぼ全戸が農家だった岩船も、高齢化と後継者不足で農作業が苦しくなっていた。その結果、この地域に畑を持つ家は土地を手放し、多くが住宅、アパートとなった。我が家も5世帯が入るアパートを1棟建てた。

その結果、江戸時代から変わらず50世帯だった部落が、わずか10年20年で400世帯を超えたのである。新しい住人は飯山、山之内などの豪雪地帯から降りてきた人もいるだろうが、中野の若い人も多かった。新婚夫婦はかつてのように親と同居せず、別居する。岩船は駅や町に近かったからアパートを建てればすぐ満室となった。戸建てを新築する若夫婦もいた。スーパーや多くの医院も、土地に余裕のない旧市街地を避けて、岩船に開業した。

一気に住宅地になったのは集落の上(北)、リンゴ畑のあった駅のほうだったが、その地域がいっぱいになると(売り切れると)、駅からは遠くなるが集落の下(南)、かつて田んぼだったところにも新築住宅が建ち始めた。それが最初の写真、近藤さんちの田んぼなどだ。

新しい宅地はリンゴ畑の駅西側だけでなく集落を飲み込んで周囲に広がり、景色の変化は村中に及んできたのである。
いつも駅から実家まで歩くだけだったが、今日は村中をあるいてみる。

田んぼのほうへ行く途中にお墓がある。
14:23
お墓は変わらないが、道路を広げるため、道の反対側のきれいな川が暗渠となった。

お墓から南西(たんぼ)のほうは、武田さん2軒、近藤さん、武士辰一さんちがあったが、アパート「かさだけ」2棟はじめ住宅が立ち並び、武士さんちは息子が帰らなかったため、アサコさんが亡くなると敷地を売りに出された。同級生の武士哲子ちゃんがいたからよく遊びに行った。おじいさんは学校の先生をしていた方で庭がきれいで屋根付きの池には大きな鯉がいた。

そちらには行かず、北に曲がる。
お墓の北は山浦さんち。
14:24
山浦堯昭さんち
志賀高原にロッジを経営していらした?関係か、古くから電話をもっていらした。
1965年、真(まこと)叔父が亡くなり、その連絡が山浦さんのところに来て、電話のない我が家に知らせてくださった。

中野市というのは、早い時代に全戸に有線電話網を敷いた。農協が中心となったのだろうか。そのあたりの事情はよく分からない。
我が家は「108の7番」で、かかってくると電話機が「7番、7番」と連呼するから、受話器を取り上げる。この声は第108回線の数軒~10軒の電話機で一斉に連呼された。
こちらからかけるときは(電話機にダイヤルがないから)交換士に「104の6番おねがいします」などという。

それが小学校高学年のころだったか、ダイヤル式に変わり、交換士の声は消えた。我が家は25443だった。いま中学校の1971年卒業名簿で番号を確かめた。クラスのほぼ全員に一般電話でなく5桁の有線電話番号が載っていた。
ダイヤル式の有線電話は、何か操作すれば一般電話に接続可能だったようだが、当時、ほとんどの家は農家だったし、人の交流は市内に限られ、市外に電話する必要もなかった。

その後、我が家もようやく一般電話が入った。しかし有料だったから(当たり前)、市内にかけるときはタダ(定額)だった有線電話のほうを皆使い、一般電話をかけることはほとんどなかった。
高校の名簿を見ると我が家は現在の実家の一般電話の番号であるが、1974年当時、松代や川中島の友人の家は依然として有線電話の番号が載っていた。

山浦さんちの道を挟んで東は武田晉一郎さん宅。
中野の町に花屋さんを開いていらした。屋敷の南のブドウ畑(すなわちお墓の東側)は早いうちに売られて宅地になってしまった。

その北は武田佳三さん宅だが、あまり記憶がない。
その北は武田英雄さん。祖母の妹が、姉と同じように戸狩から岩船に嫁いだ家で、つまり当主は私の父の従弟であったはずだが、あまり交流はなかった。
14:26
武田英雄さん宅跡
姿のいい家だったが、母屋を含めすべてなくなり、アパートになっていた。
道路が広げられ、全く景色が変わった。
彼らはここに住んでいるのか、どこかに転居したのか知らない。

