2020年5月23日土曜日

養育院、大塚公園、白鷺坂と地形

5月17日、コロナ自粛が緩んできた日曜。
新しい大塚駅をみて、昔の大塚三業地から千川の暗渠と南大塚の高級住宅地を歩いてきた。

別ブログ
20200519 大塚駅のビル番号、ダンス大塚会館
20200521 大塚三業地と文京区大塚のもやもや

千川通りを西にわたり、緩やかな坂を上がると文京区大塚。
ここも高級住宅地。
文京区大塚4丁目19番

都立大塚病院に行きたいのだが、裏に当たる東のほうからは行きづらく、道に迷った。
建物が見えていながら行き止まりを何回も戻りつつ、ようやく西に抜ける細道をみつけた。

右は大塚病院かと思ったが、地図を見れば東京都監察医務院。
不自然な死体を解剖する都の施設らし。

そのとなりは都営第二大塚アパート
一帯は東京市の敷地だったから病院以外にいろんなものが建てられたのだろう。

ここに来た目的は養育院のあった場所が見たかったから。
養育院については、このブログでも何回か書いた。
要するに、明治5年、困窮者、病者、孤児、老人、障害者の保護施設として本郷加賀屋敷跡に設立された。神田、本所など各地を移転した後、1896(明治29)大塚にきた。
関東大震災のあと、1923(大正12年)板橋大山に移転、現在の都立健康長寿医療センターになっている。
明治42年(1909)
左端養育院の南東に伊達邸(宇和島?)と大きな池がみえる。

養育院の敷地はそのご被災者の簡易療養所となっていたが、大正15年から東京市立病院の建設が始まり、昭和4年(1929)に開業、あわせて婦人授産場、隣保館、託児所、児童健康相談所もできた。
昭和4年 
病院、隣保館以外は小石川区側である。

2020-05-17 都立大塚病院
守衛さんに養育院の記念碑がないかと聞いたが、知らないという。
外来患者がいれば入っていけるのだが、日曜、コロナとあって、だれ一人いない。

伝染病隔離病院だった駒込病院が感染症に特化しているように、婦人授産場などがあった大塚病院は総合周産期母子医療センターに指定されている。

昭和7年
養育院のあと、病院ができる前、昭和3年には南の一角に大塚公園が開園した。

昭和初めの由緒ある公園。
二、三十年前は鬱蒼とした森だったらしい。

一部は春日通りに面している。
家から3.1 ㎞も離れ、親しみもないが春日通りまで「ご近所」カテゴリーに含めると決めてある。

テラスのことを露壇というらしい。
本郷元町公園を思わせる。震災後の流行だったのだろうか。

井戸もある。

こに来た目的の一つに地形の確認があった。
明治11年の地図で小石川台地の東側が不忍通りあたりで抉られているのである。
南への抉れはお茶大の前あたりの低地だと思うが、北への抉れは大塚公園の方に伸びている。すなわち不忍通りは千川谷から護国寺前に行くのに上がって下がって上がって下がっている。
はて、こんな地形があっただろうか?

現在の等高線でもはっきりしないので現地に来たのだ。
明治11年の崖は感覚的なものだから等高線とは違うと言えばそれまでだが、なんかすっきりしない。

区立大塚公園は、養育院跡地を再開発するにあたり崖と窪地で利用しにくかったから公園にしたとある(wiki)。してみると、造成によって崖が分かりにくくなったということか。

大塚公園南口に隣接の民家。
誰か住んでいらっしゃるのだろうか。
上空から見たら森になっていないかと帰宅後グーグル航空写真を見たら、ずいぶん大きな平屋の邸宅。公園の木々に葉はなく季節は冬だった。南と北の屋根に枯れた植物らしい茶色がみえる。 
夏ならばすべて覆われるかもしれない。

公園南口からまっすぐ南は上り坂。
やはり公園が窪地の北の部分だろうか。

木造の素敵な家が3軒並んでいた。
なかなか都内では見られない景観。

この辺り昭和7年の地図では松平邸とある。どこの松平か?

