2019年6月10日月曜日

増上寺と将軍の墓一覧

6月8日土曜、浜松町に来た。
来月息子の結婚式があり、そのとき着るモーニングの衣装合わせ。

終わってからまだ明るかったので増上寺にきてみた。
最初に浜松町周辺に来たのは1978年。
共立薬科大学に学園祭パンフを売りに、その後、1985、中華人民共和国観光案内所にも来たが、そのとき増上寺に寄ったかどうか不明。

1996米国客人を増上寺に連れてきた。
2007?2008?東京プリンスホテルでダンスパーティ(秋山幸二とすれちがう)
このときは境内を歩いている。
大門
ここから先、山門まではだいぶある。
昔はびっしり塔頭が並んだ地域も今はオフィス街になっている。

三解脱門
三縁山広度院増上寺の正門である。
寺は山号で呼ぶから山門といい、中央と左右があるから三門とも書く。

戦災を免れて、増上寺では一番の建造物か。

東京タワーへ行く道にそって千体子育地蔵菩薩。
赤い帽子、よだれかけ、風車。
 昔はこのように段ではなく、地面にじかに立っていたような気がするが、気のせいか。
初めて見たときくるくる回る無数の風車が不気味であったが、今は外国人観光客をはじめ、人が多くなったから怖さはない。
花差しと石像の後ろに奉納者の名前が書いてある。
1000体かどうかは数えなかった。

本堂の右後ろにある徳川家霊廟
拝観できるようだが入場料500円なら興味ある人しか入らないだろう。
鋳抜門
かつて家宣の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門を移築

明治40年goo地図 塔や紅葉館もみえる。

上図のように、かつては将軍家の菩提寺らしく、立派な霊屋は北の東京プリンスホテルから南はプリンスパークタワーまでいくつもあった。
しかし空襲で焼失したこともあり、現在地の狭い一か所にまとめて改葬した。

千体子育て地蔵の裏から覗く

増上寺は、本来徳川とは関係なく、1393年浄土宗の寺として建てられた。
(開基は浄土宗第八祖、酉誉聖聡)
場所は今の千代田区平河町から麹町あたりらしい。開山から戦国時代にかけて、浄土宗の東国の要として発展する。

1590年家康が関東に入ってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれた。
もともと三河時代の松平家の菩提寺が増上寺開基の酉誉聖聡の弟子であったこと、また家康が当時の住職源誉存応上人に深く帰依したため、と言われる。

1598年、現在の芝の地に移転。
幕府成立後は家康の手厚い保護もあり、大発展した。
空襲焼失、再建された本殿の裏

菩提寺なら将軍全員ここに葬られてもよさそうだが、そうでもない。
15人のうちだれがここに葬られたか、ここで整理しておく。

氏名 院号 享年  没年 増上寺 寛永寺 その他
1 家康 安国院 75 1616       日光東照宮
2 秀忠 台徳院 54 1632  〇
3 家光 大猷院 48 1651 日光輪王寺
4 家綱 厳有院 40 1680 〇
5 綱吉 常憲院 64 1709 〇
6 家宣 文昭院 51 1712  〇
7 家継 有章院 8 1716  〇
8 吉宗 有徳院 68 1751 〇
9 家重 惇信院 51 1761  〇
10 家治 浚明院 50 1786 〇
11 家斉 文恭院 69 1841 〇
12 家慶 慎徳院 61 1853  〇
13 家定 温恭院 35 1858 〇
14 家茂 昭徳院 21 1866  〇
15 慶喜 (神道) 77 1913       谷中霊園


寛永寺は天海が寛永元年(1624年)に創建したもの。
天海は川越喜多院の僧であったが家康に重用され、
1613、日光山輪王寺貫主を拝命
1616、危篤の家康から神号や葬儀に関する遺言を託された。

その遺言というのは、増上寺で法会のあと、駿河久能山に葬り、1年後に日光に改葬せよというもの。これは増上寺と家康を離そうとする天海の謀略のようにも見える。

天海は江戸に天台宗の大寺院を作りたいと考えた。
秀忠は忍ケ岡に屋敷のあった藤堂ら3大名を移転させ、寛永寺を作る。

秀忠は1632年に没するが、当然、徳川菩提寺の増上寺に葬られた。
(既に家康時代から子女は葬られていただろう)

つぎの家光だが、尊敬する神君家康と同じ日光へ。

問題は家綱、綱吉。
おそらく創建から50年もたち、大発展した寛永寺が働きかけたのだろう。
将軍家の菩提寺となった。
当然、増上寺はおもしろくなく、協議したのか、以後両方で葬られることとなった。

どちらになるか当時の政治状況で決められただろうから、没年も書いておいたが、調査は別の機会とする。
本堂裏に一般墓地がある。
AKさんの家のお墓もここだろうか。

月極め駐車場も経営している

明徳幼稚園はどういう人の子が入るのだろう?


このあと西をぐるっと歩いて東京タワーとの間の堀のような低地の道を南下、幼稚園の南の坂を上がり、本殿の南に戻ってくる。

柵の向こうに芝生広場が見えた。
ザ・プリンスパークタワー東京ホテルの敷地だろうか?

