2019年10月12日土曜日

忘れられない人4 荒田洋治、清水博とNMR

台風19号がきて家から出られないので何か書く。
忘れられない人シリーズだが、今回は友人でなく、先方は私のことなど知らない。

・・・・
ファルマシア10月号の記事で、荒田洋治先生が亡くなられたことを知った。
2019年3月5日というからだいぶ前だ。
すっかりサイエンスから離れたからこういう情報も入ってこない。

享年84という。
先生はブログを書いていらして、2011年2月から続く記事が今も読める。
最後の記事は「五代目古今亭志ん生、三遊亭圓朝と対峙する 谷中・全生庵・圓朝忌」 2018-09-14 21:46 
ここ数年読んでいなかったので更新のないことに気づかなかった。

先生は助教授時代がずいぶん長かったことと、生体物質のNMRに関し権威であられたことで知られる。
日本化学会「化学と工業」 荒田洋治1980

NMRは、有機化合物の構造決定に威力を発揮してきた。
1977年に薬学に進学して、チャートから構造を推定する訓練を受けた。しかし原理が今ひとつわからなかった。

すなわち、原子核が吸収するマイクロ波の波長から、各原子の環境を知るのだが、ではなぜマイクロ波を吸収できるのか? 教科書では、スピンをもつ核は磁気モーメントを持ち、半古典的説明では磁場に置かれた核が(ラーモア)歳差運動をし、その周波数のマイクロ波を吸収する。また、量子力学的説明でも、磁気モーメントを持つ核は静磁場でエネルギー準位が(ゼーマン)分裂し、その遷移に伴うマイクロ波を吸収するという。

しかし、なぜスピンをもつと磁気モーメントを持つか?
電荷が回転運動すれば磁気モーメントを持つが(地球の自転など)、しかしESRの電子や1H の核(陽子)は、粒子そのものが電荷であり、電荷が局在して分布しているわけではない。そもそも均一な球ならばスピンという概念すらないではないか?
いや、逆にマイクロ波を吸収するから便宜的に「スピン説」が出てきたのかもしれない。

分からないと不愉快だから、図書館にこもって調べた。
当時(3年生)は午後からの実習さえ出れば講義の出席は自由だった。定期試験はあっても不合格はなかったから、好きなこと、疑問に思ったことだけ勉強すればよかった。

図書館にあったNMRの単行本を何冊か読んでいると、原理のところにH.Shimizuとか清水博という名前が出てきた。学位論文さえ引用されている。
清水先生は我々が薬学に進学する少し前、九大理学部教授から薬学に戻ってこられた。講義は物理化学で、教科書はキッテルの熱物理学だった。助手の方と分担しておられたが、出席しなかったのでどんな講義だったか記憶にない。はっきりしているのは、統計力学とか、たんぱく質の相互作用みたいな話で、まったくNMRとは関係なかったことだ。だからNMRの教科書に清水先生の名前があるのは意外だった。

 
清水博 学位論文

1978年、4年生になって生薬学・天然物化学教室に入ると、天然物の生合成経路が研究テーマとなり、13C-NMRを毎日使うようになった。13Cはシグナルが小さいからFT-NMRの信号を一晩中積算する。夜中に弥生門の塀をこえて谷中のアパートに帰ったり、大学に泊まったりした。
こうなると、もう原理が分からないということに慣れてしまい何も考えずに測っていた。

私のNMRの使い方は合成化学者が構造決定で使うのと全く違い、13C-15N 、あるいは13C-18Oの二重標識前駆体を培地に投与し、カップリングで分裂した13C、あるいは同位体によりケミカルシフトがずれた13C のシグナルを見るもので、目的物質を単離せずに培地そのものを経時的にNMR測定したりした。

ここから荒田先生の名前を知る。
NMRはふつう精製単離した低分子合成化合物を対象としていたが、先生はたんぱく質はじめ生体高分子のNMRを測定され、核磁気共鳴の新しい可能性を示されていた。
荒田洋治・甲斐荘正恒訳 1979 (絶版)