武田英雄さん宅の西、すなわち山浦さんの北は中島広茂さん宅。
14:27
中島広茂さん宅(左)と岩船公会堂(向こう)
中島さんちの屋号は「油や」だった。
同級生はいなかったが、不思議なことに、山浦さん宅同様、庭の様子はよく覚えている。
違う学年の子と遊んでいたのか、あるいは子どもの特権で一人でも庭に入っていったのか、記憶にない。
江戸時代からずっと入れ替えなく50軒しかなければ、部落内の各家の構成は大体知られていた。つまり当時はどこの家の子供か、だいたい分かったし、畑からそのまま地続きで屋敷地に入ったりできた。私は池の鯉やサボテンなどが好きだったから、よく他の家の庭に入り勝手に見せてもらっていた。

油やは道路を挟んで昔の岩船公会堂と向かい合っていて、道路との間には割と浅くて広い川があった。
当時、毎月廃品回収があり、リヤカーで公会堂まで集めてくると、参加賞のアイスクリームをもらって解散する。私はひとり帰らずに漫画本をずっと読み続けた。腹が減っていったん家に帰ろうとして、ふと油屋の裏の川を見ると、白いボールが一つ沈んでいた。この日、
皆がもらったアイスクリームだった。ゴム風船に入ったようなものを、少しずつ融かしながらシャーベット状のものを吸い込むのである。喜んで拾い上げ、食べようと輪ゴムを外すと、風船が縮み一気に中身が川にこぼれてしまった。

岩船は湧き水が豊富な部落で、普通に歩く道にある、どの川も水が(大げさでなく)そのまま飲めるほどきれいだったが、だんだん水量が減って汚れた。この道は平野小学校のほうへ行く部落内唯一の幹線道路だったから、いまや道路を広げるために、すべて暗渠になってしまった。

道路拡張は暗渠にしただけでは済まず、道の北にあった岩船公会堂は、少し西の道路の左、かつては消防ポンプを積んだリヤカーの倉庫だった場所、つまり油屋の西どなりへ建て替え移転した。(写真)
14:27
火の見やぐらも少し場所が動いたか?
櫓の下をコの字型にめぐるように流れていたきれいな小川が思い浮かぶ。
小さいわりに水量が多く、私の場合「春の小川はさらさらいくよ」の歌を聞けば、この川を思い出す。いまや無残な景色である。

右側は小古井弘さん宅と大きな養殖池があった。
小古井家は江戸時代に寺子屋の師匠をしていたなど岩船村でも名家であったが、最近一家で須坂に引っ越してしまったらしく、屋敷には今誰も住んでいない。この家も同級生はいなかったが、私は庭と池にはよく出入りしていたようで、今でも景色を覚えている。

少し戻り、山浦金二さんの東を入っていく。
このあたり岩船の中心である。
14:27
正面は町田喜代治郎さん宅
ここの憲一君は中学の同級生。
長屋門は、駐車場を確保するためか、東半分が撤去されていた。
樹木もめっきり少なくなった。

その手前の東(右)に堺祺佑さんちがあった。
14:28
堺祺佑さんち入口
道の脇にはきれいな川が流れていて、それと隣接して入口にコンクリート製の水槽が作られていた。湧き水は年間を通して15度くらい。夏は冷たく冬は暖かいから洗い物に便利だった。水槽からはこんこんと水がわいていて、夏の暑い夕方、この近所で汗びっしょりで走り回って遊んだとき、その水槽に四つん這いになって顔ごと突っ込んで水をごくごく飲んだ。
その川は暗渠となり、水槽はコンクリートで埋められ、車の通り道になった。

