2026年1月28日水曜日

横須賀、神奈川歯科大、三笠、秋山真之

1月18日、横須賀に行った。
行かねばならぬ用もないので普段通りに朝飯を食べていたら7時半を過ぎた。
 7:49 西日暮里発 
 8:26 品川発 京浜急行、特急
 9:17 横須賀中央着 
828円 
9:20
横須賀中央駅
改札を出ると二階のデッキ。
はて、こんな駅だったっけ?

横須賀は4回目。
過去の3回は、
1.1993年3月27日 記念艦・三笠の見学
2.1998年11月19日 USS KittyHawk 乗艦
3.2000年10月27日 海上自衛隊 観艦式
すなわち4半世紀ぶり。
しかし観艦式のときはJR横須賀駅だったから、この駅は27年ぶりか33年ぶりである。
JR横須賀駅にはほとんど住宅、商店がないのに対し、京急の横須賀中央は市役所や商店街がある。
JR横須賀線は三浦半島の西側(鎌倉、逗子)から東側に来ると軍港だった田浦、横須賀だけ海岸に沿うが、横須賀駅を出ると再びトンネルを通って内陸に入り、衣笠を経て久里浜に行く。いっぽう京急はずっと海岸沿いの市街地を結んでいる。

地図の左上にある三笠に行ってみる。33年ぶり。
9:23
一階の路上に降りても思い出せず。
9:26
左、二軒目は三笠ビル
上から見ると両端が細長いため船のような形をしている。
1959年完成だが命名者は加藤寛治だという(ウィキペディア)。わざわざ断りなしにこの名を出すからには、日露戦争で三笠の砲術長であった、のちの海軍大将のことだろう。しかし彼は戦前に亡くなっている。ウィキペディアが正しいなら、このビルは二代目ということだろうか?
9:30
市役所前公園から
ザ・タワー横須賀中央(2015年竣工、38階建 143m)。
クルーズ船飛鳥IIが東京湾に帰ってくるのは必ず早朝。いつも部屋は左舷だったから目覚めるとこのタワーが見え、横須賀沖だと知った。横須賀で最も高いビルである。
9:31
横須賀市役所
人口37万人は神奈川県で第5位、全国でも49~51位くらい。
しかし、戦前の1935年は全国47都道府県で17位だった。
現在、南の久里浜から三浦半島の西岸まで市域とする。

きれいな遊歩道のようなところに出た。
9:37
神奈川歯科大。
1910年、神田猿楽町に東京女子歯科医学校として設立。
我が国初の女性歯科医の養成機関だった。
大正時代になると本郷区側にも明華女子歯科医学校が設立され(現・東洋女子短大を経て東洋学園大)、この両校が女性歯科医の養成にあたった。

東京女子歯科医学校は神田から、品川区、大田区に移転。
戦後一旦廃校となったが、歯科衛生士養成の短大部が1963年、東京から横須賀に移転、
翌年、これを母体に神奈川歯科大が開学した。
最初から男女共学であり、現在は男子が6割という。
9:38
神奈川歯科大の前から公園のような遊歩道が続き、ベンチやモニュメントがある。

日本丸の一部の縮小模型
向こうは神奈川歯科大の体育館。

左手に横須賀学院中学、小学校を過ぎると、ぱっと三笠と東郷平八郎の銅像が目に入ってきた。
9:42
銅像の台座に東郷の歌が彫ってある。
「日本海海戦後言志 
日の本乃海にととろく. かちときは. 御陵威かしこむ. 聲とこそしれ  
東郷平八郎 (花押)」

その左の石碑には有名な
「皇国興廃在此一戦」と彫られていた。
このあと、各員一層奮励努力せよ、と続く。
バルチック艦隊がみるみる近づき砲戦直前、旗艦三笠に掲げられたZ旗の文言である。

Z旗というのは、A旗から始まる26のアルファベット信号旗の一つで、もともとこういう意味はない。出動数日前に艦隊司令部から各艦に旗の信号文が信号書の形で渡され、内容は航海長くらいしか知らない。
そしてこの旗が旗艦に掲げられたら、信号が肉声となって伝声管などを通じて、各部署の兵員に伝えられるのである。この文案は連合艦隊司令部先任参謀の秋山真之が書いた。

