2020年3月15日日曜日

仙台3 ツチイかドイか?晩翠と父

3月9日、東北大・片平キャンパスの裏門のような正門を出て、大学に沿って北へ歩く。

どうも広瀬川が東から西に流れるイメージがあり、東に歩いている錯覚。

仙台ではほとんどの地図で駅が下、青葉城が上(つまり西が上)、広瀬川が右から左に流れているせいもあるかもしれない。

伊達家の霊廟、瑞鳳殿はあの森のあたりだろうか。

道路の右側に続いていた東北大、放送大学のキャンパスが切れると仙台高等裁判所。
簡易、家庭、地方、高等とすべて一か所にあって便利そう。

片平キャンパスは昔何だったのだろう、と思って歩いてきたが、ここ裁判所の敷地は原田甲斐の屋敷だったようだ。4320石の筆頭奉行だが、山本周五郎、NHK大河「樅の木は残った」がなければ、この案内板もなかったのではなかろうか。
どこかに樅の木が植えてあったりして。

ドラマは1970年だから大阪万博、中学生のころだ。私には難しかった。
子供は戦国時代の方が好きだ。
甲斐という変わった名前と平幹二朗は覚えているけど、伊達騒動に関してはいまだによく知らない。一昨年亡くなった叔父の数少ない蔵書の中にもあったが、読んでいない。

東北大から出てまっすぐ歩き青葉通りに出る。
歩道と中央分離帯、3列のケヤキ並木。

青葉通りを大橋に向かって歩き西公園通りとの交差点。

桜ケ丘公園に見慣れない建物は、地下鉄の入り口だった。
仙台市営地下鉄は1987年に南北線が開通したが、この駅の東西線は2015年開通だから、2006年に来たときはもちろんなかった。
東西線は仙台駅、国際センター、青葉城、東北大を結ぶから学会、観光にもとても便利だ。一気に開発が進みそうなものだが、それほどでもない。

14年前、大橋の手前には、いかにも家臣の子孫という屋敷があったが、見つからない。
マンション工事の場所がそれだろうか?
フェンスの下や隙間から見える石垣がそう思わせる。

橋のたもとには、そういった古い屋敷のほかに古書店もあった。
別冊歴史読本のバックナンバーを何冊か買った記憶がある。
このあたりは仙台まで2駅の地下鉄駅のすぐそばだからアパートがどんどん建っている。

公衆便所かと一瞬思ったらアパートだった。
通りから入り口が見えないような工夫だが、もう少し違うデザインがあったのではないか?

大橋
これを渡れば青葉城。
14年前、渡った先、左側に平屋の団地があった。
いかにも戦後、大陸から引き揚げてきた方のために作られた仮設住宅のような、画一的で小さな家々が多数並び、ひっそりゴーストタウンのようだったが、それがきれいに撤去されている。
今調べたら川内追廻住宅。初めて仙台に来た1991年は567世帯、1387人だが、二回目に来た2006年には110世帯207人で大部分が空き家になっていた。

「立入禁止」を無視して広瀬川に下りたかったが工事の人がいたので断念。

その住宅のあったところは片倉小十郎屋敷跡

ここをまっすぐ進み、大手門に向かう。

そのまま青葉城本丸に登った。(→ 別ブログ)

・・・・・

すぐ降りてきたのだが、大分暗くなった。
大橋の近くまで戻ってきて、片倉家の向かいは、登米(とよま)伊達家、水沢伊達家の屋敷跡。

いまここには仙台国際センターが建つ。

1991年竣工だから生物物理学会のときはあったはず。
でも会場はここからもう少し上がった青葉山キャンパスの大学校舎だった。

二度目に来仙したときの2006年3月28-30日の日本薬学会はこの国際センターが会場だった。
このときはいろんな記憶がある。

長野の弟から父にがんが見つかったと電話を受けた。
3月23日木曜夜、終業後に新幹線で帰省。
翌24日、父と一緒に北信病院・三沢医師と面談。浸潤していて手術はできないという。
帰宅後、父は母と私を市内の長峰温泉に誘った。父と初めて一緒にふろに入った。
それからバイパス沿いの電気店に行き、ノートパソコンを買った。父にインターネットとメールを始めてもらいたかったからだ。 
25日、仏壇の過去帳をうつし、父に家系図作成を頼む。

そして28日、仙台国際センターに来た。
普段は病気と関係ないイオンチャネルなど細胞生理学の話を聞くのだが、珍しく国立がんセンター落谷孝広博士の講演(RNA干渉)を聞いたり、書籍展示販売のコーナーでがんの専門書を立ち読みしたりした。

会期中、薄日が差して小雪が舞った日があった。
広瀬川が近くを流れるが、青葉城恋歌しか知らない。
ふと水はどのくらい冷たいのか知りたくなった。
片倉小十郎屋敷跡に立ち並ぶ古い平屋の家々の軒の間をそっと通りぬけて、なんとか川に下りた。
水はきらきら、草は緑に光っていたが、父を思うとなにか物寂しかった。

2020-03-09
さて、2020年、青葉城から戻ると薄暗くなり工事関係者もいなかった。
14年前と同じように河原におりてみる。

芝生養生試験中につき立入禁止という。

河原は14年前と少しも変わっていない。
お城の石垣に使われていたような加工された大石がごろごろしていた。
大雨で上流の二の丸あたりの石垣が崩れたものだろうか?

ここまで下りてきたが、今回はわざわざ水に触ろうとも思わなかった。

すっかり暗くなった青葉通りを駅に向かって歩く。
晩翠草堂 閉館
2006年は3月29日に訪ねている。

中山晋平のふるさと信州中野は、53年前、私が小学校4年だった昭和42年1月に滝廉太郎の竹田市、土井晩翠の仙台市と音楽姉妹都市となった(昭和55年に野口雨情の北茨城市とも提携)。

昔(大人になってからだが)、父と話していて、土井(ドイ)晩翠といったら、「ドイじゃなくてツチイというんだぞ」と言われた。

14年前、そのことを思いだしながら記念館の展示を見た。
本当は確かにツチイといったそうだ。ところが仙台弁ではツツイに聞こえてしまい、本人もいちいち訂正するのも面倒で、ドイというようになったとか。
父がそういう話まで知っていたかは分からない。
ただ、2006年3月も2020年3月も晩翠草堂に来て、父との会話を思いだしたことは確かである。
父は2006年で76歳。
この年の正月、巨峰を切ってピオーネに変えたとブドウの絵を描いた年賀状をくれた。野菜と違って果樹は収穫できるまで数年かかる。いつまで畑仕事を続けるのだろう、と尊敬した矢先のことだった。

やがて私が教えたローマ字入力でメールをくれた。
いつも2,3行だったが、今まで百姓以外したことがないのにいい文章だった。
農作業ができなくなったころ、メールも来なくなってしまった。

別ブログ
20200314 仙台2 青葉城の地形と縄張り
20200313 仙台1 片平の帝大


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