堺さんちは我が家と親せきづきあいしていたせいか、家にもよく上がって息子の堺正衛ちゃんと遊んだ。畳の茶の間に、当時としては珍しくソファーがあった。
中学に入ったとき正衛ちゃんは3年生だったが、とてもハンサムな生徒会役員でクラスの女子が騒いだので、知り合いだと自慢した。

堺さんちの裏に回る。
鬱蒼と両側に木々が迫り、水の湧く池などもあって、岩船で一番、風情のある道だった。
ところが、木は切られ、池は消えて草が生えていた。
14:28
池のあと(右)
坂の向こうは左が武田千吉さん、右が町田正芳さん。
町田正芳さんは祖父のところによくお茶のみに来て、小学生の私の手がしもやけになったとき、石油ストーブの灯油を塗ればいい、と教えてくれた人。

町田喜代治郎さん(憲一君の父)のところに戻る。
14:29
町田家の長屋門は入口部分から西だけ残っている。
小学生の頃は昼間に田んぼや庭先で遊んでいたが、高校を卒業して中学の友人たちと会うときは、夜中まで部屋でおしゃべりすることになる。大人になった町田憲一君の部屋はこの長屋の2階で、母屋から離れているから、居心地がよく、何度か友人たちと集まり、オープンリールデッキでフォークソングなどを聴いた。

14:29
左:中島祥夫さん 右:町田喜代治郎さん
二軒の土蔵に挟まれて、岩船では珍しく昔と同じ幅の道。それでも木々は切られ、景色は変わった。
14:30
憲一くんちの裏。
中学のころ、ここで中島祥夫さんちの塀をバックに憲一君とキャッチボールをした。彼は新しいキャッチャーミットをもってきて、喜代治郎さんが「憲一が新聞配達して自分で買ったんだで」と誇らしげに教えてくださった。町田家は裕福な家であったが、簡単にものを買い与えないという教育方針みたいなものがあったのだろう。

町田憲一君の裏は阿部昭男さん(黄色い塀)。
お稲荷さんのまわりの木々は切られ駐車場になっていた。
14:30
安鎮稲荷大明神
昔から町田マケの人々が祀っているらしい。

「マケ」というのは学校の勉強では一度も出てこず、信州中野あたりの方言かと思ったら、東日本を中心とした全国共通語だった。
マギ、マゲとも呼ばれ、牧、巻きなどと関係あるのだろうか、村落内での同族集団のことを言う。マケの中でも特に近い家々をウチワともいう。これに対し、シンルイは婚姻などで結びついた村落内に限らない家々、クミ(組)は村落内に置いてマケに入らない近くの家ということになる。

葬式、婚礼、家の新築、解体のときの手伝い、お祝い、子どもが生まれた時の天神さんや鯉のぼりを贈るときなど、マケというものが出てくる。田植えなどの手伝い(稲刈りなどと違って1日だけだからお祭りのよう)や、農機具の共同購入にも影響した。

町田マケは岩船で一番大きな集団で、その本家は町田憲一君の家である。中野市では西条部落の関マケが20軒以上あり有名だった。
小林マケは我が家のまわりの4軒の分家を含め、5軒あり(これがウチワでもある)、他に1軒苗字だった堺祺佑さん、武士辰一さん、町田良晴さん(町田マケには入らない)の家々が加わりグループを作っていた。
サラリーマンが増えた現在と違って、1970年代まで先祖代々同じ場所で農業を続けてきた社会では、こうした連合体が村落内での意思決定や活動に不可欠だったのだろう。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/newgeo1952/30/3/30_3_30/_pdf

岩船で一番立派な家は町田忠彦さんの家だった。
「八兵衛さんち」と、先々代?の名前で呼んでいた。
1873年創立の平野小学校(まだ平野村がなかったから4か村組合立の「愛育学校」といった)百周年記念誌には参考文献として町田忠彦氏所蔵の文書が多く使われた。
町田家所蔵文書に明治8年(1875)の欠席届が残っていて、町田八兵衛次男・常治良、小林重治郎長男・安治ら5人が「・・・養蚕田植等につき6月23日より来たる7月2日まで之間休業奉願候以上・・(父親たちの署名印)」とある(記念誌P50)
小林重治郎・安治は我が家の6代目、7代目である。

