2018年1月17日水曜日

細井医院と吉丸一昌、金の星ハウス

根津裏門坂から団子坂上をへて駒込動坂上まで、江戸時代から尾根道があった。
現在、団子坂上から南は明治時代と同じように藪下通りというが、団子坂から北は保健所通りというつまらない名前になっている。

我が家の近くを通る保健所通りの写真を示す。蛇行が古さを物語る。
2018-1-17

引っ越す前、リフォーム中の2012年秋、写真、道の右側、ごみ置き場あたりにポリスボックスがあった。
民主党政権の財務大臣を務められた家である。

このあたり、旧町名で言うと、ちょうど私が立っているあたりまで千駄木林町で、ここから先は駒込動坂町といった。明治以来有名人が多く住んだところであるが、我が家のそばだけ書いてみる。

357
その元財務大臣の家の向こう(隣)、本郷区駒込動坂町357番地は、
吉丸一昌邸。1873(明6)臼杵に生まれ、五高を経て帝大国文科、府立3中(両国)で国語教師、芥川龍之介も教えているようだ。1909年東京音楽学校教授。小学校の音楽教科書の編集委員となる。
彼の作詞で最も有名なものは『早春賦』(春は名のみの風の寒さや~ 作曲は中田章)である。
大きな屋敷だったらしい。もちろん今は違う標札。隣は洋画家の長原孝太郎の家だったというが(谷根千20号)、356か358か分からない。
1916年、44歳のとき心臓発作、向かいの細井医師が駆け付けたが急逝。


359
357番地の真向かい、上の写真、手前の植木のあるところ、359番地には金の星ハウスがあった。大正時代、初代編集長に野口雨情を迎え、新しい童話、童謡を発表した「金の星」の発行者、斉藤佐治郎が建て、一時、会社もここにあった。

361
一軒おいて、361番地はファーブル昆虫館。丸い屋根が特徴的、繭の形をイメージしているらしい。ファーブル昆虫記を翻訳された奥本大三郎氏の家だったが、彼は別にも家があって、2005年ここを昆虫館にされた。

362
その隣、動坂町362番地は細井医院。
鴎外森林太郎家のかかりつけ医であったから、 於菟、茉莉など見てもらっていたことが活字になっている。もちろん宮本百合子の中条家も世話になった。

2011年、私が家を見に来ていたとき、細井医院は看板に白いペンキが塗られ、廃業された後だった。おばあさんともう一人初老の男性が住んでいたようであるが、顔を合わすことがなかった。
しかし引っ越した年の2013年10月28日、偶然おばあさんが玄関から出たところに出くわし、あいさつした後、思い切って聞いてみた。鴎外森家のことである。

そうですか、主人の祖父のころでしょうかね? 
私は和歌山から嫁に来たので何も知りません。
孫の一人は医者になりましたが・・・・医者はなるもんじゃありません。
人様の命まで心配しなくちゃなりません。
昔は主人とよく重い鞄をもって上野まで行きました。
仲間の人が迎えに来て、蓆を敷いて寝ている人の診察に行くのですが、お金はもらえないし、ずっと貧乏でした。主人は動坂の下から養子に入ったのですが、そのお父さんは「申し訳ないことをした」とずっと言っていました。
今は娘の知り合いが一緒に住んでいてくれていますが、この人もお金に縁のない人で・・・

石の塀を褒めると
「転んだらぶつけて顔に怪我してしまい、この塀にも困ったものです」

彼女をお見かけしたのはこれが最初で最後であった。
2014-10-27 旧細井医院
写真のように3年前は看板、表札、庭に緑もあった。


Goo地図、明治40年

362の細井医院と363番地の間、未舗装の私道を入って二軒目が我が家である。
この入口には大きな銀杏の木があったのだが、2015年3月21日に切られた。大きな切り株がごみ置き場の目印のようになっている。
2018-01-16 右が旧細井医院
2012-08-06

さて、359番地に戻る。
尾張屋版江戸切絵図(国会図書館)

 
 
364
359番地と25番地の間(いまの表示だと千駄木5-46と5-49の間)、左に入る細い道がある。この道も江戸時代からある。(酒井安芸守の屋敷前から「植木屋多し」と書いてあるほうに入る道)
その入った先、359番のとなりが動坂町364番地。
ここには北原白秋(1885ー1942)がいた。明治42年から大正7年までここに8年間住む(文京区HP)とあるが、途中、牛込、小岩の方にもいたようである。動坂の反対側92番地の佐藤春夫、また動坂を降りたところ(田端)にいた室生犀星らと行き来した。

右が364、その向こうが保健所通りの359番

この364番地には成田為三(1893秋田 - 1945)もいた。
鈴木三重吉が訪ね、西条八十が書いた詩に作曲を依頼したと「谷根千」19号(1989)にある。
成田は、浜辺の歌、赤い鳥小鳥、かなりやなどを作曲。北原白秋とともに、すぐ隣の「金の星」ではなく、「赤い鳥」で活動したのは面白い。

金の星の動坂町359番地から現在私のいる365番地まで一区画なので、今の住居表示では千駄木5丁目46番になった。(363番だけは千駄木5丁目45番)
車社会になる前、畑のあぜ道のようなときに家が建て込み、今や救急車も入れない。建て替えの時にセットバックはするが、このあたり借地などが多く、なかなか建て替えは進まない。

368
ついでにいうとお嬢様の中条百合子が昭和7年2月、宮本顕治と結婚、新居を構えたのは我が家の前の前、動坂368番地である。しかし共産党への弾圧が激しいころで検挙、釈放が繰り返される中、10月四谷区東信濃町の借家に転居した。

市電が本郷通りを駒込富士前まで伸びたのが1917(大正6)年6月
同じく不忍通りを上野から動坂下まで来たのがこの年7月。

当時は豪邸もあったが貸家も多く、引っ越しが簡単だった。
電車のない時代は、芸術家や作家は歩いていける範囲に集まった。
その一つが田端、動坂だったり本郷、谷中、根津、千駄木だったりした。


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