養育院、大塚公園の敷地は旗本・松平長門守(4500石)の抱え地だった。
東の坂下の方は陸奥守山藩(福島郡山)松平大学頭2万石の抱え地、下屋敷。
しかし公園南のこの辺りの住宅地は伊勢桑名藩11万石松平越中守の抱え地だった。

幕末の桑名藩といえば、会津松平容保の実弟、松平定敬(1847-1908年)である。西軍に抵抗し賊とされたが、明治になれば故地の一角に屋敷をたてたとしても不思議はない。

公園から南に歩くと本伝寺の塀にぶつかる。
道は東に下っている。
本伝寺裏坂とする。

大塚公園、本伝寺の東はなだらかに下っているが、名前を付けるような坂はない。
このあたりは明治以降、伊達家の邸宅があった。
今も閑静な住宅街である。
写真右のシャトレー大塚は文京区大塚4丁目13-4

坂の下、右は大塚小学校。
巣鴨小学校が巣鴨駅とうんと離れた南大塚にあったように、大塚小学校も大塚駅とは関係ない。小学校の名前は昔の住居表示を反映する。

千川通に出ると東京健生病院があった。
1953開設の氷川下セツルメント診療所が前身らしい。
氷川下セツルメントって、駒場寮のサークルにあったような気もする。
東京保健生協という医療福祉生協が運営しているようだがよくわからない。

ここには文京区の無料検診で何回か来ている。
以前の会社は福利厚生がしっかりしていて、超音波から虫歯の健診まで職場でやってくれたが、今の職場は胃のレントゲンなどやってくれないので、ここでやってもらった。
しかし面倒なのでここ数年来ていない。もともと人間ドック、健診など寿命に関係ないと思っているし。
しかし職場で勤務中にやってくれるというのはとても便利だったな。
生協らしく古い。

不忍通りとの交差点に出た。
東、2週間前に通った猫又坂をみる。旧道も見える。

交差点の反対、西の方は本伝寺前に向かって上り坂。
白鷺坂という。
地形図を見れば本伝寺前が急に見えるが、坂の案内板はすぐそこ、大塚小学校のフェンスのところにある。
宇和島伊達の下屋敷と書いてあるが間違いだと思う。
江戸時代は陸奥守山藩(郡山)松平大学頭の抱え地で、伊達家が屋敷を持ったのは明治になってからである。
(文京区の案内板はよく間違える。千駄木大給坂でも大給豊後守の屋敷としていたが、最近になって子爵大給家の屋敷と訂正した。多くのブログはそのまま写し、拡散していく)

さて、このブログで示した3枚の地図を再び見れば、明治42年の伊達邸は広かったが、昭和7年になると池のところが小学校になり周りは住宅地になった。北の方に大きな区画と池、家屋が見えるが、残った伊達本邸ではなかろうか。

宇和島伊達家は、仙台の本家が伯爵だったのに対し、幕末の宗城の功績を評価され侯爵となった。一族の墓は谷中墓地にある。


別ブログ

2020年5月22日金曜日

都会では苗をあちこち移し、畑を造成

都会の家庭菜園で一番の悩みはスペース不足。
私が種を畑にじかにまかずにポットで苗まで育てるのは、少しの期間でも場所を節約するという意味がある。
2020-04-10
左下、ネットの中にあるキャベツの苗を地植えしなくてはならない。
色々考えて、ネギを移動させて場所を作り、そこへ植えた。

2020-04-11
そのネギは押し出されてこっちへもってきた。
ところが、
2020-05-15
落花生をそろそろ地植えしなくてはならない。
相変わらず場所がない。

落花生は10月末、11月初めまで畑を占有するから、大根、白菜を予定する場所には植えられない。

これから予定するサツマイモも長いから、それと合わせて植えられる場所は一か所しかない。ところが、そこには1か月前に移してきたネギがいた。ネギを再び動かしたい。

大根白菜予定地は空いている。
ところがネギも長いから大根白菜と重なる。

既に植えてしまったトウモロコシ、枝豆がいる。
これらこそ夏には終わるので、大根白菜の場所に植えるべきだったのである。
2020-05-15
トウモロコシ(写真右)は集団でいないと受粉効率が悪いので一部移動はよくない。
そこで10日前に植え、すくすく育っている枝豆を大根予定地に移動させた。