また海戦前日の5月26日、朝鮮鎮海湾の泊地から連合艦隊が出動するにあたり、東京の大本営に電報を打った。その電文の草稿を飯田参謀(少佐)が秋山(中佐)にもってきた。
「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出航、之を撃滅せんとす」である。
秋山は、よろしい、と一度はうなづいたが、「待て」といって、「本日天気晴朗なれども波高し」の文言を加えた。一見、装飾のように見えるが、砲戦にとって決定的となる視界の良さと波の揺れを短い文字数で大本営に伝えている。

また、T.ルーズベルトが英訳させてアメリカ海軍の士官に配布したことで世界的にも有名になった名文「連合艦隊解散の辞」も、秋山の作文を東郷が読んだものだ。

敵艦をほんのわずかでもウラジオストックに逃せば、その後の日本海で陸軍の兵員物資の輸送に支障をきたす。味方が半分以上沈んでも敵を全滅させることが必要だった。
一隻たりとも逃さないために三笠以下のT字戦法で敵の主力を弱らせ、残りを七段構えの掃討戦によって壊滅させる日本海海戦のシナリオは秋山真之一人の頭脳が考えた。
早くから天才と言われ、東郷長官以下、すべて作戦は彼一人に任せたほどであるが、この文才も異色である。それを思うと幼馴染の正岡子規との関係に行く。司馬遼太郎「坂の上の雲」である。

二人は伊予松山の没落士族の出身、近所で仲が良かった。二人とも松山中学を中退、上京し、共立学校(現・開成学園)を経て大学予備門(のちの一高、現・東大教養学部)に入学した。秋山は経済的理由から途中で学費のかからない海軍兵学校に転向してしまったが、もともと二人とも文学が好きだったのである。
9:44 歌碑
「軍艦」
守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の~で始まる軍艦マーチである。鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲。日露開戦の4年前、明治33年(1900)に「軍艦行進曲」として誕生した。

9:45 艦尾
ひらがなの「みかさ」という板は余計ではないか?
後から付けたものだろうが、誰でもこの船が三笠だと分かっている。
ちなみに今の自衛艦はすべてひらがな、帝国海軍はすべて漢字が正式艦名である。
9:46
副砲は防御版で覆われていたとは初めて知った。
戦闘中は窓が開くのかな?

平成5年3月(1993)、パシフィコ横浜で薬理学会があった。
一人会場を抜け出し、日の出町から京急に乗って三笠を見に来た。
36歳、日本史に興味を持ち始めたころだったが、研究者としていろんな悩みもあった。
その後、いろんなことがあったが、あの頃が懐かしい。
33年前、内部を見学して覚えているのは、船内に牛小屋があったこと。
司令部はイギリス海軍にならいフルコースの洋食であったから生きた牛を乗せていたのである。さすがに生きた牛は展示されていなかったが、干し草が敷いてあったことを覚えている。
しかし、当時はスマホもなかったから写真、記録はせず、他にはほとんど覚えていない。

33年前、船内見学を終えて売店で箱入りの「図説・東郷平八郎」を見つけて即、買った。
東郷の一生を図説したものだが、明治の日本海軍の歴史と一致していて、地図、写真、絵が素晴らしく、資料としてのデータも豊富で、3000円は安いと思った。見れば販売価格でなく頒布価格と書いてある。(送料500円)
東郷神社創建50周年記念事業として東郷会の機関紙「東郷」の編集部が総力を挙げて3年がかりで作り、出版は営利目的でなかった。
連合艦隊の各艦隊指揮官、幕僚
「図説・東郷平八郎」から。
終活で多くの本を捨てたが、これは最後まで持っているだろう。
連合艦隊解散の辞、全文

薬理学会を抜け出し三笠を見た2か月後、留学が決まり、8月に渡米した。
アメリカの書店は軍事関連のコーナーが充実していてアメリカ海軍、艦艇に関するビジュアル本をしこたま買った。そして、横須賀・三笠に来た2年後の1995年、日本海軍の知識を増やすため水交会と東郷会に入会した。
東郷会機関紙・月刊「東郷」
1995年6月号から1998年8月号まで3年3か月分ある。
当時まだ生存されていた旧海軍関係者の体験がのる、これらも捨てられない。
9:48
公園が工事中で、菊の御紋のある艦首部分には行けなかった。

