先日金沢に行って「忘れられない人(1)」を書いたことで、また別の男を思い出した。
1969年、私は平野小学校を出て中野平中学に入学した。3クラスあって1年2組。
ちょうど半分は平野小学校、半分は隣の高丘小学校から来た。
K島は高丘小学校の出身で、初めて会った。
名簿はアイウエオ順で浅沼、安部、蟻川、勝山、K島、小林克、小林力の順だった。
席はこの7人が窓側で、たてに一列に並んでいた。右隣は女の列。私は一番後ろの教室の隅、ごみ箱の前だった。3年間のうちに席替えしても定期試験などはこの順だったせいか、いまでも彼の後姿と振り向いた顔が思い浮かぶ。
まじめで、正直で、数学ができた。
顔は鼻が大きく、笑うと前歯が2本目立ち、色が黒くて、手足が何となく短く(動作のせい?)、それらが天然のひょうきんさにぴったり合って誰からも愛されていた。(こう書くと不細工な男に思えるが、決してそうではない)
家は反対方向だったが、いつのころか、一緒に帰ろうと誘われた。
学校の前の、だれも使わない(すなわち誰も来ない)歩道橋の上で車を見下ろしながら、「どうもチハルはツトムのことを好きな気がする」という。
チハルというのは、K島が好きな女だと誰かがいい、はやし立てるたびに彼が赤くなって否定した女生徒だ。なんだ本当だったのか。
チハルは私にいつも笑顔で話しかけてきて、こちらもかわいいと思っていたけど、私との間には何もなかった。
その後、中間、期末試験のたびに
チハルは私にいつも笑顔で話しかけてきて、こちらもかわいいと思っていたけど、私との間には何もなかった。
その後、中間、期末試験のたびに
「ツトム、数学何点だった?」と歩道橋の上で聞かれた。
彼は92点とって喜んで聞いたのに、私が96点だというと、
「さすがだな」とがっかりした。
皆、農家の子供で、誰も勉強しないから問題も簡単。試験直前、休み時間に廊下に座り教科書を見るくらいだった。
将来の進路など何も考えず、ただ毎日学校を楽しんでいた。
喫茶店などもちろんなく、二人を含む数人は、秋になるとプールの横の、水が抜けたコンクリートの消毒槽の中に座り、暗くなるまで話したりした。
そういえば、技術家庭科も二人はライバルだった。
将来の進路など何も考えず、ただ毎日学校を楽しんでいた。
喫茶店などもちろんなく、二人を含む数人は、秋になるとプールの横の、水が抜けたコンクリートの消毒槽の中に座り、暗くなるまで話したりした。
そういえば、技術家庭科も二人はライバルだった。
製図もきれいだったし、木工で作った本立て、金属加工で作った塵取りなどは、お互い教科書を逸脱した独創的デザイン、仕事の丁寧さで競い、クラスの手本だった。
しかし趣味は正反対。
私は盆栽、サボテン、錦鯉の飼育など生き物に向かったのに対し、彼はラジオ製作、アマチュア無線に夢中になった。彼の部屋は農家の物置の二階だったから皆が集まりやすく、コタツの横には石鹸箱をケースにした試作ラジオと電気関係の雑誌が散らかっていた。
中学を卒業するに当たり、私は十代目となる農家の長男なので須坂園芸高校に行こうとした。すると担任が「勉強ができるからもったいない、長野高校へ行ったほうがいい」と親に話し、成り行きで進学した。
一方彼は、好きな電気工作が毎日毎日学べるということで、予定通り長野工業高校に進学した。長野工業でも、優秀だが少し抜けている彼は人気者だったようだ。
しかし彼は高校を終えるにあたり、大学進学したくなった。国立で(当時学費は月3000円、年間3万6千円)、家から通える信州大学を狙った。しかし大学など誰もいかない工業高校から、急に思い立って受かるほど世の中甘くない。それでも1年、宅浪して見事合格した。
(そういえば高3の秋か冬、中野実高にいった勝山隆夫に中野の金井書店で偶然会った。大学に行きたいと受験参考書を探しに来たという。しかし初めて見るその種類の多さに圧倒され、彼は進学を断念した。のどかな同級生たちだった)
実は中学卒業後、K島のことは友人から聞いても、お互い連絡取ることはなかった。
何がきっかけだったか忘れたが、40代のいつか、東京・調布で(一時的に?)仕事をしている話を聞き、同じ大俣出身、熊谷在住の浅沼を呼んで中間地点、赤羽で飲んだ。
そこで我々の中学高校時代のアイドル、アグネスチャンの話になる。
K島は「おれ、握手したことあるぞ」という。
何かの発明コンテストに応募したら、特賞になった。
そのときのゲスト審査員がアグネスチャンだった。賞金も100万円でた。新聞にも載ったらしい。
その発明こそ録風機だった。
扇風機とラジカセを一緒にしたような機械で、旅行に行ったら風を羽で受ける。その時の回転数を電圧に変え、カセットテープに記録する。録音機ならぬ録風機である。
旅から帰って、ラジカセのスイッチを入れると、磁気テープに記録された電圧変化のパターンが風の強弱に戻り、志賀高原や美ヶ原と同じ風のゆらぎを感じることができる。
原理は簡単だが、誰も思いつかなかったのではないか?
