2020年3月24日火曜日

谷中墓地4 東大・千人塚と土井利与墓

3月22日、三連休最終日、コロナで遠出、イベント自粛は続くが、慣れて来たのか、テレビでは上野公園を歩く花見客を写していた。
ダンス練習場、日暮里ファーストプレイスは通常通り営業している。
そのまえに駅の反対側、谷中墓地に立ち寄った。

なお、谷中霊園というときは都立霊園をさし、寛永寺墓地、天王寺墓地をあわせて谷中墓地という。
2020-03-22 16:27 谷中墓地 七分咲くらい?

せっかく来たのでいつも歩かない西側の天王寺墓地にお邪魔する。
墓地の出入り口、すなわち日暮里駅さらには根津や上野、観音寺築地塀、芋坂、御隠殿坂に行く通り道ではないので普段通らない。
いつものように何の目的もなく墓石を見て歩く。
この区域は40年前一度くらい入ったかもしれないが、千駄木に引っ越してからは初めて。

急に広いところに出くわした。
近づくと東京大学医学部 納骨堂とある。

16:31
ドームと尖塔は朝倉彫塑館やウエムラショウゾウのある銀杏横丁からも見えていた。
しかし前に立つのは初めてかもしれない。
お彼岸だから生花と天王寺の桶がある。

ふと東隣に古い石塔があった。
16:36
大きく「千人塚」とだけ書かれた石塔が3本

中央の塔の横
明治三年十月至十三年九月在東京大学医学部〇剖觀屍體計一千有裨益于医学不為鮮
仝?十四年六月建石于其埋廃之處以表之
東京大学医学部総理正五位勲四等 池田謙斎題
東京大学医学部解剖学教授 田口和美記

最初の解剖が行われた明治3年は大学東校と呼ばれていた。
7年、東京医学校、
9年、神田和泉町から本郷に移転
10年、開成学校と合併、東京大学医学部。
19年、東京帝国大学医科大学となった。
(だから左の塔、下の写真では医科大学となっている)
3塔の向かって左は
明治十三年九月至二十一年九月、剖觀屍體計一千有裨益
右は
明治二十一年九月至三十七年八月 剖觀屍體計一千有裨益

つまり、千人塚の文字通り、解剖された人の骨を千人ずつ埋めたのである。
最初の1000人は10年、次の1000人は8年、次の1000人は16年。
16:46
3つの塔の右手前に小ぶりの塔があった。
明治三十七年八月十七日より大正14年まで862体。
そのご、西側の大きなドーム型納骨堂に収めたのであろう。

彼岸のときだからか、草もなく清められていた。

なお、順天堂大学の解剖供養塔は吉祥寺にある。(別ブログ)

東大納骨堂の南に大きな墓があった。
大きく戒名しか彫ってないので誰だかわからない。
16:50 
裏に回ると、右の墓は
子爵土井利與 昭和四年一月二日薨享年七十九 とあった。
子爵は小藩の大名、「利」の字、昭和4年で79歳なら、下総古河の最後の藩主だろう。

帰宅後調べたらの確かに土井利勝以来の宗家14代目である。
しかし8万石だったから伯爵でもよかったはずだが。

明治以降も本駒込の古河藩下屋敷跡(駒込曙町、別ブログ)に屋敷をたて住んでいた。明治42年の地図で中山道を挟み酒井邸と斜めに位置している。

ウィキペディアを見たら墓所は古河市大手町の正定寺とあった。あちらが正式なのだろうか。
2020-03-22 16:54
午前中畑仕事をしたので疲れが残っている。
余り歩くと練習できないので切り上げた。
練習場は地下2階、みな激しく動き回っているから誰か一人感染していたら全員うつるだろうな。

別ブログ
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