いつだったか来たとき、本殿南の増上寺会館あたりは工事していたような気もするのだが、記憶違いだろうか。

ここで増上寺本殿の写真を撮っていないことに気が付いた。
いかにも鉄筋コンクリートらしい造り

普段、ほとんど鏡を見ないが、最近自撮りを覚えて、客観的にみるようになった。
すっかり老け顔になっていることに驚く。

黒門から車道にでる。
芝公園の範囲
ほぼ、かつての(塔頭含まない)増上寺本体の境内を示している。

港区立芝公園
公園奥の林の中に入って行ったら、きれいな芝生広場に出た。
プリンスパークタワーの敷地である。
ホテルの敷地なのに自由に入れるようだ。


よく手入れされた散策路を通って、ホテルの敷地外に出た。
建物の中を除き自由に入ってもいい、という旨の看板があった。

この石垣はいつのものだろう?

ビワの木。下の方の実はとられている。

前方後円墳のところにお稲荷さんがある。
空襲で焼失した五重塔はこの辺りにあったのだろうか。
小学館江戸東京情報地図
これを見れば、塔は古墳の上にあったように見える。

梅園は明治の地図にもある。

このあたりは港区立でなく都立芝公園となっている。
東照宮ということは家康を祀っている。
今回知ったのだが、東照宮は江戸時代から松平徳川一門だけでなく、諸大名もこぞって建てた。全国で700以上も建てられ、約130社が現存するという。

幹周 6. 5m、樹高 21. 5m、推定樹齢350年。
家光時代に植えられたイチョウという。

暗くなってきた。
あす何かイベントでもあるのだろうか、テントをあちこち造っていた。
作業員が金属パイプを運んでいるなか、小さな子供たちが自転車で走り回っている。
ぶつかったら危ないが、立ち入り禁止のフェンスで排除しないのが、好ましかった。

浜松町駅から増上寺境内、芝公園まで外国人観光客だらけであったが、パイプを運ぶ作業員まで外国人であることには驚いた。

2019年6月3日月曜日

キャベツとレッドロビンの剪定

6月2日、日曜、曇りだが梅雨入りはまだ。
小さすぎて放っておいたホウレンソウ3株のうち、雌株2つに花がつき実がなった。
近くの雄株が小さくてすぐ枯れてしまったので、受精したかどうかわからぬが、棘のある種ができている。
 こちらの株は棘がない。
ホウレンソウは上手く育たなくて何回も蒔いたから違う品種だろうか。
それとも受精が不十分で成熟していないのだろうか。

トウモロコシは雄花が咲いたが、雌花は影も形も見えない。

落花生。6/1、ポットから地面に移した。

ナスもなっているが木が小さい。

ミニトマトとキウリ
キウリはずっと蔓が出てこなくて心配した。間違えて「蔓なし地這いキウリ」を買ってしまったかと思ったが、そんな品種はなく、キウリは全て蔓がでるそうだ。
狭い庭には這うべき地面はないから、蔓が伸びてきてほっとした。

シソの群落。タネが落ちればどこにでも生える。

キャベツは手前の列だけ玉になり、垣根に近いほうは育たない。
そこで日当たりをよくするため、レッドロビンの垣根を剪定することにした。


以上3枚、剪定前。
9:30開始。日当たりよくするために思い切って切った。
剪定ばさみでは刃が立たず(閉じず)、のこぎりを使用。
休憩、昼食なしで働き、
13:25終了



腕はくたくた。
このあと道路の枝を片付け(庭に放り込み)、14:30から昼食。

本日の収穫
板は17.5㎝(隙間を入れると18.0㎝)
キャベツは成長しすぎて割れ始めていた。

2019年6月1日土曜日

神田明神エドッコと新開花

5月24日、湯島の坂を歩いた夕方、ここに来た。

神田明神はあまり来ない。
東大に近い湯島天神、お茶の水に近い聖堂は、用がなくとも境内を突っ切るとか、ついでに、というのがあるけど、ここはそれがない。
初めてきたのも40代頃だったかもしれない。
扁額や石の門柱にあるように、正式には神田神社という。
明治政府がこうしたらしい。
神仏習合時代、民を救済するために現れた仏の化身が明神とされたから、神仏分離政策で名前を変えるのは当然であろう。(似た言葉の権現との違いは略)

昔の中山道は鳥居を過ぎると北に少し膨らんでいた。
道沿いに天野屋の横看板のある蔵のような建物が二棟のこる。

鳥居すぐ左の天野屋に「あま酒茶屋」「かうじ」の看板が見える。

麹は中国から伝わった字だが、糀は和製漢字。なるほど大陸の麦に対して日本は米につくカビだからな。豆のタンパクや穀物のデンプンを分解し、味の良いアミノ酸、糖を作るから古くから味噌、酒などに利用されてきた。
本郷台地は糀室が多かった。