なお、三笠は戦後すぐの9月佐世保港内で自爆して沈没し、凱旋で大将旗を掲げ東京湾に入ったのは敷島だった。
東郷が上陸して天皇に上奏するとき、海軍は口頭で述べるつもりでいたら、前日だか当日だか陸軍が上奏文を準備したと聞いて、おおいに慌てたときも秋山がすぐ格調高い名文を書いて助かったらしい。

各常備艦隊が戦時編成で集まった連合艦隊は12月、解散する。
この時の旗艦は朝日に代わっていて、その艦上で前述の「解散の辞」が読まれた。
9:49
Z旗と艦尾側の主砲
砲弾は三笠のものかと思ったら、戦艦大和の主砲砲弾という。
それならここに飾ってはダメだろう。
ひねったジョークにもならない。

ちなみに横断幕にある世界三大記念艦というのはイギリスのビクトリー、アメリカのコンスティテューションである。

この日、艦内の見学はせず、三笠を後にした。
9:53
左:神奈川歯科大附属病院、右:神奈川歯科大
病院は歯科だけでなく内科(消化器、糖尿病、腎臓、認知症)もある。

沈没した三笠は引き上げられ、修理されて明治41年現役に復帰した。
ワシントン条約で廃艦が決まった後、大正12年海軍の艦籍から外されたが、鉄くずにするに忍びないと、大正15年、ここに記念艦として定置、保存された。



2026年1月22日木曜日

赤塚城址公園、東京大仏、板橋植物園

 1月6日、三田線の志村三丁目でおりてすぐ南の崖上にある志村城址にいった。

続けて三田線の終点、西高島平に来て赤塚城址にきた。

二つの城は同じ崖線にあり、兄弟関係にある。普通の歩行ペースで 約40〜50分(3.5〜4 km) 。原っぱなら歩けば当時の人々の距離感を味わえるが、現在の住宅地では歩く意味もない。

14:38 西高島平駅
西高島平駅から南に少し歩く。
赤塚城址は公園になっている。
14:51
赤塚公園到着
ここは区立でなく都立公園。
この池はかつて濠だったか湿地帯の池だったか。
この公園には板橋区立美術館と郷土資料館がある。

15:02
板橋区立美術館
区民サークルのためのギャラリーではなく、ちゃんとした美術館のようだ。この日は「戦争と子供たち展」をやっていた。入館料は大人900円。
収蔵品展は無料のようだが、常設展はない。

ちなみに区立美術館があるのは、板橋、練馬、世田谷、目黒である。
いずれも区民ギャラリーがあったり収蔵品展は無料か200円程度。文京区の(私立)弥生美術館、竹久夢二美術館などと違って住民との距離が近い。墨田も区立美術館を持つが、こちらは北斎、浮世絵などに特化していて常設展(400円)がある。
15:05
トンボ池
武蔵野台地の端だから崖から地下水がわいている。
かつては東京中の崖線で湧いていたと思うが、たいてい崖上が宅地化、舗装され、崖自体もコンクリートで固められた。ここは珍しい。

赤塚公園は23区内とは思えないほどひろい。
15:09
板橋区立郷土資料館
無料なので入って見た。
15:12
いまの東京23区はたいして差がないが、江戸時代は大名屋敷が並んでいた千代田区や文京区とちがって、板橋区は田畑が広がり、中山道、板橋宿しかなかった。
そのため、資料館の展示物は、板橋宿、道祖神、旧家に伝わる古文書、幕末の徳丸ヶ原と高島秋帆、昭和の高島平団地くらいに限られていた。そのぶん分かり易く、じっくり見られた。
区立の郷土資料館(歴史・博物館)は23区すべてにある。
美術館と違って、収蔵品が集めやすいし、入館者も多いだろう。

中山道沿いにあった加賀藩下屋敷は明治になって陸軍用地、火薬製造所となった。

書籍コーナーに赤塚城址発掘調査の報告書があった。
城址に上がる前に予習。
15:25
赤塚城址地形図
東西北の3方が自然の谷で、360度のうち300度ほどが崖であり、まるで独立峰の平山城のよう。
国土地理院HPから
中央十字が赤塚城。
首都高5号池袋線(=新大宮バイパス)が笹目橋を渡る前に北に大きく曲がる地点、すなわち西高島平駅の南のほうになる。
15:08
郷土資料館を出て崖の階段道を上がっていく。
15:28
上がると平坦な芝生地
おそらく本丸跡だろうが、何もないのが良い。
東京23区内とは思えない。
赤塚城は康正2年(1456)に市川城から移った千葉自胤によって築城されたとネットにあったが、1456年というと彼は10歳である。何もできないだろう。

