2017年5月7日日曜日

自転車で旧街道・3 円通寺、回向院から北千住

千駄木菜園 総目次

(続)
5月5日、吉原の外周道から土手通りに出ると、てんぷらで有名な伊勢屋と行列が見えた。
土手とはもちろん山谷堀に沿って作られたものだ。
三ノ輪で右後ろ泪橋からくる明治通りに合流したあと北上すると、左、上野からくる昭和通り、国道4号にぶつかる。今は昭和通を日光街道というようである。(本来の奥州・日光街道ははもっと東、泪橋のほう)

右折して北に向かって常磐線をくぐるとすぐ左に円通寺。 
12:30

円通寺は大寺ではないが、彰義隊の墓など見るべきものが多い。
しかし興味のない妻は、疲れた、お腹がすいた、と云い始める。
飲食店の多い北千住で食べようと思っていたが、機嫌が悪くなるのも困る。
ちょうど円通寺の真ん前に木曽路があり、そこへ入った。
30分待ちと言われて、妻は座って待っているという。 
私は一人円通寺に戻った。
やはり歴史散歩は一人で行った方がお互いに良い。

12:31
入って右側、四十八首塚がある。
八幡太郎義家が奥州征伐の帰りに首を埋めたという。小塚原という地名の起こりである。

円通寺には、寛永寺総門、黒門が移築されている。
上野広小路から山に上がるところにあった。拡大すれば弾痕が見える。西軍にとってこんな門は抵抗にもならなかったから威嚇射撃の跡だろう。



フェンスで囲まれた中は彰義隊の墓や、多くの石碑。
上野戦争で敗れた彰義隊の何人かはこの道を傷ついた重い足取りで日光を目指したであろう。墓所としてこの場所はふさわしい。
開成所教授、幕臣大鳥圭介は函館まで戦ったが、男爵まで行った。




写真を撮り終わり、妻のところに戻る。
これが中山道なら木曽路という店名も意味があるのだが。
12:53
どこかの境内でパンとジュースでも良かったのだが、予想外に豪華な昼食になった。
食べ終わって急ぐ必要もなくなり、東を並行する奥州街道に戻る。

ところで明治11年文部省地理局の地図には、南隣の真正寺があっても円通寺が描いてない。新政府に抵抗した彰義隊を祀ったからだろうか。

少し南に戻って回向院。
今回の道中一番の見どころかもしれない。
ここは刑死者を供養するため、1667年に本所回向院の住職、弟誉義観が別院を建てたことに始まる。
入ってすぐ右の壁に解体新書の記念碑。 
13:47
罪人だから解剖が許されたのである。

刑場であるから歴史に残る人物もここで葬られた。
13:50 松陰二十一回孟士墓
この「二十一回孟士」は吉田松陰寅次郎の別の号。
安政の大獄でとらわれた松蔭はここではなく、伝馬町牢屋敷で刑死した。

午前中、日本橋から自転車を走らせたとき牢の跡地、十思公園のそばを通った。以前行ったことがあるが、妻に見せればよかった。知識がないと道中が飽きてしまう。

橋本景岳(左内)墓
越前松平春嶽の側近だった彼も伝馬町牢屋敷で斬首された。

ここには火葬場があったが、基本はそのまま地中に埋められた。罪人であるから縁者が立ち会うことは許されなかったが、松陰については長州藩が多額の賄賂を役人に送り、桂小五郎、伊藤俊輔ら4人が死体を受け取った。裸であったのを洗って、各自着ていた服を着せ、葬ったという。
その後安政の大獄関係者の罪が許されてから、髙杉、伊藤らによって世田谷に改葬された(現松陰神社)。

回向院の一般墓。向うは常磐線。
三、四十年前、この墓地を電車の土手から写した写真を見た。夕闇迫り影が伸びる中、小塚原刑場跡という説明もあって深く記憶に残った。今回初めて来た。5月の明るさに、全く印象が違った。

回向院の外、道路沿いに吉展地蔵がある。
1963年。よしのぶちゃん事件のニュースはかすかに覚えている。身代金は50万円だった。二年後に白骨死体が発見されたのは、さっき行った円通寺である。なぜ地蔵がここにあるかというと、村越家が回向院の檀家だったからだそうだ。
13:55

ここは南千住の駅に近い。
常磐線と地上に出た日比谷線の線路に挟まれた延命寺。
もとは回向院の一部であったが常磐線で分断され、独立した。
ここも小塚原刑場の跡地である。

大きな座像は首切り地蔵。
街道沿いに首の見せ台があった。
下の明治11年の地図中央の少し下に梟示場とある。
梟首(6種ある死刑の一つ、獄門、さらし首ともいう)は明治12年まで続いた。

