2018年1月28日日曜日

3日違いに生まれた従兄のこと

1956年7月22日にいとこの彼は生まれた。
母の妹の長男。
その三日後に私が母の長男として生まれ、柳沢の祖父母はこの夏、健康な二人の初孫に恵まれた。

叔母の嫁ぎ先は実家と同じ柳沢だったから、母の実家に行けば、必ず近くの彼の家に行ったり彼が祖父母の家に来たりして、いつも布団を二つ並べて寝た。
まるで双子のようだったらしい。

平坦で畑と田んぼしかなかった岩船と比べ、柳沢は高社山の西側斜面にあり、大きな木々と坂道と石垣、池の多い部落で、すぐ近くに夜間瀬川と千曲川の合流点があり、子供にとって天国のような場所だった。

小学生時代は休みがあると長期滞在した。
母の実家も、彼の家も叔父叔母は優しく、2人して小遣いをもらっては、狭くて急な石段を、苔むした石段に両手をつきながら登って右にあった駄菓子屋?よろずや?でいろんなものを買った。チューブに入った練チョコとか、ベビーラーメン、ストローに入った薄荷、(あのピンクの甘い)でんぷ、味付けイカ、風船ガム、虫取り網とか・・・パラソルチョコは、取っ手のところに円盤がついていて吹くと回る。たとえば表に鳥、裏に鳥かごが描いてあって、吹くと鳥が中に入るものとか。
ラーメンにチューブのチョコを入れたとき、彼に、もったいないと怒られた。

夜間瀬川には木の橋がかかっていて、二人でぶらさがって懸垂の練習をした。
たまに通る自動車は、横板をガタガタ音をさせながら過ぎ、板の端に置いていた釣り道具が振動ではねて川に落ちてしまった。河原では珍しい石を探し、ところどころにある水たまりで小魚をつかまえた。塩辛トンボとアゲハが飛び、巨大な蛇が日向ぼっこしていた。

近くを長野電鉄木島線が通っていて(2002年廃線)、忍者のようにレールに耳をつけて電車の音を聞こうとした。

柳沢のお宮は岩船より大きく、大きなケヤキが鬱蒼と何本もあった。
お宮からの坂道は下に向かって走ると止まらなくて、二人で止まれないほど速く走る競争をした。

祖父母の家は北の部屋の裏にも池があって、涼しい風が入った。ユキノシタが生え、モミジの葉が浮かんでいた。昼寝のとき蝉がうるさかった。
かつて蚕を飼っていた二階は物置になっていて、母親たちが書いた絵や作文を二人で見た。

冬は寒かった。
信州中野の北から飯山、信越国境にかけては、一里一尺と言い、4キロ北へ行くと雪が30センチ増える。岩船と柳沢は6.7㎞離れている。
彼の家に泊まった朝、出された生玉子を割ったら凍っていた。
スキーもよくした。
急斜面も緩斜面もいたるところにあり、二人して滑っては登り、登ってはすべる。

私の弟は4歳下、彼の弟は10歳も下。
彼と私は、明らかに実の兄弟よりも近かった。

彼は定期購読してもらっていたのか家にマンガが一杯あって、少年画報だったか冒険王だったか少年マガジンだったか。
ゼロ戦のテレビアニメを二人で見たな。今調べたら、『大空のちかい』『紫電改のタカ』『ゼロ戦レッド』『あかつき戦闘隊』などはアニメ化されていないので、『0戦はやと』である。砂浜で長靴に水が入るのを見て、敵艦の煙突に爆弾を落とす作戦を考えた場面が、彼と共に思い出される。主題歌は記憶の彼方から出そうで出てこない。

茶の間でよく彼と相撲を取った。力いっぱい投げて、投げられた。
「ツトムは岩船でもこんなことをするのか」とあきれた祖母に言われた。
岩船の祖父母は怖くて、とてもそんなことはできなかった。彼が私の家に泊まりに来ることはなかった。

