2020年3月28日土曜日

銀座4丁目交差点の和光、三愛、

3月25日銀座にいった。
有楽町からの晴海通りを銀座4丁目交差点に向かう。

交差点、東南の角は銀座プレイス
1911、築地精養軒がカフェーライオンを開業、
1931、経営が大日本麦酒にうつる。
1945、戦災で焼失。バラック、改装、、
1970年、サッポロ銀座ビル竣工。
2014年解体、2016年新ビルでオープン。
日産ショールーム、ライオンビアホールなどがはいる。

2020-03-25 
北東の角は三越銀座店。ライオン像は見なかった。
本店は三井の本拠地日本橋。

振り向いて北西は和光本店
時計、宝石、衣料品だけでなくケーキなど食品も売っているらしい。
明治27年初代時計塔竣工(服部時計店)。
建て替え中に関東大震災、
1932(昭和7)年6月10日、時の記念日に合わせ現在の建物が竣工。
戦後1947年、服部セイコーの小売部門を継承する形で株式会社和光が設立された。

2020-03-25
南西は三愛ビル。
三愛ドリームセンターというらしい。
上にリコーの広告があるのは、三愛もリコーも市村清が創立しグループを形成していた名残だろうか。

佐賀出身の市村は1900年生まれ。
1929年、縁あって理研が開発した感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、業績拡大した。
1933年、理研所長・大河内正敏から理化学興業(株)感光紙部長に招聘される。
1936年、理研感光紙(株)として独立。取締役就任。
1937年、理研光学工業に改称、(1963リコーと変更)。
1945年、戦後、三愛商事を設立、銀座4丁目角の土地を取得、食料品店を開業。後に婦人服専門店に転業した。
1963年、ガラス張りの三愛ビル竣工。
1968年、市村死去
2015年、水着、下着などはワコール、婦人服は名古屋のアイリンに売却。
銀座本店、ビルも売却したが、San-aiの文字は3階の壁に見えた。

やっぱり銀座は立派だな~
中国人が買い物に来るのも分かる。

しかし、銀座は私には敷居が高い。
最近は長女の結婚式のモーニングの衣装合わせ、次女の結婚相手の家族との食事会など、この交差点は通るが、目的地以外立ち寄らない。
よそ者だから、のんびり、ぶらぶらすることがない。

死ぬまで和光で買い物することはないだろう。
一流の品を使うという人間にはならなかった。
金がないわけではないのだが、使い捨てのような安物を壊れるまで使ってきた人生。

一度くらいライオンに入ったことがあるかもしれないが池袋と記憶が混じっている。
しかし敢えて入る気はないし、日産ショールームのほかに何があるのだろう? 探検する気も起きない。三愛ビルも入ってみる好奇心がない。
三越はもっと興味がない。

・・・・
この場所に初めてきたのは覚えている。
1975年5月。
高校卒業して上京、1か月たったころ。
同時期にやはり信州中野から上京したHさんとデートした。
妹の高校の先輩で高3の文化祭のとき顔を見たことがあるだけ、手紙のやりとりのあと実際に会ったのはこの日が初めてだった。
上野公園にいったのだが、特にプランもなかった。上野広小路が歩行者天国になっていて、おしゃべりしながら歩いていたら、秋葉原、神田を過ぎ、日本橋から銀座に入っていた。銀座4丁目の交差点を過ぎ、新橋から電車に乗って別れたはずである。

御徒町のマックで彼女が「あっ、シェイクだ。食べたい」といった。
私には初めて聞く食べ物だった。彼女は何で知っていたのだろう? 一か月で覚えたのだろうか?
まだ女性にも都会にもなれておらず、マックでは大勢の人がみな並んでいないので、いつまでたっても注文できなかった記憶がある。

オシャレな彼女とは続かなかった。
続いていたら、もう少し身なりに気配りし、まだ何にも染まっていない初期のころからセンスのある学生生活となり、ひょっとしたら銀座にも慣れたかもしれない。
銀座に来るようになっていたらずいぶん違う人生になっていたのではなかろうか。

3年前、朝の畑仕事を終えてから自転車で日本橋まで来て、三越本店の立派さに驚き、自分のみすぼらしさが恥ずかしく、どこにも寄らずに帰ったことがある。
45年前と変わっていない。

和光にすっと入っていける人をうらやましく思う。



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