2018年10月8日月曜日

閉店した呑喜、かねやす

かねやすが(とっくに)閉店したという情報に驚く。
変化は思ったより早い。
文京区に引っ越して6年、本郷弓町、菊坂、台町、真砂町あたりは歩いたが、本郷通りは農学部から正門まで、店舗のない東側を自転車で走るだけだった。
遅ればせながら、本郷通りに行ってみる。

初め目指したのは、おでんの呑喜。
最近、木下順二の『本郷』を読んだからだ。
昔、南端の薬学から歩くとすれば北限が農学部グランドで、言問い通り以北の飲食店などはよっぽど理由がなければ来ないのだが、ここには1回か2回きた。

行ってみて愕然。
ない。

2013年4月に千駄木に来て、自転車で通過するときは確かにあった。
いつか来ようと思っているうちに、閉店したようだ。調べると2015年12月25日という。

2011年に千駄木の家を見つけ、苦労して2013年に引っ越した理由は何であったか、と反省せざるを得ない。
閉店前に何回も傍を通っていたのに。
なかは空っぽ。
毅畑という看板があるが、後に入った店だろうか。

すぐそばの地下鉄入り口わきに 、往時の記念の品々が展示されていた。
文京大学が管理しているようである。

1979年か80年のある夜、「おでんの美味しい店見つけました」と、韓国からの留学生(正規の博士課程大学院生)だった成忠基(ソン・チュンキ)氏に、研究室の数人と一緒に誘われ、はるばる歩いてのんきに来た。
ビルの中の狭い店で、成さんがおごってくれた。
テニス、野球は前年に来られた留学生のもう一人の成さんより下手だったが(要するに日本人の大学院生と同じ)、夜遅くまで実験し、性格は明るくて優しく、皆に好かれ、私も大好きだった。

成さんとは二人で赤門近くの焼肉屋で夕食をとることもあった。
このあと実験があるからビールで焼き肉、ではない。安い食事だけだったが、テグタンという辛くて旨い雑炊を教わったのは、このころだった。

あのころ、世間にも大学にも、反日とか嫌韓とかまったくなかった。
お互い国籍など関係なく、いいやつは良いし、いやな奴は嫌な奴だった。

今の二国間を見て、残念だ。
自分の政治生命だけ考えて反日をあおる韓国の政治家には閉口する。
しかし一番悪いのは、日本を否定することこそ正義、嘘すら並べて日本の悪口を長年、中韓に提供し続けた朝日新聞である。

彼らは、矛盾点をつかれて、しぶしぶ自らの従軍慰安婦の記事は虚偽だと認めた。認めたなら、世界中に謝罪し、引き続き紙面を使って、あの記事以前の両国関係に戻るよう、全力であらゆる努力をするべきである。
自分が虚言を弄して壊したものなら、自分で修復しなければならない。自分の罪を自分で償う。それがふつうの、一人前のまっとうな企業だろう。

変な方向に行ってしまった。
心を静めて、

のんき跡をあとに、本郷通りを南下する。
本郷追分の高崎屋は有名だが特に思い出はない。

言問い通りを過ぎて、いつもは通りの東側を通るのだが、今回は西側をゆっくり店をみながら、南下を続け、一気に本郷三丁目のかねやすまで来た。
2017年4月に休業あるいは閉店、と言われているが、どなたかのブログの2016年3月には「いつ行ってもシャッターが下りている」という記述があった。
何回も前を通っていたのだから、写真を撮って、何か買えばよかった。

案内板のように、ここは江戸時代、乳散香という歯磨き粉で繁盛したそうだが、私が本郷に来たころは雑貨屋だったような気がする。司馬遼太郎は『街道をゆく・本郷界隈』(1991)で歯ブラシを買っていた。

  本郷も かねやすまでは 江戸のうち

案内板もウィキペディアも、大岡忠相がかねやすから南は火事を防ぐために瓦と土蔵つくりを推奨したという話を使って、「江戸のうち」を説明している。

正式には江戸の範囲を示す朱引き線は、ずっと北の石神井川あたり、墨引き線でも西ヶ原あたり。

大岡忠相の話よりも、明治になっても、相撲の触れ太鼓がかねやすのところまできて帰って行ったとか、神田の方からくる市電がかねやすで終点だったとか、そういう話のほうが都会と田舎の境を現実的に表していて(生活臭があって)私は好きである。
本三交差点で北を見る。中山道(17号)は北に延びる。
北へ行く人をここで見送ったから見送り坂という。