ここで処刑されたのは江戸時代以来20万人ともいう。
無罪の人もいただろう。
妻は何も知らないから普通に見学していた。私も霊感がなくてよかった。

ようやく奥州街道を北に向かう。
円通寺方面からくる4号との合流点に素戔嗚神社。寄らなかった。
14:02

すぐに千住大橋。
隅田川を渡れば北千住。
妻はお尻が痛いという。
14:08
最初にかかったのは幕府ができる前の1594年。
それまで今の白鬚橋付近にあった渡しを経由していた奥州街道、水戸街道が、この橋に移った。幕府は防備上、隅田川にはこの橋以外かけず、単に大橋とよばれていたが、後に両国橋が完成してから千住大橋と呼ばれるようになった。だから芭蕉のころは橋があった。

奥の細道で芭蕉は深川を出発、上野谷中の山を見ながら隅田川を北上、ここに上陸した。

行く春や鳥啼なき魚の 目は泪
14:11
ここらは当時の千住中町に当たる。
日本橋から7㎞。
隅田川と奥州、水戸街道が合わさるところだから、物資の集散に便利。
幕府成立以前から市場が立っていた。野菜、川魚、米穀。
さぞかし賑わっていただろう。
毎朝、その混雑の中を鴎外はここから三宅坂まで人力車で通った。
その距離を今日実感できた。
旧街道はずっと続く。
14:23
さらに人通りが多くなったと思ったら、すぐ向こうに駅ビルが見えた。
路線の多さ、店の多さから北千住は暮らしやすそうだ。
14:40
尾竹橋で隅田川を渡って荒川区町屋に入る。
向うにみえる帝京科学大学のまえに大きな土管のようなモニュメントがある。
これは見る場所によって本数が変わったという千住火力発電所のお化け煙突を輪切りにしたもの。1963年まで稼働していたらしい。
元宿小学校の滑り台の一部になっていたが、廃校後の2010年同大学ができたときモニュメントになった。二年前にそばまで行った。
妻にも見せようかと思ったが、写真を撮っているうちに彼女は先に行ってしまった。

ここから西日暮里駅までまっすぐ。
西日を浴びて千駄木に帰宅したら顔と手が真っ赤に焼けていた。
15:05だった。

妻が帰りたがった円通寺前、木曽路からなら家まで3.5㎞だったのだが、北千住を周って結局吉原からの道は10.5㎞だった。


千駄木菜園 総目次

自転車で旧街道・1中山道を日本橋へ

千駄木菜園 総目次


5/5 連休もいろいろ用があって、珍しく1日空いたので妻を誘った。
東京がどれだけ狭いか、今住むところが銀座にどれだけ近いか教えてあげたくて、自転車で日本橋を目指した。

10:00出発。天気は良し。
この近くにいた高村光雲は日本橋に出るとき「江戸に行く」といったとか。
6㎞も離れていないのだが、徒歩の時代はそのくらい田舎だったらしい。
9:53
光雲は団子坂上から根津権現、上野広小路に出ただろうが、我々は旧街道を行くため本郷通りに出る。
9:58
駒本小学校前。このあたりは、駒込土物店(つちものだな)があり、江戸時代、土物野菜の市が立った。
10:01
すぐ西を並行して走る旧中山道をいくべきかとも思ったが、なんの変哲もなく歩道も狭いので、こちらの本郷通りをそのまま南下。
この道も日光御成街道(岩槻街道) で古い道なので、まあいいか。
10:07 東大農学部前。本郷追分。
日本橋から一里。
ここで岩槻街道は中山道に合流。 
高崎屋酒店はsince 1751とある。いまどき小売り酒店として営業しているのは立派。
10:10
連休中か、学生もいないので自転車も乗りやすい。しかし赤門前には家族連れが何組も記念写真。帰省する新入生が多いと思うが、家族が上京して東京見物のほうが楽しそう。

10:23
湯島聖堂の裏を通る。
10:25
江戸切絵図を見ると、中山道は神田明神の西で北にへこんでいる。この天野屋糀店のわきに入る細道が旧道だったようだ。
ここから湯島坂を下りる。
10:28
昌平橋は渡らずに東へ進む。
日本橋まで2㎞の標識あり。
10:31
上野広小路からの中央通りにぶつかる。
向こうは秋葉原。万世橋から北東方向を見る。

 10:32 万世橋。
 神田川、御茶ノ水方面。高架は中央線。
神田駅を過ぎて、室町あたりはさすが、都会である。
マンダリンオリエンタルホテル。ビルがお洒落。
1階に千疋屋。
入ってみたい気もするが、田舎(千駄木菜園)から出てきたまんまの恰好なので断念。
三越前をとおり、日本橋到着。 
10:50

