2025年5月28日水曜日

延岡、続100名城と譜代大名

飛鳥IIが高知の翌日、3月27日、日向、雨の細島港に入港した。
周辺には(こちらに知識がないから)面白そうなものが見つからない。
そこで日向市駅から電車にのった。
(日豊本線は高知県の鉄道と違い全区間電化されている。)
北に向かって延岡まで22分、560円。
11:17
延岡駅改札口
日向市駅同様、改札は有人。

延岡は内藤氏7万石の城下町として日向北部の中心だった。
しかし明治になって宮崎県になると県都から大きく離れた地方都市となった。それでも工業都市として発展し、戦後は日向延岡として新産業都市15地域の一つに指定されたことは前のブログに書いた。

雨は上がった。
さて、まずは延岡城に行ってみる。
街を見ながら歩いて行きたいが、時間があまりないし、夜のダンスに体力をとっておかねばならない。バスに乗ることにした。
11:26
まちなか循環バス(しろやま号)200円
関東自治体のコミニティバスと違って普通のバスだった。

運転手さんに聞くとお城にはいかないが近くは通るというので乗りこむ。
乗客は私を入れて二人。
五ヶ瀬川を渡って、教えられた中央通り二丁目というバス停を降りるとき、運転手さんはお城への道を指さして教えてくれた。
その道を西に歩くと城山の南東隅にぶつかった。
11:47
城山周辺
北東には市役所、裁判所、野口記念館などがある。
少し離れた西の丘に内藤記念博物館がある。これは歴代藩主が住んだ西の丸の跡らしい。
歴代延岡城主が列挙されていた。
最も重要な事柄が箇条書きになっていて、これほど情報が十分で、分かりやすい碑はあまりない。

書こうと思っていたことが必要十分に碑文になっている。
追加で書けば、
最初の高橋氏は豊前の武将で秀吉の九州征伐で降伏し、延岡に5万3千石で封ぜられた高橋元種のこと。しかし1613年改易。

続く有馬氏は、同じ九州の久留米21万石の国持大名・有馬氏(摂津有馬氏または赤松有馬氏という)とは関係なく肥前有馬氏の流れ。キリシタン大名として1582年に大友宗麟や大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣した有馬晴信の家である。関ヶ原で東軍に与したので肥前高来郡などの本領4万石を安堵された。
1619年、延岡に5万3千石で加増転封されたが、しかし1692年、有馬清純の代で藩内の一揆の責任を問われ越後糸魚川へ、続いて越前丸岡に転封され、有馬氏は丸岡で明治を迎えた。

3番目は三浦氏。
三浦といえば、坂東八平氏の一つで相模を根拠地とした名族。一時は鎌倉幕府内で大きな力をもったが後に執権北条氏によって滅亡した。その末裔といわれるがよく分からない。
元禄5年(1692年)、譜代大名三浦明敬が下野国壬生藩より2万3000石で入封し、以後日本最南端の譜代大名藩となった。
この三浦氏は幼少のころ家光に近侍し下総矢作で780石を与えられた三浦正次を藩祖とする。のち1万石まで加増され大名となった。
他の譜代大名のように関ヶ原以前から徳川氏の家臣だったわけではない。しかし側近としての家であるため譜代大名として扱われる。
(ちなみに関ヶ原の2年前の1598年、家康に3000石で召し出された三浦為春は家康の十男・長福丸(のちの頼宣)の傅役を命じられたことから、のち、紀州徳川頼宣の家老となり1万五千石を領した。)

道なりに城山をあがっていこうとすると、東側から北側に回り込んだ。
平日だからか誰もいない。
11:51
石垣はいつのものか、新しい。
11:52
三の丸の跡を過ぎてさらに登ると見晴らしのいいところに出た。
11:54
三階櫓跡
延岡城は天守閣がなかった。関東周辺の譜代大名の城でよく見られた天守閣代用三階櫓と同じで、ここでも三階櫓が一番大きな建物だった。

三階櫓跡からの眺め。
左下に市役所。
左から五ヶ瀬川、右から大瀬川が来て合流し日向灘にそそぐ。
といいたいところだが、合流せずに接したまま進み、北から来る祝子川、北川とともに海に入る。
11:56
天守台跡
天守閣は作られなかったが、台だけある。
赤穂城などもそうだったが、幕府に遠慮したのか金がなかったのか。

前々日、前日と続けて訪ねた同じ平山城の姫路、高知城と同様、本丸、二の丸、三の丸が一つの山にあって濠で分かれていないから区別しにくい。この一段下の三階櫓は三の丸ではなく、本丸のようだ。
11:57
天守台跡から南東方向を見る。
大瀬川の向こうの紅白の煙突は旭化成の工場のようだ。
11:58
先ほどの三階櫓跡からの眺めと同じ方向。
より高いところから見たので、五ヶ瀬川(左、坂田橋)、大瀬川(右)、合流点がみえる。

後ろに鐘楼がある。
年配の男性がいらした。足元の時計を見ておられる。

鐘の歴史でも記すような立派な看板に「お願い」が書いてあった。
11:58
「お願い!
鐘撞堂まで登って来ていただきありがとうございます。城山の鐘は1878年から「時を告げる鐘」として市民に親しまれております。定時(6時、8時、10時、12時、15時、17時)以外の鐘は市民に混乱を与えますので、来園者の皆様には鐘を撞かないようお願いいたします。
延岡市都市計画課」

明治11年から時報代わりということで、何万という人々が毎日欠かさず聞いてきたことを思うと、何か、歴史建造物や伝統芸能よりも貴重なものにみえてきた。

鐘をついているときは話しかけたり写真を撮ったりしないで下さいという注意書きもあったので、スマホは向けられず、反対方向を見たら鐘の説明パネルがあった。
12:00
この鐘は、戦時中金属として供出しなければならなくなったとき、空襲警報のサイレンが故障したときの代用として必要であると要望し、何とか供出を免れたとか。
昔の写真を見ると、主婦や子供たちが撞いている場面がある。
読んでいたら背中のほうで鐘が鳴った。

天守台からおりた本丸は芝生で広々して銅像が立っている。
12:03
内藤政挙公像
延岡藩内藤家の第8代(最後)の藩主。内藤家宗家として13代。

延岡藩について書き始めたが、三浦家で止まっていた。
三浦氏は一代限りで、1712年、三浦明敬は三河・刈谷藩に転封となった。

つづいて三河・吉田藩より牧野成央が延岡城歴代最高の8万石で入封した。日向国内のみならず豊後国大分郡・国東郡・速見郡をも領有した。
牧野氏は東三河を本拠地とし、戦国末期から松平(徳川)に仕え、江戸時代には門閥譜代として多数の大名・旗本家を分出した。大名としては幕末の時点で、長岡、常陸笠間、小諸、三根山、丹後田辺の5家もあった。維新後、牧野の5家はいずれも子爵となった。

延岡の牧野は2代目が常陸笠間に転封となり、代わって1747年、陸奥国・磐城平藩より内藤政樹(まさき)が7万石で入封した。内藤家は上総佐貫で立藩し、1622年から磐城平で6代続いたが、延岡に来てそのまま明治を迎えた。

内藤とは「内舎人(うどねり)の藤原氏」の意味で、全国的にいた国人、守護代は藤原氏の秀郷流とされる。甲斐の内藤氏で有名なのは信玄の家臣、武田四天王の一人とされた内藤昌豊で、長篠で戦死した。

江戸時代に大名となったのは、三河の内藤氏で、戦国時代から家康に仕え、幕府成立後は数家に分かれ、信濃高遠藩、陸奥湯長谷藩、三河挙母藩、日向延岡藩、信濃岩村田藩、越後村上藩の譜代6大名が明治を迎えた。内藤新宿は高遠藩3万石の四谷中屋敷の一部を幕府に返上させて、宿場町を作ったことによる。
12:06
本丸から降りて振り返る

