弟夫婦と根津はん亭を出て池之端を歩く。
かつて都電は、ここから不忍通りを離れ専用軌道で池の東をまわり、上野公園の山下を通って広小路に向かった。
軌道の跡は鴎外荘の前の道ではなく、今は動物園の一部になっている。
以前は車両の展示はなかったと思うのだが、荒川線で廃車になったものをもってきたのだろうか。
写真正面の高層マンション(ザ・ライオンズ上野の森)の場所には国鉄共済組合の弥生会館があった。
組合員向けの共済施設(保養、宿泊)であったが、宴会場は一般人も利用できた。
40年前、何回か前を通り、レストランも気になったが、機会なく就職、この地を去った。
2000年5月20日、三川先生の二回目の退官(富山大)に際し生薬教室のパーティがここであった。終わって平尾と雨の中上野駅まで歩いた。
昭和38年の航空写真を見ると、この場所は何やら樹木の多い屋敷らしきものがある。
江戸時代はこのすぐ近くまで池で、舘林藩秋元家の屋敷だったが。
さて、この日は、弟が見たいという横山大観記念館にきた。
大観は府立中学(現日比谷)を卒業後、明治18年英語学校に入学し当初は画家志望ではなかった。しかし明治21年進路を変更、東京美術学校第一期生となっている。
9/30の台風で塀が倒れ、まだ工事中。
ここだけなぜ? 両側の高いビルの影響もあったか?
横山大観といえば、美術学校を排斥され日本美術院を設立した岡倉天心を慕って、菱田春草(信州飯田)らとともに、茨城五浦という当時の大田舎まで移り住んだことが思い浮かぶ。
天心は画家ではなく教育者か評論家のように思えるが、大観、春草が彼を慕ったのは、日本画に新風を吹き込んだため、中央主流派に認められなかったからであろうか。
そのあたり、なにか分かるかなと入ってみた。
中は撮影禁止。敷地は400坪。
明治41年からこの地に住み、昭和20年の空襲で家屋焼失、29年に新居再建、33年に90歳で没するまで、ここに住み、作品を制作した。
ほとんど米を食べず、酒ばかり飲み、肴は少量の野菜だけだったという。
これで90まで生きては、栄養学も意味がない。
部屋数は思ったより少なかった。
一人で来て畳にじっと座って庭を眺めている人など、熱心なファンが多そうだった。二階の画室からは不忍池がよく見えた。昔は不忍通りも狭かっただろうから、水面と木々はもっと近かったであろう。
大観の生活を想像するには旧居のほうがよいが、分かりやすい資料展示には新しく広い建物の方がよい。土曜日で人も多く、落ち着いて展示を見る気分になれず、退出した。
記念館を出て弟夫婦は上野駅に向かい、妻は家に向かい、
私はひとり池之端を歩くことにした。
清水坂
レンガの建物は都電の変電所だったが、そののち同じ都営の動物園の倉庫となった。
段ボールを見ると
納品先:(財)東京動物園協会、
商品名:親子パンダバッグ、
業者名:東洋織物(株)
などと書いてある。
かつては餌が保管したあったらしいが、今は売店の商品倉庫になっているようだ。
レンガ倉庫の北にある古家
三段坂
なかなか段々を撮れないが、確かに三段になっている。
このあたりは三河吉田藩、知恵伊豆の子孫、大河内松平家の下屋敷だった。理研所長だった大河内正敏子爵は、親戚の上総大多喜藩、大河内家(幕府側)に生まれ、吉田藩大河内家(新政府軍側)の養子となり、ここに住んだ。
高級中華料理店 古月
以前は言問い通り寄りの山中旅館にあった。まだ入ったことない。
となりのメタセコイヤマンションから古月を見る。
メタセコイアマンションは割と古い感じ。
マンションも、それ以前の木々を残しこのくらいゆったり造ってほしいものだ。
しかし前は何だったのだろう?
昭和38年の航空写真だと大きな屋敷である。
写真の石灯籠はその屋敷のものであろう。
検索したら不動産情報で1964年築、1SLDK 61 m^2、2500万円程度だった。
岩崎邸、大観邸の茅町、鴎外が帰国後にすんだ上野花園町なども含み、池之端はずいぶん広くなった。
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