前のブログ(志村城址)でも書いたが、下総守護・名族千葉氏は古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏が争った享徳の乱のとき内紛が起こった。
重臣原胤房と同族の馬加康胤(千葉氏の通字の胤がある)は足利成氏につき、上杉方についた宗家を攻めた。父の胤賢ら一族を殺された宗家の幼い兄弟、実胤と自胤は亥鼻城から市川城に逃れた。
しかしそこも攻められ、上杉方の太田道灌は兄弟をひきとり、兄は石浜城(数年前、浅草北方、南千住に石浜神社を訪ねたが、神社は移転したもの)、弟の自胤はこの赤塚城を与えられた。

兄が隠居したあと弟の自胤は石浜城に入り、しかし享徳の乱は幕府が足利成氏主導の再編を認めることで終結、分家の千葉氏が上総に居座り、千葉自胤は武蔵の国人に転落した。その後太田氏、後北条氏に従ったが、秀吉の小田原征伐で没落、赤塚城も廃城となった。
15:30
芝生広場の南は梅林になっている。
二の丸跡という説もあるが、濠跡も高低差もなく本丸広場と別の曲輪とは考えにくい。

都立赤塚公園
崖を中心に雑木林が残り、北の山下には釣り堀池とトンボ池が、濠の名残のように存在している。公園は城址の北の3分の1くらいを占め、
右下(南)に谷を隔てて赤塚公園の一部が飛び地になっている。

公園の南の道を西に向かう。
15:34
左:住宅地、右:赤塚城址公園
1975年の航空写真をみれば左の住宅地は畑だった。
15:35
西側に空堀がある。
この西は別の曲輪だったのだろう。
東京の城跡としては江戸城を除けば、一番遺構が残っている。戦国時代終わりに廃城になったにもかかわらず。
15:36
地形図通り、道は西に下っていて、途中で崖になっている。

道を戻って南東の谷に降りていく。
15:42
左は谷、右は本丸のある丘。

谷に降り切ってから東に上がると、都立赤塚公園の飛び地になっていて、その南に乗蓮寺がある。
山門は東向きだったからぐるっと回り込んだ。門前の石段の下に駐車場の管理もかねて守衛の人が二人もいて、4時で門を閉めるという。入らせたくないようだったが、山門から降りてきた参拝者が「裏口は遅くまで開いているから大丈夫ですよ」と教えてくれたので、守衛さんから彼のほうに向いて、お礼を言いながら石段を上がった。
15:48
乗蓮寺
室町時代初めに今の板橋区仲町に創建されたとされる。江戸時代には慶学山乗蓮寺と称した。
1973年、首都高の建設と国道17号拡幅に伴い、この地に移転し、山号も変えて赤塚山乗蓮寺となった。

なんといってもこの寺が有名なのは東京大仏である。
15:48
「大仏さまにおさいせんをぶつけないで下さい」。
目立つことが目的という看板の役目を果たしている。

大仏の建立はもちろん移転してきた後、1977年。
以来、この寺の代名詞となっている。すなわち多くの人は東京大仏を知っていても乗蓮寺の名は知らない。とげぬき地蔵やこんにゃく閻魔と同じである。

大仏はその名の通り東京で一番大きかったが、最近、2018年に東京西多摩郡日の出町に鹿野大仏(ろくやだいぶつ)ができて抜かれた。とはいってもやはり「東京」では一番だろう。
ところで地蔵、観音の東京一番はどこなんだろう?

乗蓮寺は大仏のほかには植村直己の墓があることでも知られる。彼は1984年、43歳で消息を絶つまで15年間板橋に住んでいた。「己」はキだと思うが自然と変換された。(ミは「巳」)
15:49
南の裏門から出る。
私としては、ここは大仏や植村直己よりも、赤塚城の二の丸跡ということが大きい。
谷を隔ててほぼ同じ大きさの丘だから、双子のような双峰式、連郭式の城である。
境内のどこかに赤塚城二の丸跡という石柱があるらしいが、散策に飽き、探さなかった。