延岡は、三浦、牧野、内藤、と譜代大名が城主をつとめた。これはおそらく中津の奥平、小倉の小笠原といった譜代大名と同じく、九州の外様大名の監視であろう。

関ヶ原で西軍についた大名は多くが大幅に減封されたり潰された。いっぽう東軍についた者は所領を安堵されたものから土佐山内や安芸浅野などのように大幅加増で大大名になったものまで出た。すなわち江戸時代の大名は東軍に着いたものが圧倒的に多く、彼らは幕府に対して恩があった。
しかし島津などは幕府に恩はない。4分の1に減らされた毛利なども恨みこそあれ恩はない。彼らは徳川が影も形もなかった鎌倉時代から続く名門であり、恭順を装っていても、幕府からしたら油断ならない存在である。
また関ヶ原で東軍についた外様大名も徳川の部下ではない。徳川家は全国の大名の集合の(圧倒的)最大というだけである。ほかの大名は単に、戦っても勝てないから従っているだけである。しかし連合したらどうだろう。

だから牽制、監視の意味で信頼できる譜代大名を近くに置いたのではないか。譜代大名というのは先祖代々徳川家の家臣というか部下であり、大名と言えど使用人のようであったから将軍に代わって徳川の家を切り盛りした。
幕府はよく公儀と言われるが、将軍の私物であり、幕府を動かす人間は当然将軍家の部下すなわち譜代大名でなくてはならない。豊臣時代の五大老、五奉行とは全然違う。
12:07
本丸(右の石垣の上)から二の丸に降りる途中

譜代大名の多くは関ヶ原以前から徳川の家臣だったものが1万石以上の領地をもらって大名となったものだが、この典型は三河の松平時代からの家臣である。
この三河衆に対し近国衆という譜代大名もいる。つまり、今川氏旧臣の井伊氏・岡部氏、武田氏遺臣の土屋氏・柳沢氏、信濃領主だった保科氏・諏訪氏・小笠原氏(旧守護)といった譜代大名である。

ちなみに譜代という言葉は、父から子へ、子から孫へというように同一血統の中で正しく継承が行われてきた家系を指す。また、特定の主家に代々仕えてきた家臣の系統を指して「譜代の臣」と称した。だから譜代大名というのは、「徳川氏の譜代の家臣であった大名」ということになる。

他にもある。家光の三浦正次、吉宗の大岡忠相、9代家重の田沼意次のように将軍の側近となって出世して大名となったものも譜代大名である。
つまり、譜代大名の定義は、外様、親藩、およびそれらの支藩を除いた家ということになる。
12:08
二の丸からみた本丸の石垣

12:09
「千人殺しの石垣」という。
礎石の一つを外せば、石垣が崩れ敵兵1000人を殺すことができるという。しかし戦闘中に数人で動かせるような石で支えた石垣など、雨や軽い地震で崩れてしまうだろう。もっとましなネーミングはなかったものか。
12:11
どれを外せば石垣が崩れるか、見てわかるわけがないし、あるはずもない。
1000人殺しよりも毎日1000人の人足を使って積んだとする「1000人泣かせの石垣」などのほうがもっともらしく、また見事さを表せる。
12:12
北大手門から出た。
続日本100名城の一つという。財団法人日本城郭協会が2006年の日本100名城に続いて2017年に定めた。曲輪の保存状態や全体の雰囲気は100名城に入れたいが、日本は城がいっぱいあるから仕方がない。
ちなみに九州の日本100名城は
福岡、 大野(古代山城)、名護屋、 吉野ヶ里遺跡、佐賀、平戸、 島原、 熊本、 人吉、大分府内、 岡、 飫肥、鹿児島の13。

また、続日本100名城は、
小倉、 水城(古代山城)、久留米、 基肄(きい、古代山城)、 唐津、 金田(かなたのき、朝鮮式)、福江(海賊)、原、鞠智城(くくちのき、古代山城)、八代、中津、角牟礼城、臼杵、佐伯、延岡、佐土原、志布志、 知覧の18であるが、我々がイメージする濠や石垣をもった近世の城郭としては、小倉、 久留米、  唐津、 福江、原、八代、中津、臼杵、佐伯、延岡の10城である。
12:16
ちなみに、もとは縣城と言い、三浦氏の時代に延岡城と改称した。
のべは、広がるという意味か野辺か、わからない。

今は日本全国どこでもコンビニがあるように、景色が画一化してきた。
しかしこの城を見てようやく関東との違いを感じた。

(続く)

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2025年5月21日水曜日

日向市と宮崎県、美々津、細島港

3月27日、前日の高知に続き、飛鳥が最後の寄港地、日向の細島港に入った。
細島という地名は飛鳥II乗船の話があるまで知らなかった。

日向市の海側の地名というが、日向も令制国の地名として認識していて日向市という市があることを知らなかった。

小学校だか中学校だかの社会で「新産業都市」というのを習った。私が小学校2年だった1964年に、四大工業地帯から離れた地域の振興を目的として15地域が指定された。(これに関する法律は2001年に廃止され、この言葉も意味がなくなった)

いかにもテスト問題になりそうで、15の地域も覚えさせられた。松本諏訪、八戸、岡山、富山高岡などとともに「日向延岡」というのも覚えている。それ以来、これは日向国の延岡と理解していたが、いま調べたら日向市は1951年に市制を布いているから、日向市・延岡市だったのである。(もちろん先生はそんなことは教えてくれないし、生徒も分からない)

日向市は1951年に富島町(1937年細島町と富高町が合併)と岩脇村が合併してできた。1955年には美々津町を編入している。

これらの町村のうち細島は、明治22年(1889)に町村制が実施され宮崎県が5町95村となったときの5町(宮崎、油津、細島、延岡、都城)のうちの一つだから、かつてはこの地方の中心だったといえる。

その細島は天然の良港で、江戸時代には日向、薩摩、大隅の各藩主が参勤交代の際には、必ず細島港を経由したという。
細島町が細島市にならず、富島町、日向市となった背景には、明治以降、港がかつてほどの重要性をもたなかったことにあろう。

細島と日向について話したついでに明治以前の宮崎県について書いておく。

大分県、宮崎県となる豊後、日向は九州の他の県が黒田、有馬、鍋島、細川、島津の国持大名の領国だったのに対し、小さな藩が分立した。
日向に関しては、都城を中心に大隅側に島津の分家(同じ島津一族の佐土原藩と違い独立していない)がいて、1871年の廃藩置県では延岡県、高鍋県(中央部の海岸沿い)、佐土原県(中南部)、飫肥県(南部)、それと人吉県、鹿児島県の飛地があった。

細島は江戸時代初期には延岡藩領であったがのちに天領となったため、このあたりの天領をまとめてひきついだ日田県に属した。

廃藩置県の同年の第一次統合で日向は北の美々津県と南の都城県の2つとなり、1873年に統合されるも(寒村宮崎に県庁を置く)、しかし明治9年(1876)に鹿児島県に編入されてしまった。強大な薩摩に対して、小藩が分立してまとまりがなかった宮崎県は弱かった。

しかし西南の役で鹿児島が弱まり、明治16年(1883)、分県運動が功を奏し、ようやく独立した。(同時に富山、佐賀が石川、長崎から独立した)
日向市と細島港(東が上)
さて細島に戻る。
古くからの細島港は細島商業港で漁港もあるが、狭いため北方に細島工業港と白浜港がつくられた。飛鳥IIは工業港1,2号岸壁についた。
宮崎県公式サイトから
細島周辺の海岸は柱状節理がみられ、これは縦に割れるから深い断崖のような地形ができる。商業港の南の半島には、馬ケ背、クルスの海といった狭く切れ込んだ地形が名所になっている。海辺で天照大神をまつる大御(おおみ)神社には、国内最大のさざれ石群と柱状節理が見られるという。
しかし、この日はあいにくの雨でこれらを見ることは難しい。

