2021年9月14日火曜日

白鬚橋、対鴎荘から向島百花園のあたり

 JR南千住駅の南に広がるJR貨物の隅田川駅に来た。ここは貨物輸送が衰退した後、敷地を縮小、再開発され大きなマンションと公園などになった。(別ブログ)

そこから隅田川に沿って南下すると神社がある。

2021‐09‐08 15:16 石濱神社
大きな樹木もないし社殿も新しいのは、移転したからである。
隅田川駅東の白鬚西地区市街地再開発事業に伴う護岸工事で、1988(昭和63)年9月、川寄りに遷座したらしい。
15:18
本来ここは江戸から東北に進み、川にぶつかったところだから重要な場所で、創建も724年と由緒も古い。頼朝以来、千葉氏、宇都宮氏など関東武将の崇敬も篤かった。
後ろには東京ガスのガスタンクが隣接するが、かつては隅田川と筑波、富士を望む景勝の地として江戸名所図会にも載る。

石濱神社の前は明治通り。
環状5号の名前通り、都心の向こう側、渋谷駅、池袋駅前から王子を経て、こんなところまで回って来ている。

明治通りが隅田川を渡るのが白鬚橋。
ちなみに鬚はあごひげ、髭はくちひげである。

白鬚橋西詰、南側に石碑が立っている。
15:22
明治天皇行幸対鴎荘遺跡跡
この一帯は風光明媚な地で、明治の高官が別邸を並べていた。三条実美の対鴎荘もその一つ。明治6年、征韓論で政府内が対立するとき太政大臣の職にあった実美は病に倒れ、ここで静養していた。そこを天皇が見舞ったのだが、見舞いだけで石碑が建つのは、時代である。
そういえば本駒込の木戸邸跡にも行幸の記念石碑があったな。

1931年竣工、白鬚橋はトラストとアーチのハイブリッド。

このあたり、荒川、綾瀬川、利根川が流れ込み年々川筋を変えていたが、江戸時代に利根川が東遷して少しは穏やかになった。
江戸末期には「橋場の渡し」があった。吾妻橋の上流あたり、明治の頃はこのあたりは、鴎(かもめ)の渡しとも言われていた。三条実美の対鴎荘の由来である。

また、森林太郎は津和野から家族で上京し、隅田川の東、寺島村に住み、さらに上流の北千住に移った。彼の号、鴎外は、鴎の渡しの外という意味である。

昔は海岸線が今よりずっと北だったからカモメも多数飛んでいただろう。

15:24
このあたりカミソリ堤防(別ブログ)が残る。

白鬚橋を渡ると墨田区。
橋の北、すなわち明治通りから隅田川沿いに都営アパートが万里の長城のように並ぶ。
そちらは別ブログに書く。

白鬚橋は東詰めの、少し南にある白鬚神社から名付けられた。
都営アパートを出て広い道(墨堤通り)を南下。
15:59
白鬚神社は近江最古の大社と知られ、分社も全国にある。
ここは向島白鬚神社とも呼ばれ旧寺島村の総鎮守。
隅田川七福神の寿老神(寿老人)としても知られる。
16:01
鳥居をくぐって真っ先に目についたのが黒人塚。
信長の時代の絵に黒人が描かれているが、江戸期以来黒人が向島まで来ることはないだろう。そもそも「黒人塚」というタイトルもおかしい。
ネットで調べたら、江戸時代の歌人、浜辺黒人の追悼碑ではないかと書かれていた。
こちらは幕末の外交にあたった幕臣、岩瀬鴎所の墓碑
彼の号もここに住んだことに由来する。

16:03
小さな富士塚もある。

16:05
神社本殿と西側は一段と高くなっていた。
崖は線上に南に続いている。何だろう?
坂下は大雨で水が入りそうな地形
帰宅後調べると、
隅田川の自然堤防のように見える。
この微高地が向島という地名の由来だろうか。
もちろん人工堤防の可能性もある。

隅田川と荒川に囲まれる墨田区は、荒川区、台東区の低地よりさらに低いことがわかる。
人工河川である荒川(放水路)の河川敷より低い。
16:05
白鬚神社から東へ、東武鉄道の東向島駅を目指して歩く。
16:08
たまたま向島百花園に出くわした。
名はよく聞くが初めて来た。
江戸、明治のころ、浅草の向こう、墨東に物見遊山に出かけるときの目的地の一つだったが、今やほとんど忘れられているのではなかろうか。

入場料150円だが私は今年から70円
江戸郊外に1804年(文化元年)開園。都立庭園である。
1978年、国の史跡および名勝に指定された。

16:08
時間がないので中に入らず。

16:11
百花園の塀が途切れる角で左をみれば、竹林が美しい。

区画整理もない細い道を東に歩いていく。
16:13
やっているのかどうかわからない「酒・二合半屋」
二合半とは1升の4分の1、晩酌にちょうどいいという量か。

自動販売機は70円から90円。
安いが、倒れた缶などからやる気が見えない。

16:17 東向島駅到着
東武の電車博物館もある。
浅草に出て銀座線で上野に出よう。

ところが、つぎの曳舟で乗客がほぼ全員、後から来た電車に乗り換えた。
押上錦糸町経由で半蔵門線方面に行くらしい。
終点浅草で降りたのは、1車両2,3人。
ドアも開かず、前のほうの車両まで歩いて降りた。
今や東武線沿線の人々は浅草駅を使わないようだ。
改札を出ると駅構内か松屋店内か分からないが、年配女性向きの洋服がハンガーにかけてびっしり並んでいるのは浅草らしい。しかし乗り換えターミナルでなく行き止まり観光地になった街は人も少なかった。


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