NMRはその後、31Pのシグナルなどから生体の虚血状態(ATP/ADP)を推定したり、MRIなど画像診断にも応用されたり、構造決定以外に対象を生物にまでひろげ、大発展していく。

・・・・
清水先生に話を戻すと、先生の講義は薬学やNMRとは全く関係なかった。
試験も独特だった。
はかりの上に箱をのせ、質量mの虫をNだけ入れたとき、重さはどうなるかという問題が出された。気体分子運動論を応用すれば、圧力は、壁に衝突する前後の気体分子の運動量の変化が力積となるから、その回数分合計し、時間で割ればよい。羽の動きで揚力(虫全体の重さ)が気体分子の力積変化に乗っかり、その分が気体分子の壁衝突での速度、すなわち力積変化を増やすということだ。

予告なしに突然まったく講義と関係ない問題が出されたから、それが分からない者は箱のふたが空いていて風が逃げるかどうか、虫が飛んでいるか壁に張り付いているかどうか、で場合分けしたりして作文の試験のように答案用紙を埋めた。

もう一つは、記憶があいまいだが、エントロピー、エンタルピーがでてくる問題で、脂質二重膜だったか高分子だったか、あるパラメーターの温度依存性を調べる実験を考えろというものだった。数式をいろいろ書いてから、分子を付着させるメッシュ状の電熱線だったか水槽だったか、絵にかいて解答した記憶がある。
そのあと面接があった。
学年全部70人が受けたのか一部だけ呼び出されたのか記憶にないが、教授室で初めて先生と話をした。本人が戸惑うほど答案をほめてくれて「このままアイデアだけにとめておくのはもったいないよ」と実験することを勧められたが、そのまま放っておいたら、そのままになり、配属先も彼の研究室を希望しなかった。

当時清水研では、例えば、アクチンを張り付けた二重シリンダーにミオシンとATPを加えると、回転を始めるという「流動セル」をつくっていた。すなわち化学エネルギーが熱を経由せずに機械エネルギーに変換されるモデルから、生命が化学エネルギーから秩序を作り出す機構を研究していた。しかし当時の私にはその意義が分からず興味もわかなかった。

清水先生のすごさを知ったのは、残念ながら81年に大学を出て就職してからである。
中公新書「生命を捉えなおす―生きている状態とは何か」 (1978)
野口博司さん、駒野宏人君が別々に「良かった」といったので読んでみた。
生きている状態を物理現象として説明しているのだが、万人向けにエントロピーとエンタルピー、自由エネルギーというものを数式を使わずに説明していた。

駒場時代の熱力学では散々これらの数式の変形をやらされたが、今思えば教員がエントロピーなどを完全に自分のものにせずに教科書を講義していたのではないか? と疑うほど、教科としての意義が分からない、つまらない授業だった。
しかしエントロピーをマクロとミクロで分け、確率、情報と関連付ける清水先生の話はすっと頭に入ってきた。
あれから40年近く経った。
2019年、超大型台風の風雨を外に聞きながら、その中公新書を本棚、段ボール箱に探したのだが出てこない。
代わりに出てきたのが
「生命に情報を読む バイオホロニクス」1986
「NHK市民大学講座 生命システムと情報」1987

その後先生は東大を退官した後、金沢工大で「場の研究所」なるものを始められた。
しかし、生命を飛び出し、情報と場、さらには哲学、宗教のほうに思索を広げられ、私の頭では付いていけなくなった。

数年前、福岡伸一が「生物と無生物のあいだ」で動的平衡を持ち出し、メディアの寵児となったが、なぜ今さら、あれほど売れたのか理解不能である。40年前、清水先生の話に接したものには、目新しいことは何もなく、皆そう思ったのではなかろうか。