坂を下り、乗蓮寺の道路を挟んで斜め向かいは板橋区立植物園だった。
15:50
この植物園は2023年2月に来たことがある。
板橋区役所赤塚支所に板橋区の地図をもらいに来たついでに閉園間近の夕方だった。
不覚にも向かいに東京大仏があることを知らなかった。
コンクリートの擁壁の上にお寺があると思わなかった。
意外、と言われるが私はそれほど草花に興味がない。
3年ほど前と同じようにまっすぐ奥の畑に行ってみた。

15:53
あい変わらず何も植えていなかった。
今ならダイコン、ハクサイなど冬野菜の季節。
自分の畑なら二毛作、三毛作をして土地を遊ばせることはないのだが、お役所仕事だから余計なことはしない。

15:55
帰り際、地植えのシクラメンが珍しいと目を止めた。
よく見ると、どういう組み合わせか交互にアリッサムという植物が植えられている。
ダイコン、白菜と同じアブラナ科であるがニワナズナ属というから春の七草、ナズナの仲間だろうか。そういえば七草粥の前日であった。

誰もいない植物園を出た後、夕日に向かって東上線成増駅まで歩いた。
翌週12日にダンス競技会があるので駅前で散髪して、成増図書館で時間をつぶし、18時から2026年度の初練習をした。

正月休みを引きずって夕方の練習まで家でグダグダするつもりだったが、思い切って出かけたおかげで、志村城址、高島平、赤塚城址、東京大仏、と半日で色々見られた。

2026年1月16日金曜日

志村城と千葉氏、志村は篠村

ひまなので、今まで訪ねた城を数えてみた。
そのうち日本100名城は43、続100名城は14、その他41、合計98だった。
あと2つで100か。
昔から気になっていた志村城と赤塚城にいくことにした。
2つとも高島平の南側、武蔵野台地の北東端で荒川に面した崖上にある。

立地を考えるに、築城された中世は関東平野がまだ開けていなくて、村落の所在地(田畑、交通)も今とは大いに異なる。目の前は一面荒川(当時は入間川)の氾濫原で耕作に不向き、江戸時代になっても鷹狩り場にしかならなかった。現在でも想像できるのは見晴らしのよさだろうか。
国土地理院HPから
この崖線には南から流れ込む川によって谷ができ、小規模な城砦を作る適地が無数にある。

1月6日 快晴だが寒い。
都営地下鉄三田線の千石駅から乗る。
すいている電車は志村坂上を出ると地上に出る。地下からいきなり高架だから、武蔵野台地の崖の高さが分かる。

千石から15分。志村三丁目に到着。
13:59 志村三丁目駅前
マックのほか、ニトリ、サミットもあり、暮らしやすそう。
駅からすぐ坂になる。
14:01
板橋区立志村城山公園の入口

14:02
崖を上がっていく。
区立城山公園はこの崖部分の緑地だけで、あがると平坦な住宅地になっていた。
14:04
上がってすぐ城山熊野神社がある。
一番目立つのは境内にある城山幼稚園だった。

お寺と違い神社の幼稚園は珍しい。調べたら「城山幼稚園」のほかに「鎮守の森 城山どんぐり保育園」が境内にあり、坂下の「城山みどり こども園」の3園を学校法人・石川キンダー学園が経営している。 戦後の昭和24年、宮司であった石川文吉氏が「城山幼稚園」を創立したのが始まりらしい。 このあたりは純農村部であったと思われ、一家総出で野良仕事をせねばならない農家にとって、保育園は需要が高い。
今の学園理事長は石川典子氏である。77年もたっているからお孫さんだろうか。神社の公式サイトをみると宮司は石川明彦氏とある。彼の夫人だろうか。

城山熊野神社は、旧社格制度でいうと郷社であり、県社の下、村社の上で、市町村レベルの地域の中心となった。よくある無人の小さな神社、すなわち部落の産土神となった村社と違って宮司のいたことが幼稚園につながった。
14:05
正月祈祷をしてもらうビジネスマンたち

前日の1月5日の月曜が仕事始めのところが多く、その翌日に神社で初祈願をする会社がある。こんな地元の人しか知らないような小さな神社でも2つの会社が来て順番待ちしていた。いや、ひょっとしたら有名なのだろうか? 宮司がいればこういうこともしてもらえる。

