2019年10月15日火曜日

正行寺、清風荘の人々

先ごろ亡くなられた荒田洋治先生は、日本核磁気共鳴(NMR)学会の初代会長を務められた。
先生は学生のころ、同級生の清水博先生に弟子にしてくれ、と頼んだという。
もちろん清水先生も学生である。薬学に籍をおいたまま、電気通信大学でNMRの独創的、先端的研究をされていた。

清水先生は、
(1)一生懸命勉強すること、
(2)空いていたご自分の下宿先の隣の部屋に引っ越してくること
を条件に、同級生を弟子にした。

その下宿というのが駒込追分町の正行寺第二清風荘であったことは、先日、ブログに書いた。
追分町の正行寺は、新しい住居表示で文京区向丘1-13-6となった。
台風19号が過ぎ去った10月13日、その正行寺に行ってみた。
歩くと15分くらいかかるから自転車で。
咳に霊験あらたかな「とうがらし地蔵」があるそうだ。

左が地蔵堂

敷地の東、本郷通り沿いにはマンションがそびえる。
ご住職の家もあり、挨拶してお話を聞きたい気もしたが、ピンポンして呼び出すのも悪い気がして、そのまま静かに見物させてもらった。
2019-10-13
本堂裏に古いアパートがある。
二棟がならび、第一清風荘という看板があった。
すると左側が第二清風荘かとおもったが、郵便受けを見ると二棟合わせて1階が8室、二階が8室になっていて、すなわち二棟で第一清風荘と言うようである。
部屋はトイレ、台所と6畳くらいだろうか。
どうみても荒田先生、清水先生の住んでいたアパートより新しく、高級である。

実は、この清風荘、ひょっとしたら大学時代の友人、辻申三郎がいた下宿ではないかと思って来た。
本郷通りの向こう側で、窓の下がお墓というのも合致するからだ。

辻は駒場時代に古典ギター愛好会で知り合った。
大学二年の時、クラスに神立禮次、田中淳二と、クラシックギター愛好会のメンバーがいたこともあり、全く弾けなかったのに入部した。

しかし、ギター部の部室(戦前のコンクリート製の遺物)では辻とほとんど会ったことがなかった。ギターを抱えている姿も記憶にない。確か金沢大付属高校出身。
彼は奇術愛好会にも入っていて、常に十円玉を指先でいじっていた。
本郷に進学して彼の下宿先に何回か行った。
2019-10-13 間の通路の向こうはお墓

40年前、木造の大きな建物で、靴を脱いで上がると、真ん中に大きな板張りの廊下があり、両側に部屋が並んでいた。彼の部屋は二階で、引き戸をあけるといきなり4畳半の部屋だった。カギは、昔よく小窓などに使われた真鍮の棒を入れて回すだけのもので、すなわち内側からはかけられるが、外からはかけられない。
辻は何も盗られるものがないからカギは要らない、と言って敢えて市販のカギをつけることはしなかった。でも寝ているときに誰か来たら怖いからと、居るときは内側からかけた。

もちろん部屋に電話はなかったから、大学から谷中に帰る途中など、予告もなしにふらりと立ち寄った。留守ならばカギが開いているから中で待つ。

本当に部屋には何もなくて、座って脇の高さに窓があり、下はお墓だった。
その窓の高さに合わせて、別冊少女フレンドと別冊マーガレットがびっしり積んであり、それを読みながら食事か風呂に出掛けている彼を待ったものだった。

伊賀のカバ丸「ふんどバッグ」プレゼントに応募したのは、彼の影響である。

さて、現在の清風荘は結構古いが、どうみても辻のいた下宿ではない。
40年前だから建て替えたのではないか?
幸い、国土地理院の公式サイトで昔の航空写真が見れる。

まず、現在の清風荘をグーグルでみてみる。
2019
日本医大前の通りと本郷通りの交差点のすぐ南。
中央やや左(西)寄りの赤いしるしが正行寺。
正方形の灰白色が本殿。その北西に第一清風荘の茶色の屋根が見える。
階下は二棟だが、屋根は1つにつながって見える。

1974-78
正行寺の本殿ははっきり分かる。
その裏に建物があるが、明らかに向きは東西方向で、現在の南北方向ではない。
やはり建て替えられたのである。

ついでに清水、荒田先生の時代をみてみると、もっとよくわかる。

1961-69 
「+」字のすぐ西の樹木があるところが正行寺。
真ん中の白いのが本殿。その西北に東西方向に長い建物があり、二棟みえる。
これが第一、第二清風荘ではないか?
そして、辻申三郎は清水先生、荒田先生と同じ下宿だったのではなかろうか?

彼に確認したいのだが連絡するすべがない。
記憶では法学部を出たあと、新日鉄に就職、大分の製鉄所で人事管理をしていた。
古い住所録で東京府中の新日鉄独身寮の住所をみつけたところまでが限界。

私のことを覚えているだろうか。
手品は上手くなっているだろうか。
新日鉄はちゃんと勤めただろうか。
もう63才だが元気だろうか。

・・・
別ブログ

4 件のコメント:

  1. 辻申三郎、懐かしい名前を発見しました。

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  2. 彼は団子坂下から徒歩1分のアパートの2階に1978年4月から1980年3月まで住んでいました。清風荘ではないと思います。部屋の状態はおっしゃる通りで、彼が不在の時は鍵がかかっておらず電気がついていました。彼はカクテルにも凝っていて本棚に酒がいっぱいありました。卒業後、新日鐵の清明寮、府中寮、浜田山寮までは連絡を取っていましたが、その後音信不通になりました。一度彼に会って積もる話をしたいですね。

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  3. そうですか。時期は間違いないですね。私は向ヶ丘あたりの誰かのアパートと混同しているのでしょうか。少女漫画は間違いないのだけど、窓の下のお墓の記憶は自信がなくなってきました。ありがとうございます。彼はどうしているのでしょうね。8年前に引っ越してきて昔の記憶を引き出しています。

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  4. そうだ、彼の1980年の住所がわかりますか? 現地に行けば私も思い出すかもしれません。

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