2024年9月13日金曜日

岩船部落の変化、有線電話、町田マケ、岩船地蔵

8月15日、母の新盆で中野市岩船の実家に帰省した。

新鮮屋小田切牧場直営おたぎりで会食のあと、岩船の家でまったりとお茶を飲んで過ごした。信州と言えど猛暑のため、全部で9人がエアコンのある一部屋にいて、世間話でお茶を飲んだ。こういう状況は退屈なので、一人居なくてもいいだろうと、そっと抜け出した。

来るたびに変わっていく岩船の部落内を歩いてみたかった。
お墓や二か所の田んぼに行く南の道をいく。

数年前まで畑だったところに家が何軒も建った。
2024₋08₋15 14:21
実家のほうを振り返る。
左は我が家の畑「もこやしき」(向こう屋敷の意味)
右は近藤忠雄さんちの畑だったが、彼らは以前から畑を切り売りしていて、とうとう集落近くの畑も手放した。
ベージュ色の物置が我が家。
カーブのクルミの木に隠れて頭だけ出ているのがモコノチ(向こうの家)の新しい物置。

同じ場所の昭和34年の写真がある。
昭和34年正月 2歳5か月
道は狭く、両側に小さな川があった。
左の屋根は我が家。右の家はモコノチ(小林利徳さん)の古い物置。
近藤さんちの田んぼ
今や、ここは新しい家が立ち並び、もう向こうの町田良晴(弘治)さんの家は見えない。

岩船という部落は江戸時代から昭和40年代まで、ずっと農家ばかり50軒ほどだった。
(明治15年、54戸)
(昔はこの戸数で高井郡岩船村と称したが(のち下高井郡)、明治22年に、岩船、江部、吉田、片塩の4か村が合併し、下高井郡平野村となる。戸数は順に52、124、104、83であり、合併後の平野村は363戸、1819人だった。1954年に平野村を含めた1町8ケ村が合併し中野市となる)

私が高校生だった1970年代前半まで岩船の景色は、おそらく、明治のころとそれほど変わっていなかったと思う。もちろん、物置や母屋を建て替える家が増え、田んぼにもビニールハウスができ、道路も少し広くなった。
しかし、戸数も家々の場所も変わらなかったからだ。

それが、部落の東端、すなわち信州中野駅の裏、リンゴ畑だった地域に新しい家がぽつぽつでき始めた。

決定的だったのは平成元年(1989)の駅西口の区画整理である。
一輪車くらいしか通れない道ばかりだったリンゴ畑に広い道が縦横に通り、我が家も二か所に離れていた畑が面積は少なくなったものの一か所になった。そして駅に近い住宅地に変貌した。
1988(昭和63)年8月、区画整理前。

ほぼ全戸が農家だった岩船も、高齢化と後継者不足で農作業が苦しくなっていた。その結果、この地域に畑を持つ家は土地を手放し、多くが住宅、アパートとなった。我が家も5世帯が入るアパートを1棟建てた。

その結果、江戸時代から変わらず50世帯だった部落が、わずか10年20年で400世帯を超えたのである。新しい住人は飯山、山之内などの豪雪地帯から降りてきた人もいるだろうが、中野の若い人も多かった。新婚夫婦はかつてのように親と同居せず、別居する。岩船は駅や町に近かったからアパートを建てればすぐ満室となった。戸建てを新築する若夫婦もいた。スーパーや多くの医院も、土地に余裕のない旧市街地を避けて、岩船に開業した。

一気に住宅地になったのは集落の上(北)、リンゴ畑のあった駅のほうだったが、その地域がいっぱいになると(売り切れると)、駅からは遠くなるが集落の下(南)、かつて田んぼだったところにも新築住宅が建ち始めた。それが最初の写真、近藤さんちの田んぼなどだ。

新しい宅地はリンゴ畑の駅西側だけでなく集落を飲み込んで周囲に広がり、景色の変化は村中に及んできたのである。
いつも駅から実家まで歩くだけだったが、今日は村中をあるいてみる。