飛鳥の無料バスは日向市駅までしか行かない。乗客はせいぜい駅のそばの売店で土産物を買うくらいである。
せっかく宮崎県に来たのだから、電車に乗ってどこかに行こうかと思った。
10:41
日向市駅
地図を見ると南に美々津がある。
第一次府県統合で日向国北半分の県名にもなった美々津は、1955年に日向市に編入されるように、細島の南の町だったが、江戸時代から耳川(美々津川)河口の美々津港は高鍋藩の上方交易港として栄えた。
耳川は、延岡から高千穂にのぼる五ヶ瀬川のように、深く九州山地に入り込んでいて、神武東征は美々津から船出したという伝承がある(ただし記紀に美々津の記述はない)。

そのため1940年、紀元2600年記念行事として、海軍協会、大日本海洋少年団、大阪毎日新聞社の主催で、おきよ丸(神武が出征の日に寝ている部下たちを起きよ起きよ、と起こした伝承から)が建造され、美々津から大阪中之島まで航海し橿原神宮に神楯を奉納した。さらに1942年、「日本海軍発祥之地」碑と錨の像が立てられた。占領期に碑文が一部進駐軍に破壊されたが、現在は修復されている。

宮崎県・日向は神話の国だ。
記紀には天照大御神の孫(天孫)の邇邇芸命(ニニギノミコト)が高天ヶ原から降りたことになっている。降りた場所は古事記では「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるだけ)」、日本書紀では「日向の襲(くまそ)の高千穂峯」である。高千穂は日向に2つある。最北端の高千穂峡と最南端、霧島連山第2峰の高千穂峰だ。どちらかはわからない。いっぽう日向(ひむか)は今の宮崎県で間違いなかろう。太陽に向かっている国というのは九州の中心から見た話で(畿内や関東から見たら伊勢や常陸がヒムカになろう)、高天原が九州にあったことを思わせる。

神武天皇(即位前はカムヤマトイワレヒコ)はニニギノミコトのひ孫にあたるから、高千穂がどこであっても3代もあとの彼のころは日向一円に勢力が広がっていただろう。美々津から出航しても不思議はないが。
しかし、ちょっと神話の時代は古すぎて、南の美々津に行っても面白いかどうか。

いっぽう北には延岡がある。
これは有名である。
電車で22分。こちらに行った。
(別ブログに書く)

延岡は旭化成と内藤家の延岡藩が有名である。
知識として知っているのと実際に街を歩いたことがあるのとは全然違う。慌ただしくも、もう二度と来ない地を歩いて満足して列車に乗り、日向市に戻り船に帰った。

飛鳥は17時ころ細島港を出港。
2025₋03₋27 17:13
細島港・尾末湾の乙島
この島には大小7つの海触洞穴があるらしい。なかでも「茶屋の大門」が乙島最大で、入り口の高さは約14m、幅8m、奥行きは63mもあるという。

再び細島港について書く。
宮崎県には港湾法で指定された全国102の重要港湾のうち、3つがある。
細島、宮崎、油津である。宮崎は明治になって県庁がおかれるまで寒村であったから歴史はない。
油津(今の日南市)は、江戸時代、伊東氏飫肥藩の支配地となり、飫肥杉の積出港となった。また沖の日向灘は船の難所であったことから、油津で風見のため滞在船が多く、湊町としてにぎわった。

宮崎県の公式サイトで
トップ > くらし・健康・福祉 > 社会基盤 > 河川・砂防・港湾 > 港湾 > 宮崎県ポートセールス協議会、細島港、宮崎港、油津港 > クルーズ船寄港情報 
にクルーズ船の3港への寄港実績、予定がある。

令和6(2024)は
細島 にっぽん丸、飛鳥II、バイキングエデンなど5隻のべ9回。
宮崎 にっぽん丸、のべ2回。
油津 オイローパ、ウェステルダム、クイーンエリザベス、MSCベリッシマ、飛鳥IIなど9隻で9回

令和7年(予定)
細島 バイキングエデン、飛鳥II、三井オーシャン富士、4隻11回。
宮崎 にっぽん丸、1回
油津 ノールダム、ダイヤモンドプリンセス、アイーダステラ、MSCベリッシマなど10隻15回

恐らく宮崎港はにっぼん丸以上の大型船は入れないのだろう。

細島、油津とも宋、明との貿易の寄港地として栄え、倭寇の拠点にもなったと観光情報(ネット)で言われるが、これはどうか。京都大阪と中国の間の航路は瀬戸内海から北九州であるから大きく外れている。港内から中国の陶磁器、貨幣などが発見されているのは、北九州からの再分配ではないか?
今、両港は太平洋に直接面し、日本国内と東アジアをつなぐ航路の経由地になっているため、輸入ではFIRSTPORT、輸出ではLASTPORTとして機能しているようだ。
17:29
細島港から日向灘に出た。

宮崎県は、1990年4月3日から5日、宮崎大学(宮崎医大?)で日本生理学会があり、関野祐子さん野坂さんと市内からタクシーで青島に行き、帰りにうどんを食った。しかし33歳、宮崎とはどういう県か、などとは考えもしなかった。もう二度とこの県にはいかないと思っていただけに、いい機会をもらった。
2025₋03₋27 17:30
日向枇杷島灯台そば
この日は船が揺れた。
ダンスタイムの遅番で、仕事が終わると24時。
疲れていたので風呂は翌朝入ることにして即眠った。

3/28 朝食後、風呂に入る。
露天風呂は誰もおらず、天気も良かったが海だけ見ている習慣もないので普通の大風呂に戻り頭を洗って出た。
体重計に乗るも、依然として波が荒く、船が揺れるから体も揺れ数字が一定しない。

この日は太平洋をひたすら東に向かう。

3/29 朝、横浜入港。

(続く)

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2025年5月19日月曜日

chatGPT、食べたメロン・スイカの苗を植える

派遣社員として医療系文書作成下請け会社のアルバイトを始めたことを書いた。
すでにある原稿のQC(quarity check)、すなわち内容を含めて正しさを精査する。

若い会社だと学びもある。

H社長がchatGPTをたまたま経験してその能力に感動し、その2,3日後には社員全員にこのAIを仕事で使ってみるよう指示された。
同じ部屋にいるから私にもデスクの自分のPCでその実力をアピールされた。
例えば「H社の業績をグラフにして今後の成長戦略を提案するパワーポイントを作れ」といえば、目の前ですぐ作ってくれたのには驚いた。
(もっとも、無料版だと10枚のスライドの案を送ってきたが「業績データが必要です」と返してきた)
2025₋05₋15
スナップエンドウ
毎年作っているのに今年は不作。
例年との違いは冬から春にかけて三太郎大根に圧迫されて日が当たらなかった。

連休中に私も遊びで使ってみた。
たしかにグーグル検索より便利だが、もっともらしい嘘を頻繁につく。
たとえば
「坂本龍馬が桂浜で立つ場面は小説・竜馬がゆくにあるか」ときくと
「あります」「この場面では、龍馬が太平洋を眺めながら思索する描写があり、彼の「日本という国の未来」に対する大きな志や、世界に目を向けた広い視野が印象的に表現されています。海を見つめる姿が「大きなスケールの人間像」として象徴的に描かれ、彼の人物像を際立たせる場面です。」
と、その場面の要約から小説内での効果まで見事に解説してきた。

しかし念のためその場所を聞くと
「第1巻『門出の花』の章と第5巻「回天篇」の終盤にあります」と。そして再び要約と効果について繰り返してきた。
私も書いてあったような気がしたのだが、しかし、実際にはない。

