2026年1月28日水曜日

横須賀、神奈川歯科大、三笠、秋山真之

1月18日、横須賀に行った。
行かねばならぬ用もないので普段通りに朝飯を食べていたら7時半を過ぎた。
 7:49 西日暮里発 
 8:26 品川発 京浜急行、特急
 9:17 横須賀中央着 
828円 
9:20
横須賀中央駅
改札を出ると二階のデッキ。
はて、こんな駅だったっけ?

横須賀は4回目。
過去の3回は、
1.1993年3月27日 記念艦・三笠の見学
2.1998年11月19日 USS KittyHawk 乗艦
3.2000年10月27日 海上自衛隊 観艦式
すなわち4半世紀ぶり。
しかし観艦式のときはJR横須賀駅だったから、この駅は27年ぶりか33年ぶりである。
JR横須賀駅にはほとんど住宅、商店がないのに対し、京急の横須賀中央は市役所や商店街がある。
JR横須賀線は三浦半島の西側(鎌倉、逗子)から東側に来ると軍港だった田浦、横須賀だけ海岸に沿うが、横須賀駅を出ると再びトンネルを通って内陸に入り、衣笠を経て久里浜に行く。いっぽう京急はずっと海岸沿いの市街地を結んでいる。

地図の左上にある三笠に行ってみる。33年ぶり。
9:23
一階の路上に降りても思い出せず。
9:26
左、二軒目は三笠ビル
上から見ると両端が細長いため船のような形をしている。
1959年完成だが命名者は加藤寛治だという(ウィキペディア)。わざわざ断りなしにこの名を出すからには、日露戦争で三笠の砲術長であった、のちの海軍大将のことだろう。しかし彼は戦前に亡くなっている。ウィキペディアが正しいなら、このビルは二代目ということだろうか?
9:30
市役所前公園から
ザ・タワー横須賀中央(2015年竣工、38階建 143m)。
クルーズ船飛鳥IIが東京湾に帰ってくるのは必ず早朝。いつも部屋は左舷だったから目覚めるとこのタワーが見え、横須賀沖だと知った。横須賀で最も高いビルである。
9:31
横須賀市役所
人口37万人は神奈川県で第5位、全国でも49~51位くらい。
しかし、戦前の1935年は全国47都道府県で17位だった。
現在、南の久里浜から三浦半島の西岸まで市域とする。

きれいな遊歩道のようなところに出た。
9:37
神奈川歯科大。
1910年、神田猿楽町に東京女子歯科医学校として設立。
我が国初の女性歯科医の養成機関だった。
大正時代になると本郷区側にも明華女子歯科医学校が設立され(現・東洋女子短大を経て東洋学園大)、この両校が女性歯科医の養成にあたった。

東京女子歯科医学校は神田から、品川区、大田区に移転。
戦後一旦廃校となったが、歯科衛生士養成の短大部が1963年、東京から横須賀に移転、
翌年、これを母体に神奈川歯科大が開学した。
最初から男女共学であり、現在は男子が6割という。
9:38
神奈川歯科大の前から公園のような遊歩道が続き、ベンチやモニュメントがある。

日本丸の一部の縮小模型
向こうは神奈川歯科大の体育館。

左手に横須賀学院中学、小学校を過ぎると、ぱっと三笠と東郷平八郎の銅像が目に入ってきた。
9:42
銅像の台座に東郷の歌が彫ってある。
「日本海海戦後言志 
日の本乃海にととろく. かちときは. 御陵威かしこむ. 聲とこそしれ  
東郷平八郎 (花押)」

その左の石碑には有名な
「皇国興廃在此一戦」と彫られていた。
このあと、各員一層奮励努力せよ、と続く。
バルチック艦隊がみるみる近づき砲戦直前、旗艦三笠に掲げられたZ旗の文言である。

Z旗というのは、A旗から始まる26のアルファベット信号旗の一つで、もともとこういう意味はない。出動数日前に艦隊司令部から各艦に旗の信号文が信号書の形で渡され、内容は航海長くらいしか知らない。
そしてこの旗が旗艦に掲げられたら、信号が肉声となって伝声管などを通じて、各部署の兵員に伝えられるのである。この文案は連合艦隊司令部先任参謀の秋山真之が書いた。

また海戦前日の5月26日、朝鮮鎮海湾の泊地から連合艦隊が出動するにあたり、東京の大本営に電報を打った。その電文の草稿を飯田参謀(少佐)が秋山(中佐)にもってきた。
「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出航、之を撃滅せんとす」である。
秋山は、よろしい、と一度はうなづいたが、「待て」といって、「本日天気晴朗なれども波高し」の文言を加えた。一見、装飾のように見えるが、砲戦にとって決定的となる視界の良さと波の揺れを短い文字数で大本営に伝えている。