日本橋川に遊覧船。
どこを回るのだろう。
ここには魚河岸があった。
関東大震災で焼け、築地に移った。

ここまでの行程。5.9km、徒歩なら1時間11分だそうだ。


千駄木菜園 総目次

2017年5月5日金曜日

千駄木貝塚と人骨

千駄木菜園 総目次


3月に文京ふるさと歴史館に行ったとき、いきなり目に入った人骨が気になっていた。
身長165(縄文人の平均は158)。
骨格はたくましく、また歯がすべてあり、すり減っていなくて、関節面もきれいなことから年は20代後半。
そして脛骨の下の関節面にひび、それが治りかけているから、亡くなる少し前に高いところから飛び降りたらしい。


千駄木貝塚から出土したとあるが、千駄木在住者として、どこだか気になっていた。
ネットで見ても出ていない。
「文京区千駄木貝塚他発掘調査報告書」(1989)を取り寄せてもらった。
ところで真砂図書館などにあるのに、地元千駄木の本郷図書館にないのはどういうことか?

それによれば、千駄木貝塚というのは明治34年以来、太田邸内発見として報告されたが、正式な調査がなく、具体的な位置が不明であった。
それが昭和63年にいたり、千駄木1-11-3で縄文、弥生の遺跡が発見された。ここは太田が池のあった現・千駄木ふれあいの杜の西の高台である。同年さらに同1-10-5、1-9-2でも遺跡が発見された。

上野台地と本郷台地に挟まれた不忍通りの低地は、北区の石神井川まで続く長い谷で、両側の丘に貝塚が集まる。貝塚があるから縄文時代は海が入り込んでいたと思われるが、谷ができたということはそれ以前は陸で石神井川が侵食したのだろう。
本郷台地東淵には弥生町遺跡群(下図12,13)、千駄木貝塚(11)、動坂貝塚(4)などが知られる。下図11の池が太田が池で、湧水が豊富であり、縄文時代は海に近く、弥生では湧水を利用して稲作に適し、いつの時代も住みやすかったようだ。
「文京区千駄木貝塚他発掘調査報告書」(1989)
さて、この人骨は1-9-2で出土した。
 左に見えるのが頭蓋骨。

以上、「文京区千駄木貝塚他発掘調査報告書」(1989)


骨は少しでも酸性なら溶けてしまい、日本では残りにくいが、この人骨は貝塚の下層にあったため珍しく残った。
貝塚といえば古代人のごみ捨て場というイメージがあり、ゴミ捨て場に葬るものだろうか、と疑問がわいたが、貝殻に遺骨を保存するはたらきがあることを知ったうえで、貝殻で覆ったのではないかと言われる(前田潮、1983)。

この遺跡では人骨が二体でて、1989年の報告書では片方は性別不明の若者、片方は男の成年~壮年とされるが、写真がふるさと歴史館のものと同じなので、この場所から出土したことに間違いないだろう。

その場所に行ってみた。

藪下通りの汐見坂を上がったところである。
石垣の向こうの家、道路より数メートル高い場所で出土した。道路の右側は急な崖で、下に汐見小学校がある。

遺跡が出る10年前、毎日この道を通った。もう40年近く前になる。


2017年5月3日水曜日

高崎城と無料自転車

千駄木菜園 総目次


緑まぶしい5/2、高崎に行った。
高崎駅は30年近く前、下仁田へ行ったとき降りているはずだが、全く記憶なし。

長野に変えるときいつも通過していたし、毎日のように「高崎線」に乗っているのだから、もっと早く来るべきだった。

初めての駅前、西口をまっすぐ歩くと高崎城にぶつかる。

築城したのは井伊直政。
遠州井伊谷の領主の家に生まれるも、幼少期に寺に預けられた。このあたりは大河ドラマでやっているだろうが、私は見ていない。今川氏滅亡の後、家康に預けられ小姓から出世して武田滅亡後に士大将となった。その後の戦功で家康関東入府と同時に(代々の松平家臣ではないのに)譜代大名筆頭の12万石で上野に領地をもらった(1590)。


当初は箕輪城(高崎市北部)にいたが、1598年かつて和田城のあったこの地を選んで築城に着手する。しかし関ヶ原のあと、三成の彦根(佐和山)に移されたから、ここにいたのはわずか2年ばかり。さすがにNHK大河の直虎の幟はなかった。





三の丸の堀と土塁が残るが、内部は内堀がすべて埋められ、広範囲に市役所、高校、中学、音楽ホール、NTT、医療センター、図書館、裁判所などがゆったりと建つ。駅から来ると全くの平地であるが(平城)、西側は烏川の崖となっていて、立地としては良い。中山道、三国街道が合わさる、関東北西の防衛地点として小田原に似た役目があったかもしれない。