中学になると、お互い自分の学校の友達と遊ぶようになり、長期滞在はなくなった。
彼は勉強だけでなく、スキーも得意だった。牧の入りスキー場で行われた中野市の大会で優勝したのではなかったか。一人で志賀高原に行くこともあり、柳沢から電車で中野駅まできてバスに乗り換えるとき、叔母から私の母宛に預かった手作り「やしょうま」を私が駅で受け取ったこともあった。彼が板や靴を新しいものに買い替えると、お下がりをもらった。小学校の時は大して差はなかったと思うのだが、スポーツはかなわなくなった。

当時、北信の普通科高校は、長野、須坂、飯山にあった。
彼は成績は良かったのだが、中学サッカー部の仲間と一緒にいく、と飯山北高校に進んだ。
冬の雪に苦しむ柳沢の人々は、就職も進学も
「上(カミ)のほうに行かなくちゃだめだ」
という。それに逆らって下(シモ)の飯山に行った彼は、よほど中学、サッカー部が楽しかったのだろう。
もう一つの理由は、高校になって久しぶりに彼の家で並んで寝たときに分かった。
アルバムには、ガールフレンドと一緒の写真が一杯あった。卒業式のあと中学の校門や並木のところで学生服とセーラー服の二人は、ポスターのように遠くを指さすポーズなんかとっちゃって。彼女は飯山北ではなくて女子高のほうの飯山南高校だったかもしれない。

高校3年になると二人の関心(心配)ごとは、異性の問題(私は誰もいないことが問題)と大学入試だった。
長野高校と違い、飯山北は旧制中学の後身とはいえ、進学実績はいまひとつ。
夏休みに泊まりに行くと(母の実家に行くのだが、結局彼の家に行ってしまう)、彼は英語のノートを見せてくれた。飯山北から信州大学に進んだサッカー部の先輩に心酔していた彼は、見開き左ページに旺文社「英文標準問題精講」の全文をきれいに書き、色鉛筆で線を引いて、右ページに訳や注意事項を書いていく。
私はおなじ「英標」を使っていたが、横着で、先に訳文を読んでから英文を見るだけ。ノートなんて書かない。きわめて不真面目な、怠け者の勉強方法だったが、私のほうがすぐれていると思った。
彼のやり方ではなかなか進まないから飽きてしまうだろう。つまらない受験勉強はいかに飽きないようにするかが重要だ、と彼と議論した。

私は現役で合格し、彼は浪人が決まった。
二人とも東京に出るまえの3月、また彼の家に泊まりに行った。
このときは飯山北高の友人たちも来て、一緒に夜通し話しこんだ。彼らは一人異分子の私でも気持ち良く受け入れてくれた。青春とか親友とか、彼の周囲にそういったものを感じた夜だった。彼は中学に続いて幸せな高校時代を過ごしたことが明らかだった。

この滞在中、私は彼の家から、中野高校を卒業する畑さんに電話をかけた。彼女は秋の文化祭で知り合い、やはり東京に進学することになっていた。家が洋品店だったから電話番号はすぐわかり、東京での住所を聞いた。
その夜、柳沢で火事があり、二人していったらまだ消防団が来ておらず、初めてホースをもった。水浸しの斜面で滑ってころび、合格祝いに中野で一番オシャレな春日(カスガ)洋品店で買ってもらった服が泥だらけになった。

翌月、私は駒場寮に入り、いっぽう早稲田にあこがれる彼は早稲田予備校に決め、京王線代田橋のアパートに入った。二人とも落ち着いた5月ころ、彼のアパートを訪ねた。改札を出るといきなりごちゃごちゃした路地。そこを抜け、甲州街道を渡って、車の入らないような細い道の住宅街を行くと、アパートがあった。
部屋にはセミヌードのポスター。
ぎざぎざのあるスプーンがあった。グレープフルーツを食べるためのものというが、未開封でまだ使われていなかった。リンゴ・桃・ブドウ、果樹園農家に育った私も彼も、グレープフルーツを食べたことがなかった。
その日の夕食は近くの肉屋でとんかつを買ってきてご飯を炊いた。
1975年である。