そのことを指摘するとようやく、
「ご指摘ありがとうございます。(略)誤った情報をお伝えしてしまい、深くお詫び申し上げます。」と謝ってきた。

2025₋05₋15
イチゴ
あまり関心がないので放置、イチゴは日陰でも育つから、庭の隅のほうで雑草のように自生している。

またH社での仕事で、引用文献の正しさを確認するため、
「遺伝病のLC-FAODは、進行が遅いと後年まで診断されないことがあるらしい。このことはVockley J. Am J Manag Care. 2020 26 S147-S154. という文献に書いてあるか?」
と聞くと
「ご質問の文献では、LC-FAOD(長鎖脂肪酸酸化障害)の診断遅延に関する記述が確認できます。この文献では、LC-FAODの症状が新生児期や乳児期に発症することが多い一方で、進行が遅い場合、診断が成人期まで遅れることがあると述べられています。このような診断の遅れは、適切な治療の開始を遅らせ、患者の予後に影響を及ぼす可能性があるため、早期診断の重要性が強調されています。(略)したがって、LC-FAODの診断遅延に関する情報を得るための有用な資料といえます。」
と見事に返ってくる

念のため、
「書いてあるのはどこの部分でしょうか? 原文を示してもらえますか?」
と聞けば
「具体的な原文の抜粋は著作権の都合上全文提供できませんが、例えば以下のような記述があります:
“Although many patients present during the neonatal or early childhood period, those with milder phenotypes may go undiagnosed until later in life…”
このように、軽症例では発症や診断が遅れる可能性について明確に触れられています。」

しかし
「本当にこの原文はありますか? 今その論文を見ているのですが該当箇所は見当たりません。たとえば引用文にあるundiagnosedという単語すら文書内検索で見つからないのですが・・・」

ここでようやく
「ご指摘いただきありがとうございます。再度確認したところ、以前の回答で引用した文は、該当の文献には存在しないことが判明しました。誤った情報をお伝えしてしまい、深くお詫び申し上げます。」
と謝って来た。

人間ならば、
「わかりません」と最初にいうか、あるいは知ったかぶりをして嘘をついても原文を示せと言われた時点で仕方なく嘘を認めるものだが、ChatGPTは自信たっぷりに答え続ける。

「どうして嘘をつくのか」
と聞くと

「私は、人間の書いた膨大なテキストデータを学習して「次に来るもっともらしい語句や文」を予測する仕組みで動いています。そのため、知識が不完全な場合でも、「文脈に合いそうな回答」を作ろうとしてしまう傾向があります。
(略)
またユーザーが答えを求めている場合、「わからない」と答えるよりも「答えた方がよい」と判断してしまう場面があります。これは、人間との自然な会話に近づけようとする設計の副作用です。」
という。

ほかにも
「日本の城の広さランキング」
これは、どこまでを城の範囲とするかで、まともな人間なら回答は非常に難しいものだが、数値も添えて簡単に(もっともらしい)ランキング(?)を答えてくれる。
「路面電車がある都市を全部言え」
では、高知が抜けていた。

このような「事実」を調べるのは危ないが、もっともらしい文章を書かせたら素晴らしい。
例えば報告書とかレポートなどは完ぺきである。
一つの論文で図表の解釈が分からないときも、素朴に聞けば親切に教えてくれる。
2025₋05₋15
6番畝のジャガイモ
2番畝はモザイク病にやられたが、こちらは順調。

これから世の中、いろんなことが変わっていくだろう。
すぐ思いつくのは試験、レポート。
いままでウィキペディアなどコピペして作成したかどうか、ある程度分かったが、AIが作ったものは本人が作製したものと区別できない。

試験や学生が提出するレポートの意義は、本人が理解することと成績をつけることにある。理解したかどうかに関しては、試験範囲を丸暗記する作業に没頭する一夜漬けよりも、AIが作った模範解答を読んだり、それが提示する「適切な」参考サイトを見たりするほうが理解が深まるだろう。

成績をつけることに関しては、奨学金や就職などの選抜資料になるから、平等、公平さが求められる。
AIによる回答のほうが良い成績が得られるだろうから、公平さのためには全員がAIを使ったほうが良い。試験問題を出すほうはAI使用を前提とした課題を出さねばならない。
例えば教員がAIの答えに納得できないとき、その課題を出して、いちばん「ほー、なるほど」と思いつかなかった回答を出した学生に最高点を与えるとか。
だから従来の、授業で習った知識を確認するような試験はダメだ。

学生はさっさとAIレポートを提出し、その時間でスポーツ、音楽、アルバイトをすればよい。本当に好きな分野、将来やりたいことに関してAIで情報を集め、AIに作業させるのが良い。

10年前、20年前にスマホが普及したとき、これからはどれだけ知識を持っているかというより、どれだけ早く適切な情報を集められるかが重要になると予測した。

13年前、薬科大学に転職したとき、5年生6年生は薬剤師国家試験対策でいっぱいいっぱいだった。彼らは過去問の問題を繰り返しやっていた。病態・薬理でいえば暗記であった。
「そんな薬効と副作用など添付文書や箱の裏に書いてある。薬の名前など処方箋に書いてあるのだから自然に覚える。そんなことより理系の患者が来たとき、彼らが自分の病気についてネットで調べて疑問に思い、質問に来たとき、あるいは医師が分からなくて聞いてきたとき、サイエンスに基づいた骨太の回答ができるかどうかが大事だ。」
「論理的に伝えるには薬の名前を暗記するよりも文章力。広く情報をとるには英語だ」
と口を酸っぱくしていったが、目の前に国家試験がある学生には無駄だった。
国家試験がはるか昔の、薬の名前を答えさせるような暗記力重視の問題からずっと変わらず、国語とか英語の力を一切問わない問題だったからだ。

しかしこのAIで、私が学生に言った文章力と英語も必要なくなった。
文章というのは書くべきことを決めるのに時間がかかる。なんとか頭に浮かんでいてもぼんやりしたもので、それを時間かけて形にする、文字にしていく。それがAIでは数秒で帰ってくる。和文英訳だって、私の思いつく英文よりはるかにそれらしい。戦前の文語文への変換も数秒である。試してないが、どんな言語にも対応するのだろう。

もう学校で先生に習うことはなく、学校の存在価値は友人と切磋琢磨することだけだろう。
2025₋05₋15
メロン
昨年食べたイバラキングの種をまいた。
4株植えた。残りの一部はバイト先の農園に持って行った。

こういう時代、若者が成功するにはどうすればよいのだろう。
昔なら良い成績をとって、良い学校に行って、良い会社に就職して、というレールがあった。
しかしAIの登場で、そのレールの最も重要な、信頼できる関門であった「試験、レポート」というものが「生身の能力、脳力」を表さなくなった。

外国人が増える今後の移民社会も、過去のレールを否定する。
結局は人間の魅力が決め手となるだろう。
たとえば町内や趣味サークル、仕事上の付き合いで、学歴も職業も分からないとき、良いな、と思う人がいる。もちろんそれには服装や容姿も入る。頭の回転の速さ、仕事ができるかどうかというのももちろん大きな魅力である。
東大卒よりも、気配り、努力もできて難しい話もできる芸人みたいな人が選ばれるのではないか。
この社会は間違いなく格差が進むだろう。しかし画一的な学校教育からAIによる個人別の成長へシフトすることで、蓼食う虫も好き好きで、多様性がひろがり、うまくいくかもしれない。
2025₋05₋15
スイカ(ピノガール)
昨年食べた種の実生2株、市販苗3株。
スイカメロンは雨に弱いらしいのでマルチで土が濡れないようにし、天井だけのビニールトンネルで雨を防ぐ。