田んぼのほうへ行く途中にお墓がある。
14:23
お墓は変わらないが、道路を広げるため、道の反対側のきれいな川が暗渠となった。

お墓から南西(たんぼ)のほうは、武田さん2軒、近藤さん、武士辰一さんちがあったが、アパート「かさだけ」2棟はじめ住宅が立ち並び、武士さんちは息子が帰らなかったため、アサコさんが亡くなると敷地を売りに出された。同級生の武士哲子ちゃんがいたからよく遊びに行った。おじいさんは学校の先生をしていた方で庭がきれいで屋根付きの池には大きな鯉がいた。

そちらには行かず、北に曲がる。
お墓の北は山浦さんち。
14:24
山浦堯昭さんち
志賀高原にロッジを経営していらした?関係か、古くから電話をもっていらした。
1965年、真(まこと)叔父が亡くなり、その連絡が山浦さんのところに来て、電話のない我が家に知らせてくださった。

中野市というのは、早い時代に全戸に有線電話網を敷いた。農協が中心となったのだろうか。そのあたりの事情はよく分からない。
我が家は「108の7番」で、かかってくると電話機が「7番、7番」と連呼するから、受話器を取り上げる。この声は第108回線の数軒~10軒の電話機で一斉に連呼された。
こちらからかけるときは(電話機にダイヤルがないから)交換士に「104の6番おねがいします」などという。

それが小学校高学年のころだったか、ダイヤル式に変わり、交換士の声は消えた。我が家は25443だった。いま中学校の1971年卒業名簿で番号を確かめた。クラスのほぼ全員に一般電話でなく5桁の有線電話番号が載っていた。
ダイヤル式の有線電話は、何か操作すれば一般電話に接続可能だったようだが、当時、ほとんどの家は農家だったし、人の交流は市内に限られ、市外に電話する必要もなかった。

その後、我が家もようやく一般電話が入った。しかし有料だったから(当たり前)、市内にかけるときはタダ(定額)だった有線電話のほうを皆使い、一般電話をかけることはほとんどなかった。
高校の名簿を見ると我が家は現在の実家の一般電話の番号であるが、1974年当時、松代や川中島の友人の家は依然として有線電話の番号が載っていた。

山浦さんちの道を挟んで東は武田晉一郎さん宅。
中野の町に花屋さんを開いていらした。屋敷の南のブドウ畑(すなわちお墓の東側)は早いうちに売られて宅地になってしまった。

その北は武田佳三さん宅だが、あまり記憶がない。
その北は武田英雄さん。祖母の妹が、姉と同じように戸狩から岩船に嫁いだ家で、つまり当主は私の父の従弟であったはずだが、あまり交流はなかった。
14:26
武田英雄さん宅跡
姿のいい家だったが、母屋を含めすべてなくなり、アパートになっていた。
道路が広げられ、全く景色が変わった。
彼らはここに住んでいるのか、どこかに転居したのか知らない。

武田英雄さん宅の西、すなわち山浦さんの北は中島広茂さん宅。
14:27
中島広茂さん宅(左)と岩船公会堂(向こう)
中島さんちの屋号は「油や」だった。
同級生はいなかったが、不思議なことに、山浦さん宅同様、庭の様子はよく覚えている。
違う学年の子と遊んでいたのか、あるいは子どもの特権で一人でも庭に入っていったのか、記憶にない。
江戸時代からずっと入れ替えなく50軒しかなければ、部落内の各家の構成は大体知られていた。つまり当時はどこの家の子供か、だいたい分かったし、畑からそのまま地続きで屋敷地に入ったりできた。私は池の鯉やサボテンなどが好きだったから、よく他の家の庭に入り勝手に見せてもらっていた。