巨大な高崎市役所。


僅かに残る乾櫓(県重文)。
乾とは北西だが、ここは東の真ん中あたり。はて?と思ったら明治に廃城となって農家に払い下げられ、納屋に使われていたものを再び移築復元したからとか。

陸軍歩兵15連隊記念碑。
廃城となって陸軍管理となり、歩兵連隊が入って江戸期の建物が壊され、戦後さらに公用地になったことが、この官庁中心に市街化されてしまった原因だろう。もちろん駅に近い平城で便利すぎたことも災いした。

南側の堀には鯉がいっぱい。私が見ていると集まってきた。
これは本能ではなく、学習であろう。魚の知能は意外と高いのかもしれない。

堀の南に隣接する高崎公園。

頼政神社と大染寺があった場所だという。大染寺は城主・松平家の私的祈願寺であったが、明治に廃寺となった。本来の城址が役所や学校でつぶされてしまい、ここのほうが城址っぽい。

クジャク、ウサギ、ハトが共同生活。

こちらはガチョウと亀が仲良し。

西の烏川を望む。下は国道17号。
もう少し行って橋を渡るところから18号が始まる。
高速道路ができるまで、電車でないときは常にこの道を通って長野へ行ったり、東京に戻ったりした。
道路の東側が高台になっていること、近くに高崎城址があるということは知っていたが、まさかお城のすぐ下を走っていたとは思わなんだ。

市役所の前の無料自転車。
100円入れても返す時に100円戻ってくる。
7か所のどこで借りてどこで返しても良い。
ためしに乗ってみたら、ブレーキ、タイヤ空気圧、よく整備されていて、家の自転車より快適だった。こんなんだったら最初に気付いた高崎駅西口から乗ってくれば良かった。
走っているとこの無料自転車に乗っている人がよく目につく。
高崎は良い町だ。


千駄木菜園 総目次

2017年5月1日月曜日

医薬品売上ランキング 2017年版



2016年1~12月までのブロックバスターの数字を挙げる。
単位は百万ドル。xx億円と考えてよい。

一位は昨年からさらに数字を伸ばし首位をキープしたヒュミラ。
他のリウマチ剤と比べてそれほど差があるのだろうか。
エンブレルは売り上げがそれほど変わらないが、他が落ちて4位から2位に躍進。
4位もレミケードであることを考えると、リウマチ領域のニーズの強さが際立つ。
レミケードは1998年に承認、登場したキメラ抗体、時代はヒト化抗体、ヒト抗体となり、バイオシミラーも出てきたのに、この位置をキープするのは立派である。

3位のハーボニーは34%減、ヒュミラと首位を争った昨年から後退。
おなじC型肝炎治療薬のソバルディも24%減、患者が治ってしまうので、売り上げが減る。少々薬価が高くてもありがたい薬である。ギリアド社は19位のHIV薬ツルバダも持っている。
国際医薬品情報(2017.4.10, 2016.5.9)の数字をもとに再構成
PfizerのワクチンPrevnerは入っていない。JanuviaにはJanumet含まず。Roche、Boehlinger製品の数字は各社ホームページから採用した。

5位リツキサン、7位アバスチン、8位ハーセプチンはロシュの抗がん剤。一般名語尾からわかるとおり、いずれも抗体で、ベストテンの常連である。ロシュは抗がん剤が2013年に全製品売上げの69%を占め、以後もこの領域に圧倒的強みを持つ。

6位のレブラミドは、サリドマイドの誘導体である(名前が似ているでしょ)。サリドマイドが胎児期の四肢形成、血管新生を阻害することから抗がん剤として開発しようとしたのがセルジーン社。(『セレンディピティと近代医学』)
その後、多発性骨髄腫で最も効果が高いことがわかり、血管新生抑制作用で説明できなくなってしまった。セルジーンがサリドマイドより副作用の少ないものを探して得られたものが本剤である。13位、9位、6位と着実に伸びている。

9位ランタスはインスリンのアミノ酸配列を少し変えて結晶しやすくし、持続性を持たせた誘導体。サノフィが開発した。
この分野は、リリーが世界初の組換えヒトインスリン、続くインスリン誘導体のヒューマログを開発してリーダーだった。抜かれてしまったリリーは、特許が切れたランタスのバイオシミラーを2015年に発売しているが、そちらはどのくらい売れているのだろう。

10位ザレルトは低分子、成人病対象の薬であるが、バイオ医薬全盛の今、ベストテンに入るのは大健闘である。
13位、小野が創生したオプジーボは昨年比4.7倍、驚異の伸びである。
20位のクレストールも2016年に特許が切れ、38%減。低分子薬はバイオ医薬と比べると特許が切れたときの落ち込みが激しい。