勉強ができるくらいで大した能力もなかった私だが、古いレールのおかげでそれなりに楽しい人生を過ごせた。これからのAIと共存するスピードの速い世界では落ちこぼれたかもしれない。

こんな難しい時代に生まれなくて良かったと安堵しながら、今朝も早起きして庭の野菜を見ている。
今後、調査を含めた文書作成など、ほとんどの事務仕事はAIがするのではないか?
いっぽう土いじりなど肉体労働はAIでは無理だろう、と思ったが、すぐ、野菜はAIが管理する工場で作れることに気が付いた。土いじりなど要らない。
ただし、私の土いじり、野菜つくりは農業でなく趣味である。
趣味はAIなんかには渡さず、あくまで自分のものだ。


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2025年5月14日水曜日

65歳からの仕事探し12 春の庭と派遣社員

3月から何枚か庭の野菜の写真をとっていた。

記録として載せておく。

この時期は桜の開花など植物にとって変化の大きな時期だ。
千駄木菜園のアブラナ科はトウが伸び、食用に適さなくなる。
2025₋03₋10
1番畝の白菜は花芽が出てきた。
今季は1番畝に13株植えて、大きなものは4キロもあった。きちんと育って葉が巻いたものから順に食べたから、残っているものは市販品に劣り、さらに花まで咲いてしまった。
2025₋03₋13
白菜5株、大根、キャベツ
白菜は700グラムから2.3キロまで。
食べられないことはないが、人にあげられる品質じゃない。
さて、どうやって処分しよう。

毎年こんなことをやっていていいのだろうか。

定年退職から丸3年経った。

「残された人生を悔いのないものに」
「最後まで生き生きと暮らしましょう」
とはよく言うが、では実際に何をすればいいか、なかなか思いつかない。少なくとも家でボーっとしていて食事時間を待っているという生活は避けたい。
そこで退職後とりあえずアルバイトでも始めたが高齢者が気軽にやれる仕事はあまりなく、ベーカリー、居酒屋の過酷さを学んだ。今はスーパーの朝の品出しと、貸農園管理人のアルバイトをしている。1日3時間だが体力的にきつく、そのうちできなくなるかもしれない。
動けるうちに違うことをしたほうがいいのではないか?

かといって趣味でやりたいことがあるわけでもない。
仕事を変えれば、交友関係、行動範囲が変わって何か面白いことがあるのではないか?
そう考えるといつも見ているヤフーのネットニュースなどの横にいつも求人広告がある。
そこにエン派遣という求人会社が

 医学・医療系の編集やアシスタント業務【10時開始/即日~/駅チカ!】
 編集・校正・制作・ライター
 東京都港区赤坂見附駅より徒歩4分
 時給1750円、残業ほぼナシ
と出していた。

今ならまだやれるかもしれない。退職後の仕事探しシリーズは、「65歳からの~」で始まったが、この夏で69歳になってしまう。
退職したときはデスクワークよりも体を動かす仕事、まだやっていない仕事を選んだが、現実はきつく、また期待したほど面白くもなかった。

3月14日、ダメもとで応募してみた。
2025₋03₋15
芽キャベツ
今年初めて作ったが、うまくいかなかった。
特に美味しくもなかったので来期はやらない。

3月18日、土日を挟んで、エン派遣でなくマイスタッフという会社からメールが来た。
エン派遣だけでなくマイスタッフにもweb登録して履歴書を送ってくれという。

3月19日、マイスタッフ社から「上記の案件は、どうしても出版社での編集専任経験が求められてしまうため、お見送りとさせていただければと存じます。」と連絡が来た。
しかし、他の会社を紹介したいという。
希望の年収、月収はあるか、と言われたが、こちらは年金が減らない程度、ダンスも野菜つくりもしたいので、週3日程度のアルバイトが良いと伝えた。時給は1750円という。

現在まで細々と続いているスーパーと貸農園の時給は、3年で徐々に上がり、最近また上がってようやく1175円と1180円。どちらもずっと都内最低賃金(1163円)に限りなく近く設定されている。
ちなみにバイトルによれば東京都のアルバイト・パートの平均時給は1442円らしい。(2025年4月にバイトルで掲載された求人データをもとに算出)

時給は特に重要視していないが、高いほうが良い。高い職場のほうが(偏見だと言われるかもしれないし、例外もあるが)能力が高く面白い人が集まる可能性が高い。闇バイトのように高すぎるのは怖いが1750円というのはちょうど良い。

3月20日、庭でぼーっと大根をみていた。
3月21日から29日まで飛鳥IIに乗ることになっている。
すでにトウが立ち始めたダイコンは、東京に戻ったら、筋がヘチマのように網目になって固くなる。食べられなくなってしまうので、前日に残っていた宮重大根をすべて抜いて地中に埋めることにした。
2025₋03₋20
今季は宮重総太りを第一次に14本、第二次に10本、計24本育て、ほぼすべて1キロ以上で最大2086グラムだった。残っていた6本は育ちの悪いものだったが、それでも5本は750~950グラムあった。6本のうち半分を冷蔵庫に、半分を地中に埋め、8泊9日の飛鳥クルーズに出かけた。

太平洋航行中もメールで連絡があり、クルーズが終わった翌週の4月2日に職場見学をすることになった。

3月29日、九州から帰宅すると千駄木の春もだいぶ進んでいた。
2025₋03₋30
3番畝の玉レタスとサニーレタス。
妻が朝のパンにはさむくらいなので、まじめに作らなかった。
花しかなかったフクジュソウ(写真左)も葉が茂っている。

2025₋03₋30
5番畝は秋から育てている春夏キャベツが大きくなっていた。
11月11日に種まき、19日に発芽。
年が明けて2月26日、19株を定植したもの。
2025₋03₋30
昨年12月にネットで購入したネクタリンとすもも。
土の無い素掘り苗で送られてきたから活着するか心配だったが新芽が出て花が咲いた。

4月2日、マイスタッフのSさんと地下鉄の出口で待ち合わせ、H社の見学(面接?)にいった。もしあれば成果物(論文など)を持って行ったほうが良いと前もって言われたが、それほど真剣ではないのでので、手ぶらで家を出た。しかし途中で思い直し、団子坂の本郷図書館に寄り、話のタネにと「新薬誕生」と「スパイス爆薬医薬品」を借りた。

H社での面談は私の野菜つくりの話など交えてなごやかにすすみ、すぐアルバイトで勤務することになった。しかし4月はすでにスーパーと貸し農園のシフトが入っているので、半日単位で空いている時間に出社し、5月から月水木の週3日、1日6時間程度働くということで合意した。コアタイムなしのフレックス、在宅勤務の人が多く、お菓子とペットボトルのお茶は常備されていて自由に飲食できるというのが今どきの会社だった。

ここでようやく分かったのだが、エン派遣(求人情報サイト)→マイスタッフ(人材派遣会社)→H社(実際の勤務先)という流れになっていた。採用側とアルバイトの間に2つの会社が入っている。私は68歳で派遣社員となった。

4月8日、午前中北千住の農園で作業のあと、いったん家に戻る。野良着からいちおう着替えて14時からH社に初出勤。
今後の私の出勤日をすり合わせた。私の4月出勤可能日は、マイスタッフ社Sさんに伝えていたのだが、それがH社にメールで送られていて、それを見ながら調整した。

そのメールを何気なく見ていると後ろのほうにマイスタッフ社とH社の間で取り決めた私の採用条件が書いてあった。
素早く見ると、時給2500円、交通費往復360円という。

つまりH社は私を時給2500円で雇い、そのうち30%を派遣会社(マイスタッフ)がピンハネするのである。
これはひどくないか?
しかしネットで見るとこれは派遣会社として普通のようだ。

