2019年6月1日土曜日

神田明神エドッコと新開花

5月24日、湯島の坂を歩いた夕方、ここに来た。

神田明神はあまり来ない。
東大に近い湯島天神、お茶の水に近い聖堂は、用がなくとも境内を突っ切るとか、ついでに、というのがあるけど、ここはそれがない。
初めてきたのも40代頃だったかもしれない。
扁額や石の門柱にあるように、正式には神田神社という。
明治政府がこうしたらしい。
神仏習合時代、民を救済するために現れた仏の化身が明神とされたから、神仏分離政策で名前を変えるのは当然であろう。(似た言葉の権現との違いは略)

昔の中山道は鳥居を過ぎると北に少し膨らんでいた。
道沿いに天野屋の横看板のある蔵のような建物が二棟のこる。

鳥居すぐ左の天野屋に「あま酒茶屋」「かうじ」の看板が見える。

麹は中国から伝わった字だが、糀は和製漢字。なるほど大陸の麦に対して日本は米につくカビだからな。豆のタンパクや穀物のデンプンを分解し、味の良いアミノ酸、糖を作るから古くから味噌、酒などに利用されてきた。
本郷台地は糀室が多かった。

参道右側の三河屋も糀や。
1602年、三河で創業。家康の三河衆とともに江戸に出てきたという。
今も甘酒、みそ、納豆を販売されているようだ。

楼門は随神門という。
なるほど仏教的である。
本来の神社なら鳥居の向こうに岩などのご神体(せいぜい本殿)があるだけだろうが、歴史的には神仏習合時代が圧倒的に長かったから。

楼門の両袖に武者姿の像がある。今まで大して関心がなかったので誰だか知らなかった。平将門や家康、家光あたりかと思っていた。
ところが、右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神という。

この二神は古事記に出てきて、天照大神とその子孫が住む宮殿の門を守衛する神とされるが、よく知らない。
夕方で人出もひいている。
境内の西側が大きく変わった。
文化交流館EDOCCOである。 KでなくCであるのは何かの略だからだろう。
 
(本殿からの眺め)
かつてここには駐車場と屋上庭園があった。
庭園はあまり人がおらず、いい感じだったのだが、ビルができた。



創建1300年記念事業という。

大黒様は今回初めて気が付いたが、昭和51年建造という。

二階のテラス(回廊)に外国人観光客がいたので外階段から行こうとしたら、そろいの黄色ウィンドブレーカーを来た人々に止められた。上のホールで田中久弥という参議院議員候補の会があるらしく、関係者以外はダメだという。

中に入ってみる。
土産物のほかに、お札なども売っているから社務所も兼ねている。
カフェの一押しは甘酒のようだ。
閉店時間を過ぎ、人がすくないが、外国人がうろうろしている。
外国人の多さは、館内に外貨の自動両替機があることでもわかる。
しかし昔のほうが緑が多くて静かで良かった。
宮本公園と境内が一体化していた。
宮本公園というのは、宮本さんではなく、このあたり昔の町名が神田宮本町だったから。
裏に回っても、宮本公園には出られない

境内を回ってみる。

馬がいた。神馬、みゆき号は小さい。

銭形平次の碑

裏にまわると日本武尊の入り江(蔵前橋通り)がみえた。

  

ここは東京湾から房総常を望む景勝の地であり、物見台、砦がこの神社の前身だったのではないか。
有名になるのは江戸城の鬼門ということで幕府の庇護を受けてからだが。
2005年竣工、31階建ての秋葉原ダイビル
昔は海が見えただろう。

本殿前に戻ると文化交流館の二階で政治家のパーティだかが始まっているようで、スマホで写そうとしたら、面をかぶってショーの客寄せをしていた人が勘違いしてポーズをとってきた。
すかさずビラを配っていた仲間の若者が寄ってきて、地下のステージで行われる食事つき古典芸能ショーに誘われた。
しかし、もう観光客と観光業者、おもてなし、自治体にはうんざりだ。
寺社も公園もいろんな集客装置をつくり、政府や観光課は訪問客数の目標値を掲げる。人が多く集まれば、それに応じてさらにトイレや案内所、イベント広場、飲食施設をつくり、貴重な緑が失われていく。
創建1300年記念事業が、集客、売り上げアップの施設建設というのは品がない。

本来寺社や公園は憩いの場であり、祭りでないときは静かな場所である。
私有地ばかりでなく(神田明神も半ば公的な場所だが)、上野公園のようなところまでテーマパーク化されようとしている。本来こうした金儲け活動を抑制しなければならない役所が旗振りなのだから始末が悪い。
京都や軽井沢が本来の姿でなくなってしまったことを反省しないのが不思議だ。

帰ろうとして、
明神男坂の上に立ったら新開花のことを思い出した。

明治のころ、境内に開花楼という料理屋があった。
明治の薬学史が好きな人は知っているかもしれない。
「明治13年1月,在京の製薬士,神田明神境内の開花楼に会して新年会を催す.」

日本で最古の学会の一つ、日本薬学会が設立されるきっかけとなる会合が開かれた場所である。( )

この話を日本薬学会ファルマシア誌に書いたが(2012年11月)
その数年前、開花楼から4代あとの主人が開いた新開花という料亭があることを知り、明神下を探したことがある。
今から10年以上前のこと。

今どうなっているだろう?
しかし見つからず。廃業したのだろうか?
範囲を広げて歩いていると、それらしき建物はあったが、記憶と微妙に違う。
場所も違う気がする。ここは西の崖に面している。

(正面は男坂の階段、左は料亭みやび。)
新開花は南向きだった気がする。

なおも探したが、暗くなってきたので(もちろん歩いて帰る元気はなく)御徒町に出て帰宅。
外国語ばかりのバス停

家で調べると、新開花は別の場所に店舗を建て替えるため3年ほど前に休業、弁当のみの販売になったらしい。食べログなどには口コミが残っていて、最後の店舗訪問客が2015年4月あたり。

今、自分年表を見たら、2013年、2015年に神田明神とこのあたりを自転車で通っている。その時も見ていたかもしれない。
場所は外神田2-8-14。
いまここはJ-First CHIYODAというマンションになっていて、記憶の場所に近いのだが、マンション竣工が2015年10月というのが1年くらい早すぎる。 

0 件のコメント:

コメントを投稿