油やは道路を挟んで昔の岩船公会堂と向かい合っていて、道路との間には割と浅くて広い川があった。
当時、毎月廃品回収があり、リヤカーで公会堂まで集めてくると、参加賞のアイスクリームをもらって解散する。私はひとり帰らずに漫画本をずっと読み続けた。腹が減っていったん家に帰ろうとして、ふと油屋の裏の川を見ると、白いボールが一つ沈んでいた。この日、
皆がもらったアイスクリームだった。ゴム風船に入ったようなものを、少しずつ融かしながらシャーベット状のものを吸い込むのである。喜んで拾い上げ、食べようと輪ゴムを外すと、風船が縮み一気に中身が川にこぼれてしまった。

岩船は湧き水が豊富な部落で、普通に歩く道にある、どの川も水が(大げさでなく)そのまま飲めるほどきれいだったが、だんだん水量が減って汚れた。この道は平野小学校のほうへ行く部落内唯一の幹線道路だったから、いまや道路を広げるために、すべて暗渠になってしまった。

道路拡張は暗渠にしただけでは済まず、道の北にあった岩船公会堂は、少し西の道路の左、かつては消防ポンプを積んだリヤカーの倉庫だった場所、つまり油屋の西どなりへ建て替え移転した。(写真)
14:27
火の見やぐらも少し場所が動いたか?
櫓の下をコの字型にめぐるように流れていたきれいな小川が思い浮かぶ。
小さいわりに水量が多く、私の場合「春の小川はさらさらいくよ」の歌を聞けば、この川を思い出す。いまや無残な景色である。

右側は小古井弘さん宅と大きな養殖池があった。
小古井家は江戸時代に寺子屋の師匠をしていたなど岩船村でも名家であったが、最近一家で須坂に引っ越してしまったらしく、屋敷には今誰も住んでいない。この家も同級生はいなかったが、私は庭と池にはよく出入りしていたようで、今でも景色を覚えている。

少し戻り、山浦金二さんの東を入っていく。
このあたり岩船の中心である。
14:27
正面は町田喜代治郎さん宅
ここの憲一君は中学の同級生。
長屋門は、駐車場を確保するためか、東半分が撤去されていた。
樹木もめっきり少なくなった。

その手前の東(右)に堺祺佑さんちがあった。
14:28
堺祺佑さんち入口
道の脇にはきれいな川が流れていて、それと隣接して入口にコンクリート製の水槽が作られていた。湧き水は年間を通して15度くらい。夏は冷たく冬は暖かいから洗い物に便利だった。水槽からはこんこんと水がわいていて、夏の暑い夕方、この近所で汗びっしょりで走り回って遊んだとき、その水槽に四つん這いになって顔ごと突っ込んで水をごくごく飲んだ。
その川は暗渠となり、水槽はコンクリートで埋められ、車の通り道になった。

堺さんちは我が家と親せきづきあいしていたせいか、家にもよく上がって息子の堺正衛ちゃんと遊んだ。畳の茶の間に、当時としては珍しくソファーがあった。
中学に入ったとき正衛ちゃんは3年生だったが、とてもハンサムな生徒会役員でクラスの女子が騒いだので、知り合いだと自慢した。

堺さんちの裏に回る。
鬱蒼と両側に木々が迫り、水の湧く池などもあって、岩船で一番、風情のある道だった。
ところが、木は切られ、池は消えて草が生えていた。
14:28
池のあと(右)
坂の向こうは左が武田千吉さん、右が町田正芳さん。
町田正芳さんは祖父のところによくお茶のみに来て、小学生の私の手がしもやけになったとき、石油ストーブの灯油を塗ればいい、と教えてくれた人。

町田喜代治郎さん(憲一君の父)のところに戻る。
14:29
町田家の長屋門は入口部分から西だけ残っている。
小学生の頃は昼間に田んぼや庭先で遊んでいたが、高校を卒業して中学の友人たちと会うときは、夜中まで部屋でおしゃべりすることになる。大人になった町田憲一君の部屋はこの長屋の2階で、母屋から離れているから、居心地がよく、何度か友人たちと集まり、オープンリールデッキでフォークソングなどを聴いた。