久しぶりに二人並んだ寝物語で驚いたのは、私が高校通学時に、電車でかわいいなぁと憧れていた須坂東高校の壇原さんが、彼と付き合っていたというのだ。湯田中から南へ須坂まで通う彼女と、柳沢から北へ飯山まで通う彼にまったく接点はない。いったどうやって仲良くなったのだろう? 聞いたはずだが、今思い出せない。

彼が駒場寮に来た時もあった。
冬だった。なぜか私の友人と一緒に麻雀がはじまり、すでに予備校仲間と始めて面白くなっていた彼は、受験直前というのに徹マンした。

1976年、彼は再び早稲田に落ち、明治に行った。
田畑はあったが、父上が土建会社をおこしていたこともあり、建築科だった。
あるとき電話がかかってきて勉強教えてくれ、という。代田橋のアパートに行くと線形代数だった。定期試験の前に大学で初めて出てきた行列式の意味や使い方が分からないという。

私も1年前に苦しんだ。大学の先生は「分からないほうが悪い」という教え方だったから、独学して適当なところで自分を納得させていた。
そのとき苦労して私なりに理解していたことを教えたら、非常に感謝された。

翌年彼は生田の大学キャンパス近くに引っ越した。
狛江のアパートにも一度行ったが、代田橋のときと違ってまったく部屋の記憶がない。
お互い、長野を離れ、別々の世界を進み始めていた。
彼は卒業後、長谷川工務店に就職、社会勉強した後、柳沢に帰り、父親の会社に入った。

その後、私が帰省したとき、柳沢で泊まったのは1回くらいだろうか。
車が運転できるようになって、わずか10分くらいだから泊まる必然性がない。
大人になるということはつまらないものだ。

そのうち二人とも家庭を持って、家族中心に動くようになってからは数十年も経つのに2,3度しか会っていない。彼からは毎年家族旅行の年賀状が来た。私は書かないからメールで近況を送るのだが、田舎の人らしくメールに返事が来ることはなかった。

父上の後を継いだ高社建設はオリンピックのあと景気が悪くなった。それでも、二人の子供を東京の大学に出した。都会からお嫁に来た奥さんも苦労しただろう。叔母が畑をやっていたから、慣れない野良仕事も手伝っていたようだ。

一昨年暮れ、つまり13カ月前に久しぶりに会った。
柳沢は岩船よりはるかに多い雪の中だった。
彼は元気だった。

どうして死んだのだろう。

第一報は、1月26日金曜の夜。岩船の母から妻が受けた。
死因も、通夜、告別式の日程も、詳しい様子は分からず、「その日は雪下ろしをしていたのに」とだけ聞いた。
翌土曜、岩船に電話しても、何も情報入らず。
脳梗塞で少しぼけた母からの誤報ではないか、とちらりと思う。

その間、あまり悲しい感情は湧いてこず、私は仕事をし、日曜、ダンスの競技会に出た。
終わったらすぐ行けるよう礼服を持って行くことも考えたが、持たずに行ったのは薄情な人間なのだろうか。
競技会場にいるとき、岩船の弟から告別式は月曜13時という連絡がきた。
やっぱり本当だったか。

急いで家に帰った。
しかし冷静に考えれば、今晩行くのは弟夫婦の迷惑になる。
記録的大寒波の中、食事や布団の用意、母が不自由になってから弟の嫁さんに負担はかけられない。
明日の朝一番の新幹線に乗れば、岩船に10時前につくだろう。焼き場へ行く前の顔を見ることはあきらめた。

迷った末、明日行くと決まったらすっかり落ち着いて、妻に彼の話をしてあげた。
そうしたら突然涙がわっとあふれそうになって、慌ててごまかして、話すのを止めた。

あす、彼の母や、柳沢の叔父叔母たちと会う。
私が知らないこと、忘れている彼とのエピソード、一緒だった昔のころをもっと話してくれるだろう。
でもそうしたら書けなくなるかもしれないから今書いた。





0 件のコメント:

コメントを投稿