2017年6月3日土曜日

渋谷から東大駒場まで

千駄木菜園 総目次


6月3日、渋谷駅に降りた。
何年振りだろう。
池袋はよくいくが、ここは比較にならないほど人が多い。
出来たばかりのヒカリエはめまいがしそうで行く気がしない。
ハチ公前も人だらけ。
三千里薬局はまだあった。
外国人がみなスクランブル交差点で写真を撮っている。おそらく人の多さに感動したのだろう。
そして非常にうるさい。
私が年を取ったからそう感じるのではなく、昔なかった音があるのだ。
街灯につけられたスピーカーから音楽が常に流れているだけでなく、カラオケからドラッグストア、電気店まで、いろいろな店が声を張り上げ呼び込みをしている。
 センター街を歩いたが、40年前にあった店はない。

東急本店を過ぎ、駒場に向かって歩く。
ピーコックはない。
大学構内にあった寮は東の端だったから、渋谷まではこの道をいつも歩いた。

東急本店を過ぎて山の手通りまでの道がずいぶん広くなっている。
上の写真、鍋島松濤公園からの道が右側からきて交差点になっているところの八百宗青果は昔からあった。もちろん隣のコンビニはなかった。
 上り坂になって南側、かつてはコンクリートの擁壁のうえに団地があったが、擁壁が植込みの斜面になり道路も広がった。かつてはこのあたり、よく外国人の子供が自転車に乗っていた。
環状6号、山の手通り。
渋谷区と目黒区の境。渋目陸橋。
ここを越えれば駒場。
左の角がセントラル病院。当時からあるが、あまり病人を見たことがなかった。
渡辺淳一の「無影灯」はこの病院をモデルにしている。

ここから駒場。昭和50年代、ここは舗装されていなかった。
ところどころに大学の敷地が飛び地のようにあったのだが、今は払い下げたのか、ほとんど宅地になっている。
叔父から車を借りてきたとき、ここに駐車した。

かつてはこの道の突き当り、構内の林の中からアカマツの高木が数本頭を出していた。
今は建物しか見えない。
大学の東の端、今の炊事門。

かつての炊事門
(文芸春秋デラックス1977年9月から)

炊事門を入って、この突き当り正面に寮食堂があった。
写真の右に行くと保健センター。風邪をひいたとき解熱剤をもらったら10円で、その金は国庫に入るらしく、たいそう立派な領収書をくれた。

保健センターの裏は藪になっていて、立ち入ることはできなかった。
(禁止されていたわけではなく、けもの道すらなかった)。
あるとき一人で探検しに藪をかき分け入っていくと池があった。落ち葉に埋まり水も汚かった。ほとんどの学生は2年間いてもその存在を知らなかった。私がたまたま知ったのは、寮で暇を持て余していたからである。
棕櫚の苗を見つけ、鉢に植え、3年生になって本駒込のアパートまで持って行った。
当時誰も知らなかった池は、今や一二郎池と名付けられている。
立入困難な遊休地(やぶ)がきれいに整備されて遊歩道までできている。

大学のほうに行く。
自動車部は昔からこの場所。
いつも廃車のようなガラクタがおいてあった。

正面の白い建物は新しい図書館らしい。
以前は一高時代の南寮があり、私のころは教員の研究室になっていた。

矢内原門に向かう道。ここを通って踏切を越え駒場下の商店街に降りた。
上の写真、左の林の中に便所があったな。

駒場寮に関しては、ネットに切ないくらい懐かしい写真がいっぱいある。
寮のあった場所に来ると記憶の景色とのギャップが激しい。
芝生の広場に寮のモニュメントが建っていた。
どうも中寮と北寮のあいだ、イチョウ並木側の通りに面してあった東屋の一部のようである。しかし当時は活動学生の立て看板などガラクタが置かれて、座って談笑などできなかった気がする。