ほとんど役に立たず商品にもならないだろう。
しかし、恋人や家族と登った山、美しい人と言葉を交わしたが名前も聞かずに別れた高原・・・・風があれば、甘い記憶の思い出し方も変わるかもしれない。
もっとも、武骨な機械をもってデートするのも変だから、墓参りや一人旅だな。
録風機。
彼らしいな、と思った。
優しくて、夢がある。
素朴で、使った技術も発想も、中学生の時のままだ。
彼は特賞の装置を自慢することもなく、ただアグネスの手の感触を熱く語って、話題はうつった。
私は、田舎の中学を卒業して、有名大学から大企業へ入った。世間から見ると成功したと思われている。
しかし私には彼のようなセンスと(天然の)ユーモアがない。
やはりかなわないな、と思う。
彼は自分の才能にずっと気づかずに来たのではないか。
その後、互いに連絡とっていない。
今、何をしているか検索したら
長野県創業支援センターの2016年度支援の研究開発テーマに選ばれていた。
有限会社マイクロキット 倉島郁夫
「自走式インクジェットプリンタの開発」
紙の上を動くマウスみたいなプリンター?
世間では既に作られているらしい。しかし彼なら突拍子もない、ロマンとユーモアあふれた新しい使い方を考えているのではないか?
還暦過ぎても頭は柔軟、相変わらず元気でやっているようだ。
蛇行する千曲川と山に挟まれた中野市大俣地区は、中学の通学区域の中で唯一自転車通学が許されたほど遠かった(4キロ離れた立ヶ花や牛出地区は徒歩だった)。大雨で千曲の旧河床が水没したときは、自転車を押して七瀬から山越えする道しかなく、田舎の我々の中でも田舎とされた。
妹がいたけど長男だったから、実家にいるのかな。
今は車があるから、長野への通勤も問題ない。
大俣が生んだ天才は、私のことなど忘れて幸せに暮らしているだろう。
関連ブログ
2018-04-08 忘れられない人(1)O田切健自さん
千駄木菜園 総目次
しかし趣味は正反対。
私は盆栽、サボテン、錦鯉の飼育など生き物に向かったのに対し、彼はラジオ製作、アマチュア無線に夢中になった。彼の部屋は農家の物置の二階だったから皆が集まりやすく、コタツの横には石鹸箱をケースにした試作ラジオと電気関係の雑誌が散らかっていた。
中学を卒業するに当たり、私は十代目となる農家の長男なので須坂園芸高校に行こうとした。すると担任が「勉強ができるからもったいない、長野高校へ行ったほうがいい」と親に話し、成り行きで進学した。
一方彼は、好きな電気工作が毎日毎日学べるということで、予定通り長野工業高校に進学した。長野工業でも、優秀だが少し抜けている彼は人気者だったようだ。
しかし彼は高校を終えるにあたり、大学進学したくなった。国立で(当時学費は月3000円、年間3万6千円)、家から通える信州大学を狙った。しかし大学など誰もいかない工業高校から、急に思い立って受かるほど世の中甘くない。それでも1年、宅浪して見事合格した。
(そういえば高3の秋か冬、中野実高にいった勝山隆夫に中野の金井書店で偶然会った。大学に行きたいと受験参考書を探しに来たという。しかし初めて見るその種類の多さに圧倒され、彼は進学を断念した。のどかな同級生たちだった)
実は中学卒業後、K島のことは友人から聞いても、お互い連絡取ることはなかった。
何がきっかけだったか忘れたが、40代のいつか、東京・調布で(一時的に?)仕事をしている話を聞き、同じ大俣出身、熊谷在住の浅沼を呼んで中間地点、赤羽で飲んだ。
