2020年3月18日水曜日

善光寺坂とムクノキ、幸田露伴から四代

3月8日、雨。
堀坂を上って下り、
堀大膳坂をのぼり、六角坂を下って、次の坂道へ。
緩やかに上る善光寺坂。
江戸時代はこの辺りから伝通院の敷地で、
近吾堂版、小石川辺図には坂下に裏門が書いてある。
写真のあたりは塔頭の瑞真院があった。
明治25年巣鴨に移転、そのあとまっすぐの坂ができた。

中ほどに善光寺。
もとは伝通院の塔頭、1602年創建の縁受院であったが、明治になって独立。善光寺月参講を組織して栄えた。明治17年、善光寺と改称し信州善光寺の分院となった。
だから坂名は明治以降である。
江戸時代の坂は北から蛇行し、縁受院、慈眼院の前を通り伝通院本防の前に通じた。

善光寺本堂
「手が二つ」は「拝」の旧字である。
私が国語の先生で「拝」の字を教えるなら、手を二つ書いて、左の横棒1本を右にスライドさせれば新字となる、と教えようかな。
巡拝講とは善光寺参りのことだろうか?

善光寺のすぐ上(隣)は澤蔵司稲荷 慈眼院
2020-03-08
この坂を上がって左(南)は伝通院の学寮があった。
江戸初期、学寮に澤蔵司(たくぞうす)という修行僧がおり、優秀でわずか3年で浄土宗の奥義を習得した。
ある夜、学寮長極山和尚の夢枕に立ち、
「われは太田道灌公勧進せる千代田城の稲荷大明神なり。今より当山を守護するから境内に祀るべし」といった。
そこで1620年、伝通院では稲荷神社を作り、慈眼院を別当寺にしたという。

これは澤蔵司稲荷公式サイトの説明だが、他にも尻尾を見られたなど他の説がある。

狐の親子が遊ぶレリーフ

これも親子。赤いよだれかけ。
ところで地蔵のよだれかけはよく目にする。
死んだ我が子をあの世で守ってもらうために使っていたものを掛けたと聞いたが、お稲荷さんにまで掛けるのはなぜか? 

稲荷神社の本殿ではなく、慈眼院本堂らしい。
右奥に狐が住んでいたという霊屈「お穴」があるらしいが、気づかず行かなかった。

明治20年ころ善光寺坂は広げられて、坂上にあったムクノキが切られそうになった。

しかし澤蔵司の魂が宿る神木ということで切られず、
平成元年頃までは木をはさんで左右共に車の通行が出来たという。
迷信の残る明治だから切られなかったが、今だったらどうだろう?

樹齢400年、樹高13メートル、幹周5メートル(我が家の桜は3.1メートル)
大正時代の調査では高さ23メートルもあったという。
しかし昭和20年5月25日の空襲で上部が焼け、危険なため昭和30年代に3分の2ほど幹が伐採されたらしい。
椋の木が枝を伸ばす写真左の家は有名だ。

幸田露伴(1867-1947)は正岡子規・尾崎紅葉・斎藤緑雨・夏目漱石・南方熊楠・宮武外骨らと同じ慶応3年生まれ。
谷中天王寺をはじめ転居が多かったが向島の蝸牛庵を気に入っていた。しかし震災で井戸に油が浮くようになり、大正13年伝通院のそばに来た(小石川表町66番、現小石川3-3-8)。小石川は妹の延子、幸子、樋口一葉の妹、邦子がおり便宜を図ってもらったといわれる。

そして昭和2年(1927)ここ表町79番(現小石川3-17-16)に移り小石川蝸牛庵とした。
蝸牛は家を背負い簡単に引っ越すが、ここに落ち着いた。

昭和13年(1938)、幸田文(1904~1990)が離婚、一人娘の玉をつれて露伴のもとに身を寄せ3人の生活が始まる。(露伴の子は3人いたが2人病没、一人娘、一人孫である)
20年3月、3人は信州坂城に疎開。
  5月、空襲で小石川の家焼失。10月伊東へ。
21年1月 千葉市川市菅野へ
22年7月 露伴、市川で没
22年11月、文と玉がここ、椋の木の前に戻り新居を再建した。


幸田文は平成2年になくなったが、表札はまだ「幸田 青木」のままである。
露伴、文、青木玉(1929~)、青木奈央(1963~)、4代の作品がこの椋の木の前で書かれている。昔はそれこそ枝が道、庭を覆い、窓のすぐそばまで来ていたのではなかろうか。

西側にも門。こちらは表札があるが白いまま。

どちらが正門だろう?と前回来たとき同様に思った。
というのは、青木玉のエッセイにあった、母・幸田文の葬儀(平成2年)のことを思い出したからである。

幸田文は葬儀のときは古くから庭を見てもらっていた植木屋に頼むように遺言していて、青木玉が連絡すると、親方がピシッとした服装(作業着?法被?)で手下を引き連れ、庭を掃き、参拝者が上の門から祭壇の間、下の門まで下りる仮設スロープを作ってくれた。玉はどうしても自宅で母を送りたかったが、葬儀業者は会葬者が多すぎてここでは無理という。しかし作りつつあった仮設スロープをみて、なんとかやりましょう、と言ったそうだ。
その日は、椋の木の周りが喪服姿の人だかりで善光寺坂は通行止めになったらしい。

2014-10-19
葉っぱの落ちた写真ばかりなので昔撮った椋の木をのせておく。
千駄木に引っ越して1年半たったころ、文京区の胃のレントゲン(無料)で東京健生病院に行った帰り、小日向あたりの住宅地を自転車で回りながら帰路、ここを通った。
こころなしか、葉っぱのせいだけでなく、樹勢も今より強く見える。
2015年9月のミニストップ巡りでも来ているから2020年は3回目。

埼玉にいたころ、本郷小石川に憧れていたから、捨てずにとってあった。
左の椋の木は安野光雅である。

もうすっかり忘れているので通勤電車で読んだら、青木玉は(1961年長男が生まれてから)3軒隣に住んでいたようだ。
そして、玉の夫がムクノキの下で葬儀のあいさつとして幸田の名跡は息子に継がせると話していた。
調べたら、夫は青木正和(東大医卒、結核研所長など ~2010)。息子は幸田尚(東大農芸化学卒、もと東京医科歯科大准教授、いま山梨大教授)である。
「幸田・青木」という表札の疑問がこれで解けた。


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