忠彦さんちは私の友達もいなかったし、専用の道の突き当りにあったこともあり、遊んだことがない。土蔵、物置に囲まれた中庭の光景は記憶にあるから、少なくとも入ったことはある。
もっぱら、親輪舎などにいくときに屋敷の裏を通るくらいだった。
14:33
町田忠彦さん宅、裏。
むかしは家の北側に中世の土豪屋敷の堀のように川があった。ほとんど流れのない静かな川だったが、岩船らしく水はきれいだった。それが他の川と同様、車社会の道を広げるため、すべて暗渠になっていた。土蔵の石垣は往時のままだったが、石垣を濡らしていた堀川部分はコンクリートで埋められていた。

町田忠彦さんちは江戸時代から立派だが、町田マケの本家は憲一君の家、町田喜代治郎さんの家だった。そういえば憲一君の結婚式の仲人は忠彦さんで、先祖代々、分家筆頭として本家長男の婚礼は仲人を務めてきたのであろう。小林マケの例から想像すると、町田マケの各家の跡取りの婚礼の仲人はすべて喜代治郎さんがしたはずである。
14:33
岩船薬師堂
昔、一時的に人が住んでいたことがあった。
ここも町田マケが管理しているようだ。数年前に通りかかったとき、町田憲一君がアメリカシロヒトリが発生した堂の裏の木を消毒しているところに偶然出くわした。

ブドウ畑を行くと県道に出る手前に岩船地蔵堂がある。
ここは南の浄清寺と敷地がつながっていて、間には金比羅大権現、天神さまもある。
14:34
金比羅大権現
6年に一度の岩水神社御柱祭には金比羅船船を歌うが、これがあるからだろうか?
14:34
浄清寺
ここに1年上の、かずえちゃんというきれいな女の子がいた。
話は一度もしなかった。
天満天神
これは地蔵堂(村が管理)、と浄清寺のどちらが管理しているのだろう?
14:35
岩船地蔵尊堂
子どものころ、一人のときは魚を捕りに田んぼへ、三角ベースで遊ぶときは岩水神社のほうに行ったから、ここ地蔵堂境内にはあまり来なかった。
本尊の木像地蔵は行基作というがもちろん信じられない。かつては岩水神社あたりにあったらしいが、度重なる夜間瀬川洪水で流され、1656年この地に移ってきたというのは信じて良い。

昔、池があったあたりに新しい歌碑が立っていた。
月が出ました鎮守の森に
わしら水田(みずた)で蛍追い
チチロ清水の湧くところ
雪が降ります あれあれごらん
わしら川辺にゃ積もりゃせぬ
(岩船小唄)
というが、知らない。

岩船信仰というのは、栃木岩舟を発祥とし、関東甲信越に広く広まっているが、栃木、越後村上、信州中野を3大岩船地蔵とする。以前ブログに書いた。
船乗り地蔵
部落名(明治初めまでの村名)にもなった地蔵だが、この日、初めて見た。

14:36
1766年安置という。木造のほうは本殿にあるのだろう。

家を抜け出して15分、トイレにしては長いからそろそろ帰ろう。
14:37
岩船は3か所にお墓がある。
ぎりぎりまでアパートが建つ。
14:38
お墓を過ぎると、大きくなった高木セイコーの三つ角にもお地蔵さんがある。
ここは昔寂しいところだった。
14:38
子どものころ、このお地蔵さんが夢に出てきたことがある。

14:39
堺さんちの上、町田正芳さん(左)、武田千吉さん(右)の間の道の上まで戻って来た。
武田さんちのケヤキは昔からこの高さに抑えられている。
この暗渠のあとを見ると、いかに岩船は多くの川を埋めたか分かる。