また、T.ルーズベルトが英訳させてアメリカ海軍の士官に配布したことで世界的にも有名になった名文「連合艦隊解散の辞」も、秋山の作文を東郷が読んだものだ。

敵艦をほんのわずかでもウラジオストックに逃せば、その後の日本海で陸軍の兵員物資の輸送に支障をきたす。味方が半分以上沈んでも敵を全滅させることが必要だった。
一隻たりとも逃さないために三笠以下のT字戦法で敵の主力を弱らせ、残りを七段構えの掃討戦によって壊滅させる日本海海戦のシナリオは秋山真之一人の頭脳が考えた。
早くから天才と言われ、東郷長官以下、すべて作戦は彼一人に任せたほどであるが、この文才も異色である。それを思うと幼馴染の正岡子規との関係に行く。司馬遼太郎「坂の上の雲」である。

二人は伊予松山の没落士族の出身、近所で仲が良かった。二人とも松山中学を中退、上京し、共立学校(現・開成学園)を経て大学予備門(のちの一高、現・東大教養学部)に入学した。秋山は経済的理由から途中で学費のかからない海軍兵学校に転向してしまったが、もともと二人とも文学が好きだったのである。
9:44 歌碑
「軍艦」
守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の~で始まる軍艦マーチである。鳥山啓作詞、瀬戸口藤吉作曲。日露開戦の4年前、明治33年(1900)に「軍艦行進曲」として誕生した。

9:45 艦尾
ひらがなの「みかさ」という板は余計ではないか?
後から付けたものだろうが、誰でもこの船が三笠だと分かっている。
ちなみに今の自衛艦はすべてひらがな、帝国海軍はすべて漢字が正式艦名である。
9:46
副砲は防御版で覆われていたとは初めて知った。
戦闘中は窓が開くのかな?

平成5年3月(1993)、パシフィコ横浜で薬理学会があった。
一人会場を抜け出し、日の出町から京急に乗って三笠を見に来た。
36歳、日本史に興味を持ち始めたころだったが、研究者としていろんな悩みもあった。
その後、いろんなことがあったが、あの頃が懐かしい。
33年前、内部を見学して覚えているのは、船内に牛小屋があったこと。
司令部はイギリス海軍にならいフルコースの洋食であったから生きた牛を乗せていたのである。さすがに生きた牛は展示されていなかったが、干し草が敷いてあったことを覚えている。
しかし、当時はスマホもなかったから写真、記録はせず、他にはほとんど覚えていない。

33年前、船内見学を終えて売店で箱入りの「図説・東郷平八郎」を見つけて即、買った。
東郷の一生を図説したものだが、明治の日本海軍の歴史と一致していて、地図、写真、絵が素晴らしく、資料としてのデータも豊富で、3000円は安いと思った。見れば販売価格でなく頒布価格と書いてある。(送料500円)
東郷神社創建50周年記念事業として東郷会の機関紙「東郷」の編集部が総力を挙げて3年がかりで作り、出版は営利目的でなかった。
連合艦隊の各艦隊指揮官、幕僚
「図説・東郷平八郎」から。
終活で多くの本を捨てたが、これは最後まで持っているだろう。
連合艦隊解散の辞、全文

薬理学会を抜け出し三笠を見た2か月後、留学が決まり、8月に渡米した。
アメリカの書店は軍事関連のコーナーが充実していてアメリカ海軍、艦艇に関するビジュアル本をしこたま買った。そして、横須賀・三笠に来た2年後の1995年、日本海軍の知識を増やすため水交会と東郷会に入会した。
東郷会機関紙・月刊「東郷」
1995年6月号から1998年8月号まで3年3か月分ある。
当時まだ生存されていた旧海軍関係者の体験がのる、これらも捨てられない。
9:48
公園が工事中で、菊の御紋のある艦首部分には行けなかった。

なお、三笠は戦後すぐの9月佐世保港内で自爆して沈没し、凱旋で大将旗を掲げ東京湾に入ったのは敷島だった。
東郷が上陸して天皇に上奏するとき、海軍は口頭で述べるつもりでいたら、前日だか当日だか陸軍が上奏文を準備したと聞いて、おおいに慌てたときも秋山がすぐ格調高い名文を書いて助かったらしい。

各常備艦隊が戦時編成で集まった連合艦隊は12月、解散する。
この時の旗艦は朝日に代わっていて、その艦上で前述の「解散の辞」が読まれた。
9:49
Z旗と艦尾側の主砲
砲弾は三笠のものかと思ったら、戦艦大和の主砲砲弾という。
それならここに飾ってはダメだろう。
ひねったジョークにもならない。

ちなみに横断幕にある世界三大記念艦というのはイギリスのビクトリー、アメリカのコンスティテューションである。

この日、艦内の見学はせず、三笠を後にした。
9:53
左:神奈川歯科大附属病院、右:神奈川歯科大
病院は歯科だけでなく内科(消化器、糖尿病、腎臓、認知症)もある。

沈没した三笠は引き上げられ、修理されて明治41年現役に復帰した。
ワシントン条約で廃艦が決まった後、大正12年海軍の艦籍から外されたが、鉄くずにするに忍びないと、大正15年、ここに記念艦として定置、保存された。



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