2020-05-15
つぎに移動して1か月の、落ち着いたばかりのネギを、空いた枝豆のスペースに再び移動させる。こうして落花生、サツマイモの場所を作った。

2020-05-15
うつされた枝豆もいい迷惑だが、枯れてはいない。

2020-05-20
畝と通路を作り、サツマイモの場所も確保してようやく落ち着いた。
落花生(中央)、トウモロコシ(右)は順調。

庭で頭を使うのは、たいてい場所のやりくりである。
占有期間、連作、消毒、日当たり、いろいろ考えなくてはならない。
その時ベストと考えても、半年後、いや一月後に失敗だった思うことがしばしばある。
耕地はこれ以上増えないので、数年先まで考えて、土地利用表を作った。
パソコン上でいろいろ場所を入れ替え楽しんでいる。


20200220 庭を畑にする歴史
20170624 6年前の密林のような庭との比較

千駄木菜園 (総合)目次

2020年5月21日木曜日

大塚三業地と文京区大塚のもやもや

5月17日、コロナ自粛が緩んできた日曜。
大塚駅に来た。

別ブログ
20200519 大塚駅のビル番号、ダンス大塚会館

新しく変わりつつある駅の周りを歩いた後、谷端川(千川、小石川)の谷を文京区の方に歩く。
2020-05-17 10:50
千川通が山手線ガードをくぐるところ。
50メートル先のブックオフは何回も行った。

千川通は名前が示す通り、白山台地と小石川台地に挟まれた千川の谷を通るのだが、大塚駅のあたりは川岸の少し高いところを通ったようだ。
だから千川(谷端川)の暗渠は少し下ったところにある。
20年前はもっと怪しい雰囲気だった気がする。

10:51 
入り口に大塚三業通りの飾り表示灯あり。
このバッティングセンター、いつからあるんだろう?
生薬の野球チーム・OL学園が強かった1979,80年ころ、決勝戦の前に山本芳邦さんに引き連れられ大塚のバッティングセンターに来た。このあたりだった。

10:53  割烹・千草
三業通りの三業というのは芸者屋(置屋)、料理屋、待合茶屋(場所貸)の3者を言う。これらが集まり芸者遊びのできるところを三業地(花街)といった。当局への届も必要だし、集まらなければならないことから、自然と場所も決まる。

新橋、赤坂、芳町(日本橋)、浅草、神楽坂、向島など有名だが、都内各地にあった。
文京区だと駒込神明町、白山指ケ谷町など。

大塚は1903年(明治36年)に山手線大塚駅が開業、その後2系統の都電も伸びてきて、城北随一の繁華街となっていた。となり池袋の発展は東上線(1914)、西武線(1915)が開業し、その沿線に住宅が広がっていくずっとあとのことである。

大塚は駅と天祖神社の間に飲食店、料理屋が集まっていたが、三業地としては1922年(大正11)、巣鴨町字平松、まだ流れていた谷端川北岸に指定地許可を得た。その後川の両側に店が増え、やがて埋められ道路となる。

大塚は都電沿線の陸軍関係者にも利用され、1931年(昭和6)は芸妓260名、料理屋22軒、待合61軒、置屋68軒とある。

料亭・和可月
いま芸者を呼べるのはここと割烹「松し満」、「うなぎ宮川」の3軒だけとか(2017)

10:55 
和可月のとなり、元料亭のような建物には
「株式会社エコテック」「電空工業株式会社」という表札があった。

古い建物とマンションが混在する。
かつてはすべてこの様な木造家屋が並んでいたのだろう。

10:58 
無人の店舗が多く、隙間を覗けば廃墟のよう。

スナック浮舟のアパートはかつて芸妓さんたちが住んでいたかも。

谷端川暗渠の大塚三業道路も、それらしき建物が絶えた頃、左を見ると寺がある。
11:01 東福寺
山号は観光山。観光という言葉の意味を考えさせられる。
正面が閉まっていたが、横に回ると境内に入れる。
真言宗豊山派。
京都の大寺、東福寺とは関係なさそうだ。あちらは臨済宗。

この辺りからすっかり住宅地になる。
11:04  巣鴨小学校裏の坂
幕末、東福寺はこの坂まであり、西は巣鴨小学校の向こう、千川まで広がっていた。
そこで東福寺坂とする。