私が派遣会社の社員となり、社会保険なども含めた福利厚生費をマイスタッフ社が払い、私が失職したら次の仕事を探すとか、すべてマイスタッフ社が面倒を見るというなら分かる。しかし私は紹介されただけでその後は健康保険を払ってもらえるわけでもなく、一切世話してもらえない。
これなら、せいぜい不動産屋のように、1か月分の給料相当金額を手数料として取るくらいが妥当であろう。納得いかないままマイスタッフ社の勤務報告のサイトを開き、勤務時間を入力している。(H社長もこのマイスタッフ社のサイトで承認する)

4月2日に地下鉄の出口で会って、改札で別れるまで、Sさんが私に対して非常に丁寧だった理由が分かった。私はマイスタッフ社にとって毎月売上金となる商品だったのである。

4月は私がすこしずつH社になれるとともに、野菜も成長していった。
残っていたアブラナ科の三太郎大根もトウが立った。
2025₋04₋22
7番畝、三太郎大根
宮重大根24本のほかに、発芽、トウ立ちが遅い三太郎大根をサツマイモの後の空き地に11本育てておいた。時期をずらせば便利だと思ったのだが、ひと冬35本もの大根は多すぎた。定年退職すると差し上げる人も減り、持て余す。
2025₋04₋24
しかしトウ立ちが始まったので抜かねばならない。

H社での初仕事は、アンチトロンビン製剤の販売に合わせて行われた講演の再現原稿を作ることだった。N社がオピニオンリーダー的なG医師に依頼した講演を要約して販売促進パンフレットか自社PR誌に載せるらしい。
テープ起こしされた1万5000文字ほどの講演録から、5000文字ほどのテキストと使われたスライドも適当に合わせ、原稿にする。見出しを考え、再構成しなくてはならないから頭を使う。
一か所辻褄が合わなかったから参考論文を読んだら、演者先生が間違えて逆のことを話されていた。
もちろん直した。しかしこれは、本来やるはずだったH社の社員はもちろん、N社の担当の人も、そして読者もほとんど気が付かないだろう。それに、こういうものは作ってもほとんどの人はまともに読まないものだ。

次の仕事は卵巣がん患者が使うアプリの中の文章をチェックすることだった。使われている参考論文のうち、ガイドラインが改訂されているようなものはページ数が変わるから直したり、他の参考となるサイトも存在するかどうかURLをチェックする。しかし読んでいると専門的なところで頭をかしげる表現もある。

こういうものは直すかどうか考えるときに私の時給が頭をよぎる。
いくらで依頼された仕事なのか考えれば、私がこの作業にかけられる時間はおのずから出てくる。安く仕入れたものなら、それなりに拙速、雑にしないと採算がとれない。

また、私は仕事をしたという証拠に、いろいろ指摘したいが、指摘されたほうは面白くないかもしれない。自分では決して書かないような分かりにくい表現、変な日本語も、サイエンスとして大きく間違っていないなら、そのままにしたほうが良いのかもしれない。目をつぶるということも大事か。
2025₋04₋24
三太郎大根は宮重よりずんぐりしている。
カツオのようだ。

H社の仕事は、製薬会社から直接来ることもあるが、日経メディカル開発、CMCエクスメディカ、真和、協和企画など医療専門の広告代理店から仕事が来る。これらの会社は製薬会社や病院、公的機関など、医療分野でのマーケティング活動、啓蒙活動を、動画作成も含め情報提供面でサポートすることを事業目的とする。顧客は税金が投入されている社団法人などもあり、すべて金持ちである。それにしても、こういう広告会社がこんなにあるとは初めて知った。

H社はこういう広告代理店の下請けであり、H社のような医療専門のソリューション提供会社はいっぱいあるのだろう。

つまり、(製薬会社→)講演の先生→製薬会社→医療専門広告代理店→H社→私に指示してくれる隣席のYさん→(派遣会社)→私。
という流れである。
講演の先生がそのまま自分で書けば一番簡単で無駄がないが、末端の私まで来ると、時間と費用が莫大になる。各ステップでマージンを3割とれば、その下請け価格は70%、それが2段階なら49%、3段階で34%に押さえつけらえることになる。
これが社会の仕組みだといえばそれまでだが、自分が末端に来ると、その無駄を考えざるを得ない。

コメの価格で流通段階の中間者のマージンが注目されたが、金がある医療業界はもっと中間者が多そうだ。ネット社会になり生産者と消費者が直接結ばれる例も増えてきたが、この業界はネット時代以前よりもさらに中間業者が増えている気がする。お金さえあれば業者に委託、丸投げすればいいという仕組みができているのだろう。無駄とみるか、経済を回しているとみるか。
2025₋05₋09
5番畝キャベツ初収穫。19株のうち1つ目。
左の6番畝はジャガイモ

H社は製薬企業からの直接の依頼も増えている。そちらが多くなれば真和、協和企画などと肩を並べる広告代理店となるのだろう。
社員は4月に私、連休明けの5月にもう一人はいり、11人となった。成長期である。
孫の成長を見るようだ。せっかく縁のできた会社なので、年寄りはみなが幸せになるお手伝いができればよい。
あすはお昼に上野の五条天神に業績発展のお参りに行き、そのあと昼食会という。歓迎会など今までのアルバイトではなかった経験で、ありがたく思う。

2025年5月8日木曜日

土佐の偉人。武市、板垣、寺田、坂本、柳瀬と桂浜

3月26日、IさんKさんと高知城をみたあと、別れて一人になった。

別れた場所に看板地図があった。

11:38
高知城周辺の歴史散策地図。
いろいろ土佐の有名人ゆかりの場所が書いてある。
面白いのは吉田東洋だけ東洋先生と敬称で書かれていることだ。一番有名な幕末の藩主でさえ「山内容堂誕生地」だし、ほかも「武市半平太邸跡」などと敬称なしで書いているのに。
ま、それは良いとして、さてどこに行こうか。

その前に、武市半平太の亡くなった場所「武市瑞山殉節の地」は高知城に来る前、すなわち1時間ほど前に写真を撮っていたのでここに書いておく。
10:47
武市瑞山先生殉節の地
帯屋町壱番街のアーケードを抜けた、高知大神宮の手前にある。
殉節とは節義(正義)のために死ぬことだが、正義とは何だろう?

武市は、黒船来航以降の時勢を受けて1861年尊王攘夷の土佐勤王党を結成した。当時土佐は、吉田東洋が山内豊信(容堂)によって大目付、さらには参政に抜擢され、藩内の改革を行っていたが、勤王党は彼を暗殺し、藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。

勤王党は、京都における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変(文久3年、1863)で長州と過激公家らが排除され、公武合体をいう会津、薩摩が主導権をとると、尊王攘夷派は一気に力を失い、土佐藩でも東洋殺しの疑いがあった勤王党の弾圧が始まった。

帰国していた半平太も捕らえられ、ここ、城下帯屋町の南会所(藩の政庁)に投獄された。半平太に傾倒していた獄吏に便宜を図ってもらい、獄外の同士や家族と連絡を取っていたが、翌文久4年4月に京都で岡田以蔵が逮捕、土佐に送還され、激しい拷問の末、自白したことにより新たな逮捕者が続出、取り調べの激しさも増した。
それでも吉田東洋殺しの証拠は得られず、そして慶応元年閏5月(1865年7月)かねてから勤王党を不快に思っていた前藩主山内容堂は、業を煮やし、半平太の切腹を命じ土佐勤王党は壊滅した。

薩長土と一緒にいうが、藩ぐるみで尊王攘夷・倒幕に動いた長州、上層部が倒幕に動いた薩摩と違い、土佐は正規の藩士でなかった郷士が中心となり、かつ藩内で活動できず多くが脱藩した。

