2026年1月16日金曜日

志村城と千葉氏、志村は篠村

ひまなので、今まで訪ねた城を数えてみた。
そのうち日本100名城は43、続100名城は14、その他41、合計98だった。
あと2つで100か。
昔から気になっていた志村城と赤塚城にいくことにした。
2つとも高島平の南側、武蔵野台地の北東端で荒川に面した崖上にある。

立地を考えるに、築城された中世は関東平野がまだ開けていなくて、村落の所在地(田畑、交通)も今とは大いに異なる。目の前は一面荒川(当時は入間川)の氾濫原で耕作に不向き、江戸時代になっても鷹狩り場にしかならなかった。現在でも想像できるのは見晴らしのよさだろうか。
国土地理院HPから
この崖線には南から流れ込む川によって谷ができ、小規模な城砦を作る適地が無数にある。

1月6日 快晴だが寒い。
都営地下鉄三田線の千石駅から乗る。
すいている電車は志村坂上を出ると地上に出る。地下からいきなり高架だから、武蔵野台地の崖の高さが分かる。

千石から15分。志村三丁目に到着。
13:59 志村三丁目駅前
マックのほか、ニトリ、サミットもあり、暮らしやすそう。
駅からすぐ坂になる。
14:01
板橋区立志村城山公園の入口

14:02
崖を上がっていく。
区立城山公園はこの崖部分の緑地だけで、あがると平坦な住宅地になっていた。
14:04
上がってすぐ城山熊野神社がある。
一番目立つのは境内にある城山幼稚園だった。

お寺と違い神社の幼稚園は珍しい。調べたら「城山幼稚園」のほかに「鎮守の森 城山どんぐり保育園」が境内にあり、坂下の「城山みどり こども園」の3園を学校法人・石川キンダー学園が経営している。 戦後の昭和24年、宮司であった石川文吉氏が「城山幼稚園」を創立したのが始まりらしい。 このあたりは純農村部であったと思われ、一家総出で野良仕事をせねばならない農家にとって、保育園は需要が高い。
今の学園理事長は石川典子氏である。77年もたっているからお孫さんだろうか。神社の公式サイトをみると宮司は石川明彦氏とある。彼の夫人だろうか。

城山熊野神社は、旧社格制度でいうと郷社であり、県社の下、村社の上で、市町村レベルの地域の中心となった。よくある無人の小さな神社、すなわち部落の産土神となった村社と違って宮司のいたことが幼稚園につながった。
14:05
正月祈祷をしてもらうビジネスマンたち

前日の1月5日の月曜が仕事始めのところが多く、その翌日に神社で初祈願をする会社がある。こんな地元の人しか知らないような小さな神社でも2つの会社が来て順番待ちしていた。いや、ひょっとしたら有名なのだろうか? 宮司がいればこういうこともしてもらえる。

14:06
城山熊野神社は志村熊野神社とも呼ばれるようだ。
境内には絵馬殿があった。
江戸時代に建てられた旧拝殿を建て替えのとき曳家したものらしい。
14:07
江戸時代中期から地域住民(たぶん農民)が奉納した絵馬82枚、扁額9枚、寄進札4枚が飾られている。
旧拝殿であるが、天井はなく梁がむき出しになっていた。

神社は樹木が多く、裏に回ってみた。
城跡らしく崖になっている。
14:08
往時は関東平野が一望されたはずだが、ビルよりも樹木で見えなかった。

志村城は築城年代は不明だが、豊島氏一族の志村氏により築かれたとされる。
1455年、室町幕府の関東管領・上杉家と鎌倉公方・足利成氏の間に争いが起こり、これが関東一円に広がった(享徳の乱)。このとき千葉亥鼻城にいた千葉宗家は、一族の馬加康胤に追われ千葉胤直・胤宣の父子は殺害され、遺児・自胤を太田道灌が保護し、赤塚城を与えた。近くの支城・志村城には一族の千葉信胤が入った。(城代として志村氏がいたとの説もある)。道灌としても名族千葉氏の本家筋の子を保護することは戦略的に意味があったのだろう。

しかし1524年、早雲を継いだ2代目北条氏綱に攻められ落城、後北条氏の支配するところとなり、北条滅亡後は廃城となり、江戸時代は神社だけ残った。

神社の裏をまわって西に行くと空堀が残っていた。
14:09
東の神社側と、西のマンション・ヴィオスガーデン城山の間の空堀。
https://yogokun.my.coocan.jp/tokyo/itabasiku.htmから
国土地理院公式サイトから
曲輪は3つ。
西と南北が断崖だから舌の先端、すなわちマンションのある西の曲輪が本丸、神社が二の丸になるのだろうか。
14:12
神社を出るにあたり、志村城址という記念石柱と説明版があった。
千葉氏が滅んだ後、神社だけが残り、志村七か村の総鎮守となったという。

名族千葉氏について書いておく。
学校で習う教科書の関東は、(鎌倉を除けば)江戸時代以降であること、それ以前に存在した氏族は現在まで続いていないことから、私もあまり詳しくない。

平安時代中期に坂東に下向して武家となった桓武平氏の平良文を祖とする諸氏はその後、武蔵を中心に発展し、八つの氏族に大別されていたため、坂東八平氏と呼ばれた。
秩父、三浦、千葉、大庭、梶原、長尾などである。(時代によって盛衰があったため、8氏の数え方にはいくつかある)
秩父氏が鎌倉時代に畠山、河越、豊島、江戸、葛西、稲毛などの諸氏に分かれたのに対し、千葉氏は歴代当主が下総国守護をつとめ室町時代まで続いた。

その室町時代、1399年鎌倉公方足利満兼が就任するに際し、時の関東管領上杉朝宗の提案によって有力な8大名が屋形号を称する事となり、関東八屋形(かんとうはちやかた)といった。宇都宮、小田、小山、佐竹、千葉、長沼、那須、結城の八家を指す。いずれも旧来の名族である。

坂東八平氏と関東八屋形の両方に属するのは、すなわち長い時代を越えて関東で栄えたのは千葉氏だけである。
14:14
神社の西は板橋区立志村小学校
その西は崖になっている。坂下を首都高が通っている。

14:17
裏口から入ったから最後に鳥居を見た。
郷社熊野神社
扁額は「熊野宮」

熊野はもちろん紀州の熊野である。1042年志村将監が紀州熊野より勧請したと伝える。

この神社の東に隣接して、すなわち今は住宅地になった三の丸に北豊島郡志村の村役場があったという。
明治22年、県の下に郡と市、郡の下に町村を置くという現在の市町村制が始まったとき、全国で村の統合が行われ、今の板橋区域には北豊島郡板橋町、上板橋村、志村、赤塚村の1町3村ができた。そのうち志村は志村、本蓮沼村、上蓮沼村、小豆沢村、前野村、中台村、西台村、根葉村という部落規模の8か村が合併してできた。

ここで「志村」の蓮沼、小豆沢に相当する固有名詞の部分は「志」ということである。こんな村名があるだろうか? (新潟県十日町市も十日町村から十日町をへて十日町市になったから、町の時代の固有名詞部分は十日である。)

調べると「志村」は古くには「しのむら」と称されていたらしい。篠が生い茂っていた土地に開村したことが由来で、鎌倉時代の『吾妻鏡』に記されているという。


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