14:40
ここは大黒屋(屋号)という大きな家があり、東京に出て行ったあと、主なき庭にはモミジや棗の木が残り我々の遊び場だったが、早い時期に家が3,4件建った。彼らは古くからの50軒とはほとんど交流はなく、景色だけでなく、住民も変わってきた。

14:41
実家に戻って来た。ちょうど20分。
左は三井典俊さんち。ここの先代は、道を広げるとき池があるから埋めると地盤が悪いと仰り、我が家のほうが敷地を削った。しかしそのあと池を埋められた。

岩船部落は古いだけに、荷車1台が通るだけの道幅しかなかった。その両側に小さな川があり、屋敷地の道路側には樹木が生えていた。車社会になって道を広げるとき、その川、樹木をつぶしたものだから、他の土地と比べて、景色の変化が激しい。
そこに加えて駅に近いということで新しいアパートと新築一戸建てが乱立した。
中学のころ、通学区で唯一、中野の町から出前が取れるという町に近い部落だったが、それが災いし、湧き水のきれいな落ち着いた景色が消えてしまった。

なお、各家の当主の名前は1988年ゼンリン住宅地図によった。もう36年前だから亡くなった人も多い。

関連ブログ

2024年9月4日水曜日

メロンのイバラキング、途中で枯れる


6月にメロンを頂いた。
イバラキングという、全国一のメロン生産量を誇る茨城県が10年以上の歳月をかけ、400通り以上のかけ合わせから選択、育成した高級メロン。アールス型メロン系統の青肉メロンで2010年(平成22年)に品種登録された。漢字で書くと茨城王。

生産農家の直販サイトでは2玉(1.2キロx2)7,280円、大玉(1.4キロ)5,180円である(鉾田、深作農園)

名前通り大きくておいしかった。
食べながら、この種をまいたら発芽するだろうか考えた。
千駄木菜園では、キウリ、ナス、トマトなどの栽培は飽きてきた。
今年はスイカをつくった。
来年はメロンを作ってみようかな。
発芽するかどうかだけ調べてみよう。発芽すれば、この種をひと冬保存して来春にまけばよい。
2024₋06₋30
食べて捨てた生ごみから出たメロン。
時期的に遅いから、発芽率だけ見ようと思ったのだが、いざ、芽が出てくると育てたくなる。
実はならなくとも、来年の為に育ち具合などを下見して起きたい。
トウモロコシが終わった跡地に植えてみた。
2024₋08₋19
育ちが悪く、花が咲かない。
猛暑の影響か?
ウリハムシにもやられている。

大量に発芽したので、アルバイト先の北千住シェアガーデンにも苗を持って行った。
2024₋08₋19
奥50センチx幅100センチx深さ50センチのコンテナに3株植えた。
土が良いのか、日当たりが良いのか、千駄木菜園とは違ってすくすく育った。
6個実が生った。

こんなに簡単に栽培できていいのだろうか?

イバラキングは4月下旬から6月に出荷される半促成栽培が主体で、ビニルハウス内で無加温栽培される。メロンは一般に湿度に弱いため、雨が当たらないビニルハウスは最適である。路地の場合はビニールトンネルをかけ天井を覆い、脇を開けて風を入れる。

今回の私の下実験は、ド素人が、露地で、しかも時期も猛暑の8月、種も生ごみから自家採種。
まともなものができるわけない、来年のための予備検討のつもりでいた。
しかし日に日に立派なメロンになっていく。

ところが、
2024₋08₋31
台風10号の影響で雨が続いた日のシェアガーデン北千住。

2024₋08₋31
萎れてきたメロン。
酷暑の日々に萎れていたナス、ピーマンは雨で元気になっているのに対し、メロンだけ枯れてきた。病気かな?
やはり、雨に弱いのだろうか。

2024₋09₋02
光合成をする葉っぱが枯れ、これ以上甘みが増えることもないため、1つ収穫した。
切ってみると未だ硬くて若い。
もちろん甘くない。

しかしキウリより旨い。

初めてのメロンは途中でダメになったが、思ったより簡単に実が生った。
来年、取っておいた種でメロンに本格挑戦する。