しかし、天才、鬼才、清水博はだんだん常人では理解できなくなり、メディアに出ることもなくなり久しい。

・・・・
さて、長々と書いたが、ここから本題である。
荒田先生に戻る。

先生とは一度だけメールのやり取りがあった。
ファルマシアに私が「薬学昔々」、彼が「薬学と50年」を連載していた2012年11月。
先生がそのエッセイで清水博先生のことを書かれたからである。
お二人は昭和31年卒業の同級生。
当時の薬学は1学年35人だった。
1974年版だから45年前。
まだ皆さん40歳くらい、この学年は粟津荘司、木幡陽、永井恒司、長野晃三の名前も見える。

荒田先生のブログを引用すれば、
「私たちが進学した薬学科は,100年たっても,旧態依然とした有機化学を中心に回っていた。
 清水博は,授業中も,講義そっちのけでさまざまな本を取り出しては読んでいた。彼は,独力で薬学の全く新しい道を切り拓こうとしていたのである。
 こんなこともあった。あるボス教授の授業中,一人の男が立ち上がって部屋から出て行こうとした。ボスが黙っているわけがない。烈火のごとく怒りを爆発させた。しかし,清水博は,ボスの罵声を後にしてそのまま出て行った。その後,ボスと清水博の間で何があったか知らない。」

博士課程にすすんだ清水先生は薬学には籍だけおいて、調布の電気通信大の藤原鎭男教授の研究室に通った。

「清水博は,藤原研の博士課程在学中に,のちのNMRの歴史に残る何編かの論文を,Journal of Chemical Physics に発表している。ブログのNMR50年 第2部 にその一端を述べたが,一言でいえば,NMR緩和現象を化学の目で体系的に理論付けたことである。
 現在,不可欠の方法として多用されている TROSY 法の基礎となる理論を世界に先駆けて発表したのも清水博,分子の形が回転楕円体である場合の緩和現象への影響を体系化したのも清水博である。
 これら一連の仕事は,1960年代の半ばのものである点に注目しなければならない。私の知る限り,この早い時点で,NMR緩和現象に深く切り込んだ研究者は世界にいない。
 歴史にもしも はないが,清水博がこのまま,その研究路線を発展させていたら,Bloch, Purcell のあとのノーベル化学賞に輝いていたに違いないと私は信じている。 
 しかし,残念ながら,歴史はそのようには進まなかった。
日本のNMRコミュニティーにとっては大変残念なことである。」

そして、荒田先生は

「清水博の何ともいえない底知れぬ大きさに惹かれていた私は,貴殿のNMRの弟子にしてくださいと申し出た。清水博は,
1)自分が下宿している文京区追分町の正行寺第2清風荘にいま部屋が一つ空いているから,そこに引っ越して来ること,
2)日夜勉学に励むこと,を条件に弟子となることを受け入れてくれた。
私のその後の50年の NMR人生が決まった。」

同級生に弟子にしてくれ、と頼む人がいるだろうか?

荒田洋治、清水博、お二人の偉大さが分かるエピソードではないか。

その後、荒田洋治先生はNMRの新しい分野を独自に発展させたが、理学部で教授の下で20年もすごし万年助教授と言われた(講師2年、助教授17年とも)。
いっぽう鬼才・清水先生はNMRの緩和現象を早々に切り上げ、非可逆過程のサイエンスにテーマを移し、生きている状態の法則的理解を求めて未知の世界に進んでいった。

そしてその後は前述したとおりである。

今週はノーベル賞ウィークであったが、清水先生をみると、分かりやすく実用的な成果を上げるには、頭が良すぎるというのは、マイナスになると思った。

(続く)
(別ブログで、お二人のいた向丘の正行寺に行ってみる)

2 件のコメント:

  1. よく覚えておいでですね。勉強になりました。

    返信削除
  2. こんな長いもの読んでくださり有難うございます。
    この年になると消えていく記憶と過去が愛おしくなって、谷中・本郷を歩き古い本を読んでいます。人様が見るなら短くしないと分かっていながら、出てきたものは全て書いてしまいます。

    返信削除