14:29
左:中島祥夫さん 右:町田喜代治郎さん
二軒の土蔵に挟まれて、岩船では珍しく昔と同じ幅の道。それでも木々は切られ、景色は変わった。
14:30
憲一くんちの裏。
中学のころ、ここで中島祥夫さんちの塀をバックに憲一君とキャッチボールをした。彼は新しいキャッチャーミットをもってきて、喜代治郎さんが「憲一が新聞配達して自分で買ったんだで」と誇らしげに教えてくださった。町田家は裕福な家であったが、簡単にものを買い与えないという教育方針みたいなものがあったのだろう。

町田憲一君の裏は阿部昭男さん(黄色い塀)。
お稲荷さんのまわりの木々は切られ駐車場になっていた。
14:30
安鎮稲荷大明神
昔から町田マケの人々が祀っているらしい。

「マケ」というのは学校の勉強では一度も出てこず、信州中野あたりの方言かと思ったら、東日本を中心とした全国共通語だった。
マギ、マゲとも呼ばれ、牧、巻きなどと関係あるのだろうか、村落内での同族集団のことを言う。マケの中でも特に近い家々をウチワともいう。これに対し、シンルイは婚姻などで結びついた村落内に限らない家々、クミ(組)は村落内に置いてマケに入らない近くの家ということになる。

葬式、婚礼、家の新築、解体のときの手伝い、お祝い、子どもが生まれた時の天神さんや鯉のぼりを贈るときなど、マケというものが出てくる。田植えなどの手伝い(稲刈りなどと違って1日だけだからお祭りのよう)や、農機具の共同購入にも影響した。

町田マケは岩船で一番大きな集団で、その本家は町田憲一君の家である。中野市では西条部落の関マケが20軒以上あり有名だった。
小林マケは我が家のまわりの4軒の分家を含め、5軒あり(これがウチワでもある)、他に1軒苗字だった堺祺佑さん、武士辰一さん、町田良晴さん(町田マケには入らない)の家々が加わりグループを作っていた。
サラリーマンが増えた現在と違って、1970年代まで先祖代々同じ場所で農業を続けてきた社会では、こうした連合体が村落内での意思決定や活動に不可欠だったのだろう。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/newgeo1952/30/3/30_3_30/_pdf

岩船で一番立派な家は町田忠彦さんの家だった。
「八兵衛さんち」と、先々代?の名前で呼んでいた。
1873年創立の平野小学校(まだ平野村がなかったから4か村組合立の「愛育学校」といった)百周年記念誌には参考文献として町田忠彦氏所蔵の文書が多く使われた。
町田家所蔵文書に明治8年(1875)の欠席届が残っていて、町田八兵衛次男・常治良、小林重治郎長男・安治ら5人が「・・・養蚕田植等につき6月23日より来たる7月2日まで之間休業奉願候以上・・(父親たちの署名印)」とある(記念誌P50)
小林重治郎・安治は我が家の6代目、7代目である。

忠彦さんちは私の友達もいなかったし、専用の道の突き当りにあったこともあり、遊んだことがない。土蔵、物置に囲まれた中庭の光景は記憶にあるから、少なくとも入ったことはある。
もっぱら、親輪舎などにいくときに屋敷の裏を通るくらいだった。
14:33
町田忠彦さん宅、裏。
むかしは家の北側に中世の土豪屋敷の堀のように川があった。ほとんど流れのない静かな川だったが、岩船らしく水はきれいだった。それが他の川と同様、車社会の道を広げるため、すべて暗渠になっていた。土蔵の石垣は往時のままだったが、石垣を濡らしていた堀川部分はコンクリートで埋められていた。