南寮跡地の新図書館
こんな大きな木、あったかなぁ?
向うの図書館の前では学生がガラスに映る姿を見ながらダンスの練習をしている。
食堂の前はテラス席になって一人で、グループで、食べたり勉強したりしている
女子学生が目立つ。
北寮の場所に生協が移転してきて、そのまえでもダンスの練習。
我々にとっては懐かしいものが消えて残念だが、明るく楽しそうな学生をみると、汚い寮がなくなって、その代わりに広い図書館ときれいなレストラン(食堂)ができたことを、みんな喜んでいるのだなと思った。
裏門に向かって歩くと、体育館は残っていた。

下はトレーニング専門の体育館。
これも昔のまま。
各学期の終わり、体力測定はここでやった。
反復横跳び、平均台上り下り。登攀縄は足を使わずに天井まで上がれた。
覗くとウェイトトレーニング機器が所狭しと並んでいた。
当時は真ん中がまだ空いていた。

体育館の裏に回る。上の写真右にも木造体育館があった。
駒場時代の4つの学期のうち一つは卓球をとり、ここで毎週ピンポンをやっていた。
指導は何もなく、教員は出席をとるだけでいなくなった。
私はもっぱら心理学科に行った吉野諒三という男と遊んでいた。ラリーが続かないので、テーブルをオーバーして床に直接落ちた球でも打っていいことにしたら、羽子板のようなピンポンになった。彼はこのルールのない原始的なピンポンを「原始」と呼び、自分の打った(打ち上げた)球が失敗してオーバーすると「原始、原始!」と叫び、私が続けるのを促した。彼の後ろから西日が差していた。

上の写真は寮の裏手になり、左には寮の風呂があった。ここから寮まで雨に濡れないように渡り廊下があった。いま風呂の跡は保育園になっている。

中心部に戻ってきて、イチョウ並木の東端。
かつてこの角には生協があり、一階は一般商品、二階が書籍部だった。西側に別の階段があり、二階に上がるとアルバイト、アパートなどあっせんする学生課だった。
今はきれいに建て替えられている。

駒場博物館
かつて教務課が入っていた。入学のときの記念写真はこの石段だった。二年生の秋に本郷への進学先が決まるが、それが張り出されるのもここだった。
教務課は旧図書館の跡にたてられたアドミニストレーション棟(写真右手)に移り、その建物は博物館になっている。

前回駒場に来たのは2008年。数十年ぶりだった。
この博物館の平賀譲展を見に来たのだった。
もはや駒場寮はなく、ほぼ今の形になっていた。

 時計のある一号館。
語学は4~50人のクラスごとにここで受けた。

 7号館。
自然科学の授業は2クラス合同で、奥の5号館と共にここで受けた。今も同じようだ。
上の写真の左に6号館があり、そこは学生実習の棟だった。
 7号館入り口。

7号館裏、イチョウ並木の裏通りにあたる。
講義が終わって生協食堂や寮に行くときは、むしろこちらの道の方をよくとおった。



テニスコート。向うの建物は駒場小学校。
体育でテニスをとった学期もあった。やはり教員による指導はほとんどなく、ただ友達と遊んでいた。先生のアドバイスで唯一覚えているのは、「上手い人とやらないと上手くなりません」というものだった。
人手がないならテニス部の学生をアルバイトで雇うとか、もう少し技術指導してほしかった。

ここは昔の沢のあとの低地にあり、西門に行く道は盛り土して堤のようになっていた。
土手は高く、東と北は壁のようになっていたから空振りしても球を取りに行くとき便利だった。
15号館?
当時は堤(中央通り)の北側も野球場まで続く低地でテニスコートになっていた。しかし今は埋められ建物が建っている。

それにしても建物が増えた。
95年の地図を見ると、こんなものである。
1995年

(文芸春秋デラックス1977年9月)

航空写真だと緑と土の多さが分かる。
堤(銀杏並木の続き)の北側のテニスコートも写っている。
こうしてみると77年から地図の95年までほとんど変わっていない。
近年一気に変えてしまったということだ。
大学はお金があると森をつぶして建物をたてたがる。
これでは寄付などしたくなくなる。


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