ちなみに、土佐藩での武士は、上士と、その下の下士にはっきり身分が分かれていた。上士は、山内一豊が遠州掛川から入封した時に連れてきた家臣の家で、参政・家老(吉田東洋)から馬周り組(後藤象二郎)、小姓組、見回り組などであり、下士は潰された長曾我部の家臣が半農民化したり商人になったものなどで、一番上が白札郷士(武市半平太)、つぎが郷士(坂本龍馬、岡田以蔵)、以下、徒士や足軽、庄屋階級(中岡慎太郎・吉村虎太郎)などが入る。その下に郷士の株を売ってしまった地下浪人(岩崎弥太郎の家)という身分があった。

この身分制度(差別)は徹底していて、上士によって差別されてきた下士の郷士階級から尊王攘夷の活動家が多く出たことは、倒幕を目指した薩長の志士たちと少し違い、天皇の下に万民平等を夢見たものが多かったからではないか。

それは維新後、土佐の自由民権運動にもつながっていく。
高知城にあった板垣退助(1837 - 1919)の像は写真に撮らなかったが、像の場所と大きさから高知市民が一番の偉人にしていると思われた。100円札にもなったから他県の人から見ても(坂本龍馬よりも)一番の有名人だろう。

板垣(当時は乾退助)は上士の家だったから、武市がとらわれた時は町奉行として取り調べる側だったが、勤王派でもあったから土佐勤王党に同情的で終始好意的であった。しかしそれゆえ藩上層部と意見が合わず、また冤罪によって謹慎させられる。その後武市が切腹、藩論が佐幕に転じた後は江戸に遊学した。

慶応2年1月(1866年3月)、坂本龍馬の尽力により薩長同盟が成立。
慶応3年5月(1867年6月) 、京都・近衛家別邸で土佐の乾退助、中岡慎太郎、谷干城、毛利恭助が、薩摩の小松清廉、西郷吉之助(のちの隆盛)、吉井幸輔らと議し、武力討幕を目指す薩土密約を締結した。

この時代の流れに押される形で、佐幕であった山内容堂も軍事密約を(しぶしぶ?)了承し、退助に土佐藩の軍制刷新を命じた。
そして退助は近代化した藩兵を率い戊辰戦争となる。武力倒幕を目指す東征大総督府(総督は有栖川宮熾仁親王)において、東海道先鋒軍参謀が西郷隆盛、東山道先鋒軍参謀が板垣退助であった。甲州勝沼、会津に転戦した。(函館は行かなかった。)

この流れでは明治政府の要人となるはずで、実際、参議となって岩倉使節団派遣後の留守政府をあずかるが、征韓論が容れられず西郷隆盛、後藤象二郎らと明治6年に下野した。

教科書的には、これからあとの「板垣死すとも自由は死せず」(明治15年、1882年岐阜の演説会で暴漢に襲われたときのセリフ)で、自由民権運動の指導者として知られるが、明治維新前の尊王攘夷活動、軍人としての活躍は義務教育では教えられない。

堀に沿って高知城の東南の隅の交差点(帯屋町アーケードから歩いてきた通り)に行くと、堀を渡る橋に向かう形で肖像画や顔写真の並ぶパネルがあった。
11:47
「土佐ゆかりの偉人」
紀貫之、義堂周信・絶海中津、長曾我部元親、山内一豊、野中兼山、中浜万次郎、山内容堂、武市半平太、岩崎弥太郎、坂本龍馬
板垣退助、中岡慎太郎、中江兆民、小野梓、牧野富太郎、浜口雄幸、幸徳秋水、寺田寅彦。
19人で18枚ある。

田中光顕(陸軍少将、宮内大臣)、谷干城(陸軍中将、初代農商務大臣)、山下奉文(陸軍大将)、島村速雄(元帥海軍大将、海軍軍令部長)、永野修身(元帥海軍大将、海軍大臣、軍令部総長)なども有名だが軍人は入れにくいのだろう。

一方で、紀貫之は「ゆかり」はあるが、生まれは紀伊か大和とされ、出身者すなわち偉人となるうえで土佐の風土が影響したかどうかという基準で選べば、紀貫之の代わりに後藤象二郎あたりを入れたい。

見ているうちに最後のパネルの寺田寅彦記念館に行くことにした。
お城の北西で近いし。
堀に沿ってぐるっと裏に回ればよい。
11:49
内堀と城山の間、すなわち山の南側の平地は東に藩主用の馬場、西側に藩主の屋敷があった。
11:50
藩主の屋敷跡に建つ高知県庁。
庁舎の間から天守閣が見えた。

11:53

城山の西のふもと、御桜山から搦手門跡を通って城の北側に出ると川がある。

12:00
江の口川、小津橋

12:01
この川は南の鏡川とともに高知城の外堀となっていたが、このあたりは城山のすぐ北で、内堀の役目を果たしていた。

12:04
寺田寅彦邸跡
地図をみて行ってみたら裏口だった。入り口は江の口川に面したほうだった。
12:03
裏口から中を覗けば、武家の屋敷といった風で、割と広い。
自家用の野菜は十分作れる。
お城のすぐそばだから寺田家は土佐藩でも上のほうかと思ったらそうでもない。父親は土佐藩士族ではあったが足軽だから上士ではなく下士の郷士よりも下である。寅彦は東京で生まれ、4歳の時に父親が熊本鎮台に転勤になったのを機に、父が故郷に家を求め、祖母、母、姉とうつって来た。そして熊本の第五高等学校に入る19歳まで過ごす。
12:07
川端の正面にまわると、本日休館だった。
表札の題字は牧野富太郎。
「旧寺田邸」ではなく「寺田邸址」というのは戦争で焼失し、近年復元再建したからだろうか。

寺田寅彦は1903年東大物理学科を首席で卒業、講師となり1908年「尺八の音響学的研究」で理学博士となった。
1913年には「X線の結晶透過」(ラウエ斑点の実験)についてNatureに発表したが、もっぱら身の回りの物理に目を向け、墨流しとか、金平糖の角、ひび割れなどを研究対象とし、地球物理、地震、気象、防災などを専門とした。1935年駒込曙町の自宅で死去。
戦後、湯川、朝永が量子力学でノーベル賞を取ったのに対し、東大物理が振るわなかったのは寺田物理のせいだという声も一部にあったらしい。
漱石とは第五高等学校の英語教師と生徒以来の関係であり、その古さ、親しさから漱石門下生のあいだでも特別視されていた。

とにかく、寺田記念館が開いていないので、予定のなかった坂本龍馬誕生地にでも行ってみる。

寺田邸の前の江の口川に沿って歩くと、川が南に曲がりお城の真西にきたころ、川と道路の間の緑地に石碑があった。
12:14
「日中不再戦」 
日本人は誰でも戦争はこりごりで、けっして再戦しようなどとは思わない。普通の日本人はこんな当たり前のことをわざわざ大きな石には彫らないだろう。
「一九九二年高知県民建之」とあるが、日中不再戦という5文字と字体の感じから中国人が建てたようにみえる。

そういえば高知城追手門からでたところに看板地図があった。
(この地図は他の場所でも何回か見た)
11:38
高知城下の旧町名地図
ここで、中国語訳は必要だろうか? スペースがとられ情報が半分になってしまう。日本人だって読む人は少ない。中国人旅行者でもこういう細かいものを読む人は日本語を勉強するか、ネットで中国語のサイトを調べるだろう。

要するに、石碑と言い地図と言い、高知県では中国人が多いのかなと思ってしまうが、他県と比べ特に多いという話は聞かない。

やがて江ノ口川の南に渡り、路面電車の通り(松山まで行く国道33号線)に出る。
その広い道を西に行くと、上町病院の西隣に石碑があった。
12:21
坂本龍馬先生誕生地 内閣総理大臣吉田茂
吉田茂は東京生まれだが父親は高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱であり、のちに父の友人の吉田健三(福井藩士)の養子となった。
碑文は吉田が総理だった1952年に揮毫され、明治100年記念の1968年に台座を含め整備された。司馬遼太郎の竜馬がゆく(1962年から新聞連載開始)より前である。