町田忠彦さんちは江戸時代から立派だが、町田マケの本家は憲一君の家、町田喜代治郎さんの家だった。そういえば憲一君の結婚式の仲人は忠彦さんで、先祖代々、分家筆頭として本家長男の婚礼は仲人を務めてきたのであろう。小林マケの例から想像すると、町田マケの各家の跡取りの婚礼の仲人はすべて喜代治郎さんがしたはずである。
14:33
岩船薬師堂
昔、一時的に人が住んでいたことがあった。
ここも町田マケが管理しているようだ。数年前に通りかかったとき、町田憲一君がアメリカシロヒトリが発生した堂の裏の木を消毒しているところに偶然出くわした。

ブドウ畑を行くと県道に出る手前に岩船地蔵堂がある。
ここは南の浄清寺と敷地がつながっていて、間には金比羅大権現、天神さまもある。
14:34
金比羅大権現
6年に一度の岩水神社御柱祭には金比羅船船を歌うが、これがあるからだろうか?
14:34
浄清寺
ここに1年上の、かずえちゃんというきれいな女の子がいた。
話は一度もしなかった。
天満天神
これは地蔵堂(村が管理)、と浄清寺のどちらが管理しているのだろう?
14:35
岩船地蔵尊堂
子どものころ、一人のときは魚を捕りに田んぼへ、三角ベースで遊ぶときは岩水神社のほうに行ったから、ここ地蔵堂境内にはあまり来なかった。
本尊の木像地蔵は行基作というがもちろん信じられない。かつては岩水神社あたりにあったらしいが、度重なる夜間瀬川洪水で流され、1656年この地に移ってきたというのは信じて良い。

昔、池があったあたりに新しい歌碑が立っていた。
月が出ました鎮守の森に
わしら水田(みずた)で蛍追い
チチロ清水の湧くところ
雪が降ります あれあれごらん
わしら川辺にゃ積もりゃせぬ
(岩船小唄)
というが、知らない。

岩船信仰というのは、栃木岩舟を発祥とし、関東甲信越に広く広まっているが、栃木、越後村上、信州中野を3大岩船地蔵とする。以前ブログに書いた。
船乗り地蔵
部落名(明治初めまでの村名)にもなった地蔵だが、この日、初めて見た。

14:36
1766年安置という。木造のほうは本殿にあるのだろう。

家を抜け出して15分、トイレにしては長いからそろそろ帰ろう。
14:37
岩船は3か所にお墓がある。
ぎりぎりまでアパートが建つ。
14:38
お墓を過ぎると、大きくなった高木セイコーの三つ角にもお地蔵さんがある。
ここは昔寂しいところだった。
14:38
子どものころ、このお地蔵さんが夢に出てきたことがある。

14:39
堺さんちの上、町田正芳さん(左)、武田千吉さん(右)の間の道の上まで戻って来た。
武田さんちのケヤキは昔からこの高さに抑えられている。
この暗渠のあとを見ると、いかに岩船は多くの川を埋めたか分かる。

14:40
ここは大黒屋(屋号)という大きな家があり、東京に出て行ったあと、主なき庭にはモミジや棗の木が残り我々の遊び場だったが、早い時期に家が3,4件建った。彼らは古くからの50軒とはほとんど交流はなく、景色だけでなく、住民も変わってきた。

14:41
実家に戻って来た。ちょうど20分。
左は三井典俊さんち。ここの先代は、道を広げるとき池があるから埋めると地盤が悪いと仰り、我が家のほうが敷地を削った。しかしそのあと池を埋められた。

岩船部落は古いだけに、荷車1台が通るだけの道幅しかなかった。その両側に小さな川があり、屋敷地の道路側には樹木が生えていた。車社会になって道を広げるとき、その川、樹木をつぶしたものだから、他の土地と比べて、景色の変化が激しい。
そこに加えて駅に近いということで新しいアパートと新築一戸建てが乱立した。
中学のころ、通学区で唯一、中野の町から出前が取れるという町に近い部落だったが、それが災いし、湧き水のきれいな落ち着いた景色が消えてしまった。

なお、各家の当主の名前は1988年ゼンリン住宅地図によった。もう36年前だから亡くなった人も多い。

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