そこで我々の中学高校時代のアイドル、アグネスチャンの話になる。
K島は「おれ、握手したことあるぞ」という。
何かの発明コンテストに応募したら、特賞になった。
そのときのゲスト審査員がアグネスチャンだった。賞金も100万円でた。新聞にも載ったらしい。
その発明こそ録風機だった。
扇風機とラジカセを一緒にしたような機械で、旅行に行ったら風を羽で受ける。その時の回転数を電圧に変え、カセットテープに記録する。録音機ならぬ録風機である。
旅から帰って、ラジカセのスイッチを入れると、磁気テープに記録された電圧変化のパターンが風の強弱に戻り、志賀高原や美ヶ原と同じ風のゆらぎを感じることができる。
原理は簡単だが、誰も思いつかなかったのではないか?
ほとんど役に立たず商品にもならないだろう。
しかし、恋人や家族と登った山、美しい人と言葉を交わしたが名前も聞かずに別れた高原・・・・風があれば、甘い記憶の思い出し方も変わるかもしれない。
もっとも、武骨な機械をもってデートするのも変だから、墓参りや一人旅だな。
録風機。
彼らしいな、と思った。
優しくて、夢がある。
素朴で、使った技術も発想も、中学生の時のままだ。
彼は特賞の装置を自慢することもなく、ただアグネスの手の感触を熱く語って、話題はうつった。
私は、田舎の中学を卒業して、有名大学から大企業へ入った。世間から見ると成功したと思われている。
しかし私には彼のようなセンスと(天然の)ユーモアがない。
やはりかなわないな、と思う。
彼は自分の才能にずっと気づかずに来たのではないか。
その後、互いに連絡とっていない。
今、何をしているか検索したら
長野県創業支援センターの2016年度支援の研究開発テーマに選ばれていた。
有限会社マイクロキット 倉島郁夫
「自走式インクジェットプリンタの開発」
紙の上を動くマウスみたいなプリンター?
世間では既に作られているらしい。しかし彼なら突拍子もない、ロマンとユーモアあふれた新しい使い方を考えているのではないか?
還暦過ぎても頭は柔軟、相変わらず元気でやっているようだ。
蛇行する千曲川と山に挟まれた中野市大俣地区は、中学の通学区域の中で唯一自転車通学が許されたほど遠かった(4キロ離れた立ヶ花や牛出地区は徒歩だった)。大雨で千曲の旧河床が水没したときは、自転車を押して七瀬から山越えする道しかなく、田舎の我々の中でも田舎とされた。
妹がいたけど長男だったから、実家にいるのかな。
今は車があるから、長野への通勤も問題ない。
大俣が生んだ天才は、私のことなど忘れて幸せに暮らしているだろう。
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9/9放送の「半分、青い」をみて「録風機」のことを思い出し、検索してみたところこちらのブログが見つかりました。倉島さんとは、私が新卒のときの会社で同僚でした。9/10の放送で律が作るものが判明すると思いますが、もし「録風機」だったら倉島さんは早すぎた天才ということになるんでしょうか 笑
返信削除Takaさん。コメントありがとうございます。
返信削除そうですか。職場でご一緒でしたか。中学のときだけしか知らない私より、彼をご存知ですね。私は18年前に一度会ったきりです。
勝手に書いちゃって(でも彼は怒らないでしょう)今頃、中野市大俣でくしゃみをしてますかね。
残念ながら「半分青い」は見れませんでした。