なお、住所は大塚なのに巣鴨小学校という。
大正8年、東京府北豊島郡巣鴨仰高西尋常小学校として開校。
戦後、校地の地名(巣鴨6丁目)をとり巣鴨小学校とした。

1969年(昭和44年)まで豊島区に大塚という地名はなく、駒込と池袋に挟まれた広い地域は巣鴨1~7丁目か、西巣鴨1~4丁目だった。
巣鴨プリズン(池袋サンシャイン)、淑徳巣鴨、巣鴨中学・高校など、いまのJR巣鴨駅とははるか離れたところにあるものまで巣鴨がつくのはそのせいである。
昭和7年
まだ三業地には川が流れ、松浦邸、川崎邸がある。

坂の上は閑静な住宅地
この高台は白山台地につながっている。
11:07 
この辺り、戦前まで松浦伯爵邸があった。
肥前平戸の殿様、墓は染井霊園にある。
松浦坂とする。

11:10  松浦石段

11:12
石段を上がると西片にも匹敵する高級住宅地。
豊島区南大塚をみなおした。
本駒込・大和郷より私は好きである。

すぐ先は文京区千石になる。
千駄木の家からこの地点まで2.5㎞。

この家は天理教東京分教会
戦前、松浦邸の母屋があったあたりか。

11:14 
若草保育園で行き止まり
松浦石段まで戻る。
11:17  
高台の上から眺めれば、殿様になった気分ではないか?
 
江戸時代、ここは上総鶴牧藩1万五千石、水野家の抱え地だったから、殿様が住んでいたわけではないが。

再び大塚三業通りまでおり、暗渠道を南下。
11:20  宮坂
5月2日に坂上を通った。
豊島区(左)と文京区の境になっている。
新たに宅地を造成したところだから、まっすぐで広い。都会とは思えない。

11:22
宮坂の下で暗渠(左)と分かれ、平行する千川通(右)にいく。

千川通りを西にわたり、緩やかな坂を上がると文京区大塚。
ここも高級住宅地。
11:32
文京区大塚4丁目19番

これだけきれいな街でありながら、大塚という地名は小日向、目白のような高級なイメージがない。なぜなら三業地を含むJR大塚駅周辺の景色しか浮かばないからだ。

しかし本来、大塚は護国寺からお茶大、東京教育大、その周辺の宅地を含む閑静な土地だった。
山手線ができて駒込と池袋の間、広い巣鴨の田舎に駅を二つつくるとき、巣鴨の他にもう一つ駅名が必要だった。周りは畑ばかりで町がない。監獄(1895)、護国寺は駅名にしにくい。少し離れているが南の宅地が増えてきた大塚を駅名にすることは自然だった。当時は大塚町、大塚窪町、大塚仲町、大塚坂下町、大塚上町、大塚辻町とあった。

住民も喜んだことだろう。
ところが繁華街、三業地ができ、大塚は自分のところでなく北のほうの駅周辺になってしまった。決定的であったのは昭和40年ころから始まった新住居表示。
それまで豊島区巣鴨、西巣鴨であった広い地域が、北大塚、南大塚と正式に改名した。
大塚駅の南が巣鴨6丁目、7丁目、大塚駅の西、池袋とのあいだが西巣鴨では、一般人には紛らわしい。無理もない改名といえよう。
しかし本家大塚としては旧軽井沢のようなもので面白くないだろう。後からの町のほうが発展したことを思えば軽井沢より悔しい。

文京区大塚4丁目16番

本郷向ヶ丘弥生町は、新住居表示で根津になりそうになって住民が反対した。弥生式土器にもなった地名をなくしてはいけない、と坂上の文化人は運動し、弥生は残ったが、本当の理由は遊郭もあった根津のイメージを嫌ったからだろう。

先月、お茶大の西を歩いた時、住所が大塚なのに音羽を冠するマンションばかりだった。大塚が閑静な高台で、隣接する音羽が水窪川暗渠の低地であるにもかかわらず、だ。
(別ブログ)

旧本郷区の駒込は、新住居表示のとき豊島区側が既に駒込1~6丁目になっていたから本駒込とした。(駒込自体は豊島区本郷区にまたがっていたから仕方がない)
この地の住民は「本大塚」としなかったから潔い。
落ち着いた街並みを見ると、そんな俗っぽいことは気にしていないように見える。

大塚駅前の変化は目覚ましい。
おしゃれな街に変わりつつある。
ますます大塚といって文京区大塚を思う人はまれになっていく。


別ブログ