14:06
城山熊野神社は志村熊野神社とも呼ばれるようだ。
境内には絵馬殿があった。
江戸時代に建てられた旧拝殿を建て替えのとき曳家したものらしい。
14:07
江戸時代中期から地域住民(たぶん農民)が奉納した絵馬82枚、扁額9枚、寄進札4枚が飾られている。
旧拝殿であるが、天井はなく梁がむき出しになっていた。

神社は樹木が多く、裏に回ってみた。
城跡らしく崖になっている。
14:08
往時は関東平野が一望されたはずだが、ビルよりも樹木で見えなかった。

志村城は築城年代は不明だが、豊島氏一族の志村氏により築かれたとされる。
1455年、室町幕府の関東管領・上杉家と鎌倉公方・足利成氏の間に争いが起こり、これが関東一円に広がった(享徳の乱)。このとき千葉亥鼻城にいた千葉宗家は、一族の馬加康胤に追われ千葉胤直・胤宣の父子は殺害され、遺児・自胤を太田道灌が保護し、赤塚城を与えた。近くの支城・志村城には一族の千葉信胤が入った。(城代として志村氏がいたとの説もある)。道灌としても名族千葉氏の本家筋の子を保護することは戦略的に意味があったのだろう。

しかし1524年、早雲を継いだ2代目北条氏綱に攻められ落城、後北条氏の支配するところとなり、北条滅亡後は廃城となり、江戸時代は神社だけ残った。

神社の裏をまわって西に行くと空堀が残っていた。
14:09
東の神社側と、西のマンション・ヴィオスガーデン城山の間の空堀。
https://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/itabasiku.htmから
国土地理院公式サイトから
曲輪は3つ。
西と南北が断崖だから舌の先端、すなわちマンションのある西の曲輪が本丸、神社が二の丸になるのだろうか。
14:12
神社を出るにあたり、志村城址という記念石柱と説明版があった。
千葉氏が滅んだ後、神社だけが残り、志村七か村の総鎮守となったという。

名族千葉氏について書いておく。
学校で習う教科書の関東は、(鎌倉を除けば)江戸時代以降であること、それ以前に存在した氏族は現在まで続いていないことから、私もあまり詳しくない。

平安時代中期に坂東に下向して武家となった桓武平氏の平良文を祖とする諸氏はその後、武蔵を中心に発展し、八つの氏族に大別されていたため、坂東八平氏と呼ばれた。
秩父、三浦、千葉、大庭、梶原、長尾などである。(時代によって盛衰があったため、8氏の数え方にはいくつかある)
秩父氏が鎌倉時代に畠山、河越、豊島、江戸、葛西、稲毛などの諸氏に分かれたのに対し、千葉氏は歴代当主が下総国守護をつとめ室町時代まで続いた。

その室町時代、1399年鎌倉公方足利満兼が就任するに際し、時の関東管領上杉朝宗の提案によって有力な8大名が屋形号を称する事となり、関東八屋形(かんとうはちやかた)といった。宇都宮、小田、小山、佐竹、千葉、長沼、那須、結城の八家を指す。いずれも旧来の名族である。

坂東八平氏と関東八屋形の両方に属するのは、すなわち長い時代を越えて関東で栄えたのは千葉氏だけである。
14:14
神社の西は板橋区立志村小学校
その西は崖になっている。坂下を首都高が通っている。

14:17
裏口から入ったから最後に鳥居を見た。
郷社熊野神社
扁額は「熊野宮」

熊野はもちろん紀州の熊野である。1042年志村将監が紀州熊野より勧請したと伝える。

この神社の東に隣接して、すなわち今は住宅地になった三の丸に北豊島郡志村の村役場があったという。
明治22年、県の下に郡と市、郡の下に町村を置くという現在の市町村制が始まったとき、全国で村の統合が行われ、今の板橋区域には北豊島郡板橋町、上板橋村、志村、赤塚村の1町3村ができた。そのうち志村は志村、本蓮沼村、上蓮沼村、小豆沢村、前野村、中台村、西台村、根葉村という部落規模の8か村が合併してできた。

ここで「志村」の蓮沼、小豆沢に相当する固有名詞の部分は「志」ということである。こんな村名があるだろうか? (新潟県十日町市も十日町村から十日町をへて十日町市になったから、町の時代の固有名詞部分は十日である。)

調べると「志村」は古くには「しのむら」と称されていたらしい。篠が生い茂っていた土地に開村したことが由来で、鎌倉時代の『吾妻鏡』に記されているという。


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