2017年6月11日日曜日

駒場3 ケルネル田圃と駒場東大前商店街



先週、駒場に来たとき(別ブログ)、駒場野公園には寄れなかった。
しかし6月11日、たまたまダンス競技会が駒沢体育館であったので、池尻大橋で降り、玉川通りから再び駒場へ。

さて、荒井由美の飛行機雲を聞くと、皆さまざまなシーンを浮かべると思うが、私の場合は、
  白い坂道が~空まで続いていく~

は、玉川通りの東邦大病院入口から淡島通りに上るこの坂である。


1975(昭和50)年、大学1年の時、駒沢公園の南、深沢で家庭教師のアルバイトをした。
当時、田園都市線はできておらず、深沢まで行く東急バスに、この坂の下の停留所で乗り降りした。
上り下りしたのは常に夜だったが、昔はもっと木が多かった気がする。


坂を上って淡島通りを駒場高校を見ながら西に歩き、右折、井の頭線、東大駒場前駅(西口)に降りる。
途中、公務員宿舎があった。廃墟になっていた。
ここも大学2年の時、家庭教師のアルバイトをした。
父親は京都大学卒のキャリア公務員であったのだから自分で教えればいいのに、と思ったが、家族はだめだというのは今になってわかる。
駅西口近くの三角地帯の東側。ここにスナックがあった。寮の先輩と一緒に何回か来た。サントリーホワイトの瓶を思いだす。たばこを初めて吸ってみたのはここだった。
そばやの満留賀はきれいなビルになっていた。
大学への入口も整備されていた。
もっとも、ここを利用するというのは、2号館から駅西口に出る場合だけだから、私は使ったことがなかったが。

さて、駒場野公園に入る。
ケルネル田圃は田植えが終わっていた。

1975,76年、井の頭線の窓から見た気がするし、下北沢から寮まで何回か歩いてきたとき、すぐ近くを通っていたはずだが、一度も入ったことがなかった。
東京教育大農学部が閉学、筑波に移転したのが1978年、公園として解放されたのが86年というから、当時は入れなかったのだろう。

この碑文にある昭和62年というのは1987年。
教駒のち筑駒(中高)が1947年(昭和22年)、旧制東京農業教育専門学校の附属として始まったことはあまり知られていない。
東京農業教育専門学校は49年に教育大農学部となり、付属中高は52年に教育大付属になったというが、この3年のずれは何だろう?

ケルネル田圃の管理は伝統として筑駒の生徒がやっているらしい。
農業とか生物学は、医学、ロボットや物理などより一段低く見られるが、東大への進学率がトップ、高い偏差値の子供たちが、本当に農業が好きであったら、素晴らしいと思う。しかし、彼らはやはり他に楽しいものを見つけてしまうだろう。
森が思ったより深い、いい公園である。
やっぱり目黒区駒場はいいなぁ。

ケルネル田圃の沢は、地形的に、駒場駅西口改札付近を経て、商店街に続いている。
私がいた当時の店はもうない。ここらにあった雀荘はなんて言ったかな、ボン?。
私の寮の部屋では麻雀禁止だった。麻雀を許したら、同室の友人の知人の友人、といった色々な(知らない)人が出入りすることになり、同居人の生活が不快になるからだ。
商店街の南を平行する裏通りに、かつて喫茶店があった。

窪田さんといって、戦時中は戦闘機のりだった。終戦時20歳としても昭和50年ならまだ50歳である。その当時でもセスナ機操縦のライセンスをもっていらした。
店の二階に机を並べ、マンツーマン方式で家庭教師のように教える塾もやっていらして、たまに頼まれた。終わると階下の店でおいしいカレーとミルクティーをごちそうしてもらった。

よく一緒にカレーを食べたのは菅野恒裕さんという1年先輩の人だった。小食で、表情を変えず、物静かで、いつも難しい(文系の)本を読んでいらした。しかしなかなか本郷に進級されなかった。私と同じ学年になっても進学しない。頭が良すぎて既存の学部、コースには興味がなかったのだろうか。しかし気まぐれのように翌年、薬学に来られた。当時、薬学部はどんなに勉強しなくても、試験を受けなくても、1年病欠でもしない限り、ところてんを押し出すように卒業させるのだが、彼は長い歴史上はじめて?留年された。4年の時の配属教室は、鬼才、清水博先生の製造工学というのが菅野さんらしかった。帝京大に就職されたことは分かったが、その後の消息はネット上にない。

また、この窪田さんの喫茶店は、昔、5つ子で有名になったNHKの山下頼充氏、田中秀征氏らのグループが入り浸っていたらしい。私より14年ほど上である。

2008年5月、久しぶりに訪ねたとき窪田さんはお元気で再会を喜んでくださったのだが、2017年のこの日、店はなかった。
あれから42年、終戦時20歳としても、今92歳、亡くなられたか。
店名がどうしても思い出せない。悔しい。
矢内原門から階段を下りる東側に山口屋があった。
たいてい最初のクラスコンパはここでやった。一高とともに本郷向ヶ岡から引っ越してきたと聞いたが、いまはアパートになっていた。

踏切を渡り矢内原門方面。
この西側に防火用の池があり、そこにウシガエルがいっぱいいた。
生物学実習は解剖で一人1匹あたえられたが、ここから捕まえてくるのだと噂があった。毎年何百匹も必要だから業者から買ったのだろう。

帰りは先週同様、疲れながらも渋谷まで歩いた。
ふと、109の向かい、地下の旭屋書店はどうなったかのぞいてみた。よく来た店だ。
そうだ、2007年にBookファーストになったんだった。
降りてみると、その店さえ2017年6月(つい最近じゃないか!)閉店したという張り紙があった。
昭和は遠くなりにけり、である。

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