左の春日通を行き、川越、東松山をとおる国道254は、たしかここが起点ではなかったか。
春日通はいつ広がったのだろう。
建物はすべて後ろに移動している。
すると昔見たかねやすは、今のビルではなかったのだろうか。
東南の角は和菓子の三原堂。
創業昭和7年というから、そんなに古くはない。
三川潮先生のお宅の新年会に呼ばれた時、教室一番のグルメゆえに手土産担当を任される野口博司さんは、ここの最中だったか、隣にあった藤むらの羊羹だったかを買われていた。

交差点から本郷通を戻るように北上する。
ほんの僅か見送り坂の下り傾斜があり、菊坂上から上り傾斜となる。
北へ行く人が江戸を振り返るから見返り坂という。
菊坂に降りる角の焼き鳥「白糸」は昔からあった。
二階の座敷の記憶もあるが、何の飲み会だったか、思い出せない。

白糸の向かいの(手前の)角は工事中。
明治の本郷館(勧工場)、大正期に文化人が集まった西洋料理店「燕楽軒」など歴史的に有名な場所だが、1972年から文京センタービル。1階にパチンコ屋があった気がする。

よく行ったのはもう少し赤門寄りの「秀吉」。
3年先輩の高木重和さんがよくおごってくださった。
就職してからも来たことがある。上司に言われ、安藤英広さんと農学部の学生(友人だった飯沢裕史氏)をスカウトに来て、秀吉でしこたま飲んだ。レシートはベルトのように長くなったが、会社が払ってくれた。

ここから赤門までの間で、秀吉のほかに消えてしまった店で覚えているのは、
・洋食のバンビ。クリームコロッケなどが入ったミックスフライ定食の記憶がある。
・前述、成さんときた焼き肉屋
・4年生の時、1年間指導してくださったD3の嶋田寿男さんが、研究室に残らず帝京大に転出がきまり、最後におごってくださった寿司屋。

もっといろんな店があったはずだが、思い出せない。
向こう岸、本郷通の東側の近江屋も閉店(2017年4月末)。
何十年も昔、妻の父が取手から東京に仕事で来られる時、いつもお土産を買って帰った店という。
1987年3月、針谷祥一部長に連れられ、遠藤實先生、野々村禎昭先生に挨拶に行くとき、ここでお菓子をお土産に買った。
千駄木に引っ越してからも(来客用に)何回か子どもたちに買ってきてもらったが、とうとう自分で来ることはなかった。

東側は、ほかに丸ごとのジャガイモがついてきたカレー屋(1987年)、飯田さん小山田さんと一度だけ入った「百万石」、角野さんの事務所、みんななくなってしまった。医学書院はDiseasesを出版した2009年、すでに春日通に移転していた。
ほんとに芝生の上のビヤ「ガーデン」があった学士会館分館もなくなった。一度飯野正光先生がおごってくれた。

さて西側に話を戻す。
赤門正面という場所以外、特に特徴はない(と思う)和菓子店だが、詰め合わせの箱が文学散歩道のようなデザインで、数年前千駄木に越してきたとき初めて入り、長野へのお土産を買った。

ここも長く続いている。多分食べている。

赤門アビタシオンは当時、高級マンションとして知られていた。
地下鉄春日駅にいくときの近道だった。
卒業式の日、教授が出張で、助教授の先生がごちそうしてくれたフランスレストランは、この地下にあったような気がしたのだが、来てみたら記憶違いのようだ。

毎日通った森川町食堂。
生協食堂より高かったが、ごはんがおいしいと、研究室では人気があって、わざわざ歩いてきた。私は行列と相席、待っている人がいるからゆっくりできないのが嫌だったが、1年以上はつきあった。
その後、私の昼食は、生協喫茶のメトロでカレーとハンバーガー1つ、デザートにソフトクリームをいうものに固定された。のちに千葉大医学部に入学しなおすフジキヨ藤井清孝氏と、この不健康な昼食を1年続け、彼が卒業した後は第二食堂などあちこちに行った。

