2020年5月21日木曜日

大塚三業地と文京区大塚のもやもや

5月17日、コロナ自粛が緩んできた日曜。
大塚駅に来た。

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20200519 大塚駅のビル番号、ダンス大塚会館

新しく変わりつつある駅の周りを歩いた後、谷端川(千川、小石川)の谷を文京区の方に歩く。
2020-05-17 10:50
千川通が山手線ガードをくぐるところ。
50メートル先のブックオフは何回も行った。

千川通は名前が示す通り、白山台地と小石川台地に挟まれた千川の谷を通るのだが、大塚駅のあたりは川岸の少し高いところを通ったようだ。
だから千川(谷端川)の暗渠は少し下ったところにある。
20年前はもっと怪しい雰囲気だった気がする。

10:51 
入り口に大塚三業通りの飾り表示灯あり。
このバッティングセンター、いつからあるんだろう?
生薬の野球チーム・OL学園が強かった1979,80年ころ、決勝戦の前に山本芳邦さんに引き連れられ大塚のバッティングセンターに来た。このあたりだった。

10:53  割烹・千草
三業通りの三業というのは芸者屋(置屋)、料理屋、待合茶屋(場所貸)の3者を言う。これらが集まり芸者遊びのできるところを三業地(花街)といった。当局への届も必要だし、集まらなければならないことから、自然と場所も決まる。

新橋、赤坂、芳町(日本橋)、浅草、神楽坂、向島など有名だが、都内各地にあった。
文京区だと駒込神明町、白山指ケ谷町など。

大塚は1903年(明治36年)に山手線大塚駅が開業、その後2系統の都電も伸びてきて、城北随一の繁華街となっていた。となり池袋の発展は東上線(1914)、西武線(1915)が開業し、その沿線に住宅が広がっていくずっとあとのことである。

大塚は駅と天祖神社の間に飲食店、料理屋が集まっていたが、三業地としては1922年(大正11)、巣鴨町字平松、まだ流れていた谷端川北岸に指定地許可を得た。その後川の両側に店が増え、やがて埋められ道路となる。

大塚は都電沿線の陸軍関係者にも利用され、1931年(昭和6)は芸妓260名、料理屋22軒、待合61軒、置屋68軒とある。

料亭・和可月
いま芸者を呼べるのはここと割烹「松し満」、「うなぎ宮川」の3軒だけとか(2017)

10:55 
和可月のとなり、元料亭のような建物には
「株式会社エコテック」「電空工業株式会社」という表札があった。

古い建物とマンションが混在する。
かつてはすべてこの様な木造家屋が並んでいたのだろう。

10:58 
無人の店舗が多く、隙間を覗けば廃墟のよう。

スナック浮舟のアパートはかつて芸妓さんたちが住んでいたかも。

谷端川暗渠の大塚三業道路も、それらしき建物が絶えた頃、左を見ると寺がある。
11:01 東福寺
山号は観光山。観光という言葉の意味を考えさせられる。
正面が閉まっていたが、横に回ると境内に入れる。
真言宗豊山派。
京都の大寺、東福寺とは関係なさそうだ。あちらは臨済宗。

この辺りからすっかり住宅地になる。
11:04  巣鴨小学校裏の坂
幕末、東福寺はこの坂まであり、西は巣鴨小学校の向こう、千川まで広がっていた。
そこで東福寺坂とする。

なお、住所は大塚なのに巣鴨小学校という。
大正8年、東京府北豊島郡巣鴨仰高西尋常小学校として開校。
戦後、校地の地名(巣鴨6丁目)をとり巣鴨小学校とした。

1969年(昭和44年)まで豊島区に大塚という地名はなく、駒込と池袋に挟まれた広い地域は巣鴨1~7丁目か、西巣鴨1~4丁目だった。
巣鴨プリズン(池袋サンシャイン)、淑徳巣鴨、巣鴨中学・高校など、いまのJR巣鴨駅とははるか離れたところにあるものまで巣鴨がつくのはそのせいである。
昭和7年
まだ三業地には川が流れ、松浦邸、川崎邸がある。