参道右側の三河屋も糀や。
1602年、三河で創業。家康の三河衆とともに江戸に出てきたという。
今も甘酒、みそ、納豆を販売されているようだ。

楼門は随神門という。
なるほど仏教的である。
本来の神社なら鳥居の向こうに岩などのご神体(せいぜい本殿)があるだけだろうが、歴史的には神仏習合時代が圧倒的に長かったから。

楼門の両袖に武者姿の像がある。今まで大して関心がなかったので誰だか知らなかった。平将門や家康、家光あたりかと思っていた。
ところが、右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神という。

この二神は古事記に出てきて、天照大神とその子孫が住む宮殿の門を守衛する神とされるが、よく知らない。
夕方で人出もひいている。
境内の西側が大きく変わった。
文化交流館EDOCCOである。 KでなくCであるのは何かの略だからだろう。
 
(本殿からの眺め)
かつてここには駐車場と屋上庭園があった。
庭園はあまり人がおらず、いい感じだったのだが、ビルができた。



創建1300年記念事業という。

大黒様は今回初めて気が付いたが、昭和51年建造という。

二階のテラス(回廊)に外国人観光客がいたので外階段から行こうとしたら、そろいの黄色ウィンドブレーカーを来た人々に止められた。上のホールで田中久弥という参議院議員候補の会があるらしく、関係者以外はダメだという。

中に入ってみる。
土産物のほかに、お札なども売っているから社務所も兼ねている。
カフェの一押しは甘酒のようだ。
閉店時間を過ぎ、人がすくないが、外国人がうろうろしている。
外国人の多さは、館内に外貨の自動両替機があることでもわかる。
しかし昔のほうが緑が多くて静かで良かった。
宮本公園と境内が一体化していた。
宮本公園というのは、宮本さんではなく、このあたり昔の町名が神田宮本町だったから。
裏に回っても、宮本公園には出られない

境内を回ってみる。

馬がいた。神馬、みゆき号は小さい。

銭形平次の碑

裏にまわると日本武尊の入り江(蔵前橋通り)がみえた。

  

ここは東京湾から房総常を望む景勝の地であり、物見台、砦がこの神社の前身だったのではないか。
有名になるのは江戸城の鬼門ということで幕府の庇護を受けてからだが。
2005年竣工、31階建ての秋葉原ダイビル
昔は海が見えただろう。

本殿前に戻ると文化交流館の二階で政治家のパーティだかが始まっているようで、スマホで写そうとしたら、面をかぶってショーの客寄せをしていた人が勘違いしてポーズをとってきた。
すかさずビラを配っていた仲間の若者が寄ってきて、地下のステージで行われる食事つき古典芸能ショーに誘われた。
しかし、もう観光客と観光業者、おもてなし、自治体にはうんざりだ。
寺社も公園もいろんな集客装置をつくり、政府や観光課は訪問客数の目標値を掲げる。人が多く集まれば、それに応じてさらにトイレや案内所、イベント広場、飲食施設をつくり、貴重な緑が失われていく。
創建1300年記念事業が、集客、売り上げアップの施設建設というのは品がない。

本来寺社や公園は憩いの場であり、祭りでないときは静かな場所である。
私有地ばかりでなく(神田明神も半ば公的な場所だが)、上野公園のようなところまでテーマパーク化されようとしている。本来こうした金儲け活動を抑制しなければならない役所が旗振りなのだから始末が悪い。
京都や軽井沢が本来の姿でなくなってしまったことを反省しないのが不思議だ。

帰ろうとして、
明神男坂の上に立ったら新開花のことを思い出した。

明治のころ、境内に開花楼という料理屋があった。
明治の薬学史が好きな人は知っているかもしれない。
「明治13年1月,在京の製薬士,神田明神境内の開花楼に会して新年会を催す.」

日本で最古の学会の一つ、日本薬学会が設立されるきっかけとなる会合が開かれた場所である。(→ )

この話を日本薬学会ファルマシア誌に書いたが(2012年11月)
その数年前、開花楼から4代あとの主人が開いた新開花という料亭があることを知り、明神下を探したことがある。
今から10年以上前のこと。

今どうなっているだろう?
しかし見つからず。廃業したのだろうか?
範囲を広げて歩いていると、それらしき建物はあったが、記憶と微妙に違う。
場所も違う気がする。ここは西の崖に面している。

(正面は男坂の階段、左は料亭みやび。)
新開花は南向きだった気がする。

なおも探したが、暗くなってきたので(もちろん歩いて帰る元気はなく)御徒町に出て帰宅。
外国語ばかりのバス停

家で調べると、新開花は別の場所に店舗を建て替えるため3年ほど前に休業、弁当のみの販売になったらしい。食べログなどには口コミが残っていて、最後の店舗訪問客が2015年4月あたり。

今、自分年表を見たら、2013年、2015年に神田明神とこのあたりを自転車で通っている。その時も見ていたかもしれない。
場所は外神田2-8-14。
いまここはJ-First CHIYODAというマンションになっていて、記憶の場所に近いのだが、マンション竣工が2015年10月というのが1年くらい早すぎる。