モリショクは建て替えられ、中二階のようになっていた。昼時だったが行列はなく、外の黒板のメニューは少し高い気がした。

 
モリショクへいく路地の角は郵便局。
新しくなっている。
ルオーはそのまま残っていた。
ここもいつ閉店するか分からないので、入ってみる。
昔のように二階に上がる。
客はほとんどいなかった。
今は学内にレストランもコンビニもあり、外に出てくる人が減っているのだろうか。
すいていたので、水を持ってきたおばさんに、何十年ぶりかで来たと声をかけると喜んでくれた。本郷通も随分店が閉まったという私の感想には「とくに本屋さんがね」と話された
ここも何回か来ているはずだが、だれと来たか記憶なし。
窓の外には正門が見える。

飲み物付きのカレー、980円。
野菜ジュースを頼んでしまって失敗。コーヒーを頼めば、昔の何かを思い出したかもしれなかったから。

ルオーの隣は二件とも空き家。
赤門を過ぎるとシャッターの下りた店が目立ち、正門を過ぎると一段と増える。

本郷通から入る路地には、かつていろんな店があった。
國枝卓氏とラーメン、餃子、肉野菜炒め定食など食べた大島屋はどこだったか。

閉店、閉店、閉店

泰雲堂
かろうじて頑張っている古書店はあるが、ヒト気はない。
今の若い人は読まないし、希少本でもネット検索してしまう。

伸松堂

シャッター、シャッター
そのうち高層マンションだらけになるのだろうか。
東大が買い取って戦前の通りを再建、江戸、東京博物館を兼ねたサテライトオフィスにすればいいのに。

郵便局で思い出した。
M2のころ、隣の部屋にいらした助教授の秋山敏行先生が、原稿の送付だったか、女子学生に郵便局への用事を頼み、私について行ってくれ、と言われた。
他大学から来て、あんまり話したことがなかったその女子学生と出かけ、用事を済ませ、お釣りを先生にもっていくと、
「なんでこんなに早く帰ってきたんだ、お釣りでお茶でも飲んで来ればよかったのに」
とニコニコしながら仰った。

この日一緒にきた妻に聞いたら覚えていないといった。


6 件のコメント:

  1. 最後のオチでグッときました☺️

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  2. こんな長いものを読んでくださってありがとうございます。
    どんどん消えていく記憶をできるだけ思い出すのが目的なのですみません。

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  3. 歴史を感じる文章で参考になります。
    オチも素敵です。

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  4. グーグル・ストリートviewの1980年版でもあれば、もっといろいろ思いだすのでしょうが・・・・。
    あと5年もしたら、今の半分も記憶を引き出せなくなるかもしれないと感じ、余計なことまで書いています。

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  5. 本郷生まれです。
    50年前に本郷三丁目駅から本郷通りに向かう出口左側に「ビタ」という洋食屋さん画像ありました。
    そこのミートボールスパゲティーが凄く美味しく、ウエイターさんも大きな声でハキハキしていたのを思い出しました。今はドトールになっていますが。
    かねやすも小物、洋服、化粧品、雑貨物を売っていましたね。
    その先に今も交番がありますが、当時黒髭をはやした有名な怖いお巡りさんがいました。
    勿論小学生だった私達には優しかったと思います。
    本郷三丁目交差点あたりにふじむら、という和菓子屋さんもあり、今はシャッターが閉まったままです。
    そこのきみしぐれが、とっても美味しかったです。
    本郷三丁目、今はオフィス街になってしまいましたが、昔は情緒あふれる街でしたよね。
    山手線と下町の中間点なので、それぞれ良いところが混ざった街でした。

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  6. ponさん
    本郷にお生まれとは羨ましい。
    しかしその分、最近の変貌ぶりには驚いていらっしゃるのではありませんか?
    「ビタ」は記憶にないのですが、8月に歩いたときはその近くの葡萄亭がまだありました。
    https://tkobays.blogspot.com/2020/08/blog-post19.html

    でもコロナで大学が閉鎖され人出が大幅にへり、あのあたりの商店も廃業に拍車がかかる気がします。
    本郷通りは商店ばかりだけど少し中に入れば坂道と古い家々。
    それもどんどんマンションに変わっていく。お子さんのころからの素敵な思い出が消えないように願っています。

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