竜馬はここで生まれ育ったわけだが、山や川などがあるわけでないので当時の雰囲気が分かるものは何もなく、早々に離れた。

ここから南の鏡川のそばに山内容堂邸址というものがあるが(当時、南屋敷と呼ばれ、実父・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の家である)、時間がないし歩き疲れたのでまっすぐ高知駅に行くことにした。

途中再び高知城、県庁前の堀端に出て、追手門の東、追手筋を歩いた。
広くて中央に緑地がある公園のような道である。
12:32
なぜか刃物の店が並んでいる。
「刀買います」「火縄銃売買」などといった看板も出ている。
こういう店は他の都市にない気がする。
12:33
柔らかい色の木材を並べたような、隈研吾とは少し違った建物が見えた。
「オーテピア」という図書館と科学館が入る複合施設だった。

12:34
「ねえ君、ふしぎだと思いませんか」
「天災は忘れられたるころ来る」
30分ほど前の記念館は本日休館だったが、こんなところで寺田寅彦に会った。

なおも追手筋を歩くと、駅から南下している「はりまや通り」(高松から来る国道32号線)に出る。
駅舎が見えたころ、アンパンマンの像が並んでいた。
12:42
やなせたかしは高知出身だったな。
お城の脇でパネルになっていた土佐出身の偉人、とく政治家たちは、自分の地位で仕事しただけで、その地位も汚い手で得たものかもしれない。その点、本人の才能と実力だけで有名になった漫画家のほうが「偉人」といえる。
東京生まれだが父が厦門で客死し、高知の長岡郡後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた伯父に引き取られた。
話はとぶが、私の故郷、信州中野は市内のすべての農協が1964年に合併し中野市農協となった。翌年全国的にも珍しくアップルちゃんマークというシンボルキャラクターを制定し、農産物の袋に印刷して出荷した(1965年はまだリンゴの一大産地)。たしか、数年後に巨峰、えのきだけ、アスパラガスだったか3品目で全国1位という農協となった。(当時はまだ東日本、北日本の果樹農家がリンゴを作っていた頃、いち早く巨峰に切り替え、また松代発祥のえのきだけの栽培は始まったばかりで中野が全国生産の9割を占めていた)。そしてこのアップルちゃんの作者を私はずっとやなせたかしだと思って「アンパンマン」なども見ていたのだが、ところが今回、制定した年を調べた時に、作者は「ほのぼの君」の佃公彦ということが判明した。50年ぶりによく見れば確かに違っている。

さて、高知駅に着いた。
2008年に高架となったらしいが、電化されずディーゼル車しか通らない線路と近代的駅舎が頭の中でうまくマッチしない。
駅前広場に銅像のようなものが見える。
12:44
高知駅前の三像
遠目ではキリスト教の殉教者たちのように見えたが、実際彼らは幕末の動乱で命を落とした。坂本龍馬(享年31)、武市半平太(36)、中岡慎太郎(30)である。発泡スチロール製だが台座を含めると400キロある。台風のときなど数年に一度、転倒防止のため避難するらしい。昨年2024年8月にも5年ぶりに撤去された。

これらの像は2011年7月、土佐勤王党結成150周年を記念して設置されたが、もちろん勤王党が現存するわけでなく、観光目的である。どうも「竜馬がゆく」の影響を受けているな、と思ったが、こういうものは観光客が知っていることを見せなければならず、私もこの小説でほとんど知識をえたから、建てるとしたら、こうなるのかな。
でも私としてはないほうが良い。

このあと高知城で別れたIさんKさんと合流し、路線バスで桂浜に向かった。
13:48
桂浜
大雑把な土佐湾の形から、見渡す限り太平洋と砂浜が続く九十九里のような景色を想像していたから、山と松のあることが意外だった。
13:52
このブログを書くにあたり、最近使い始めたchatGPTに
「「竜馬がゆく」で坂本龍馬が桂浜にいる場面がありますか?」と聞いてみた。
すると
「あります。龍馬が太平洋を眺めながら思索する描写があり、彼の「日本という国の未来」に対する大きな志や、世界に目を向けた広い視野が印象的に表現されています。海を見つめる姿が「大きなスケールの人間像」として象徴的に描かれ、彼の人物像を際立たせる場面です。」
と立派な答えが返ってきた。私は疑い深いので
「小説のどのあたりにありますか?」と聞いた。すると
「第1巻「門出の花」の章に登場します。この場面では、龍馬が故郷・土佐の桂浜で太平洋を見つめながら、広大な世界への憧れや志を抱く様子が描かれています。」
と返ってきた。
なるほど、ありそうだが、しかし文庫本を引っ張り出してきて探しても、ない。
そこで「探したが、ない。ほんとうにあるのか?」
と聞くと、やっと
「ご指摘ありがとうございます。先ほど「第1巻『門出の花』の章に桂浜の場面が登場する」とお伝えしましたが、改めて確認したところ、そのような場面は該当章には見当たりませんでした。誤った情報をお伝えしてしまい、深くお詫び申し上げます。」
といってきた。
chatGPTは、タイトルやキーワードを与えてレポートを書かすと見事な回答(作品)を瞬時に返すが、嘘を平気で(かなりの頻度で)つく。
13:57
浦戸湾入り口を挟んで向こう側の高知新港に停泊中の飛鳥IIがみえた。
13:58
世界につながる雄大な海を見て育てば偉人になるわけではない。
土佐の人はこの海と険阻な四国山脈に挟まれていたわけで、他県の人とは隔絶している。
孤立して他人と違う考え方を持つことが偉人となる条件かもしれない。

有名な桂浜の竜馬像は砂浜にあるのかと思ったら、東の高台の上だという。
林の中を上がっていく。
14:01
竜馬像
像の高さは5.3m,台座を含めた総高は13.5m。高すぎて、はるか太平洋の彼方を見つめているという表情などはよく見えない。
 高知県の青年有志が募金活動を行い、除幕式は昭和3年5月27日。海軍記念日である。日本海軍生みの親と一部で言われる理由は、1867年海援隊を組織したからか。
いろは丸などを使って交易、海運を目的としたものだったが、竜馬自身が勝海舟の創設した幕府海軍の軍艦操練所で塾頭をつとめたから、海援隊も同時に軍艦の運用や航海術、海上戦術の訓練機能を兼ねた実質的な海軍的組織だったということか。(それなら勝海舟が海軍生みの親だろう)

このあと飛鳥へのバスの発車まで時間があったのでIさん、Kさんと別れ、長曾我部元親の建てた浦戸城をみようと西裏の山をあがった。
た。
14:12
浦戸城址
土産物屋でにぎわう海辺の桂浜と違い、誰もいない。
荒れに荒れ、遺構もほとんどない。
山内一豊が河中山城を築くにあたり、ここの石垣からだいぶ石を運んだらしい。
そういえば、一豊が土佐に入ったときは長曾我部の遺臣が多く残っており、領地取り上げに反対してこの浦戸城に立てこもった。この浦戸一揆は策略によって平定し、200人以上の首を獄門にかけたという。その後も抵抗と平定(殺戮)は繰り返され、上士と郷士の溝(郷士の恨み)は深まった。

浜辺のバスターミナルに戻り、飛鳥の用意した無料バスに乗った。
14:35
帰路、浦戸大橋から浦戸湾を見る。
高知の町が見えないほど湾は奥深い。

この時は知らなかったが、翌週、すなわちこの5日後の3月31日からNHK朝ドラで柳瀬隆を主人公にした「あんぱん」の放送が始まった。牧野富太郎が放送されたばかりなのに、やはり高知随一の偉人である。


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