坂の上は閑静な住宅地
この高台は白山台地につながっている。
11:07 
この辺り、戦前まで松浦伯爵邸があった。
肥前平戸の殿様、墓は染井霊園にある。
松浦坂とする。

11:10  松浦石段

11:12
石段を上がると西片にも匹敵する高級住宅地。
豊島区南大塚をみなおした。
本駒込・大和郷より私は好きである。

すぐ先は文京区千石になる。
千駄木の家からこの地点まで2.5㎞。

この家は天理教東京分教会
戦前、松浦邸の母屋があったあたりか。

11:14 
若草保育園で行き止まり
松浦石段まで戻る。
11:17  
高台の上から眺めれば、殿様になった気分ではないか?
 
江戸時代、ここは上総鶴牧藩1万五千石、水野家の抱え地だったから、殿様が住んでいたわけではないが。

再び大塚三業通りまでおり、暗渠道を南下。
11:20  宮坂
5月2日に坂上を通った。
豊島区(左)と文京区の境になっている。
新たに宅地を造成したところだから、まっすぐで広い。都会とは思えない。

11:22
宮坂の下で暗渠(左)と分かれ、平行する千川通(右)にいく。

千川通りを西にわたり、緩やかな坂を上がると文京区大塚。
ここも高級住宅地。
11:32
文京区大塚4丁目19番

これだけきれいな街でありながら、大塚という地名は小日向、目白のような高級なイメージがない。なぜなら三業地を含むJR大塚駅周辺の景色しか浮かばないからだ。

しかし本来、大塚は護国寺からお茶大、東京教育大、その周辺の宅地を含む閑静な土地だった。
山手線ができて駒込と池袋の間、広い巣鴨の田舎に駅を二つつくるとき、巣鴨の他にもう一つ駅名が必要だった。周りは畑ばかりで町がない。監獄(1895)、護国寺は駅名にしにくい。少し離れているが南の宅地が増えてきた大塚を駅名にすることは自然だった。当時は大塚町、大塚窪町、大塚仲町、大塚坂下町、大塚上町、大塚辻町とあった。

住民も喜んだことだろう。
ところが繁華街、三業地ができ、大塚は自分のところでなく北のほうの駅周辺になってしまった。決定的であったのは昭和40年ころから始まった新住居表示。
それまで豊島区巣鴨、西巣鴨であった広い地域が、北大塚、南大塚と正式に改名した。
大塚駅の南が巣鴨6丁目、7丁目、大塚駅の西、池袋とのあいだが西巣鴨では、一般人には紛らわしい。無理もない改名といえよう。
しかし本家大塚としては旧軽井沢のようなもので面白くないだろう。後からの町のほうが発展したことを思えば軽井沢より悔しい。

文京区大塚4丁目16番

本郷向ヶ丘弥生町は、新住居表示で根津になりそうになって住民が反対した。弥生式土器にもなった地名をなくしてはいけない、と坂上の文化人は運動し、弥生は残ったが、本当の理由は遊郭もあった根津のイメージを嫌ったからだろう。

先月、お茶大の西を歩いた時、住所が大塚なのに音羽を冠するマンションばかりだった。大塚が閑静な高台で、隣接する音羽が水窪川暗渠の低地であるにもかかわらず、だ。
(別ブログ)

旧本郷区の駒込は、新住居表示のとき豊島区側が既に駒込1~6丁目になっていたから本駒込とした。(駒込自体は豊島区本郷区にまたがっていたから仕方がない)
この地の住民は「本大塚」としなかったから潔い。
落ち着いた街並みを見ると、そんな俗っぽいことは気にしていないように見える。

大塚駅前の変化は目覚ましい。
おしゃれな街に変わりつつある。
ますます大塚といって文京区大塚を思う人はまれになっていく。


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