2019年11月23日土曜日

犬山城と付家老・成瀬家

10月27日、岐阜から東京に帰る途中、犬山に寄った。
名鉄岐阜駅からのどかな田園を通って33分、460円
木曽川べりの犬山遊園駅下車。

木の板に塗った厚いペンキが劣化、はげてきている駅前観光地図。
製作者が予想もしなかった趣が出ている。

2019-10-27
対岸は岐阜県各務原市。
ちょうど木曽川が濃尾平野に出たところで、ここから上流は川べりに断崖が多い。
2002年まで営業していた日本ライン川下りはこの犬山橋が終点だったようだ。
今は犬山城をみる遊覧船があるらしい。
犬山城がよく見える。
台風19号の影響はなかったのかな?
向うの方に堰がみえる。
静水に近ければ鵜飼いもやりやすい。

堤防沿いの遊歩道を歩きながら近づいていく。
途中で道は左の山の方へ。
堀の役も果たしたか、新郷瀬川。
台地上の犬山市街と木曽川との標高差で急流である。
川岸は、褶曲した堆積岩、チャート。
この岩を嫌というほど見て来た早朝の岐阜城金華山を思いだしながら、城への坂道を登っていく。
まったく同じ大きさの丸石の石垣が延々続く。他にも同様の石垣アリ。
いつ作られたか知らないが、木曽川の川原から集めたものだろう。
領民一人当たり何十個、何百個と命じて徴収したのだろうか。

にぎやかな広場に出て、犬山城に着いたと思ったら神社だった。
尾張五社の針綱神社。
七五三の家族もちらほら。
となりの三光稲荷神社大鳥居には成瀬家と書いてある。

はて、ここまで来たのに城はどこか?
ふと見ると、犬山城への近道という看板があったので稲荷社の境内に入り赤い千本鳥居をくぐると、城らしい坂道にでた。
鳥居奉納者の成瀬家というのは、代々犬山城主。
犬山城は、濃尾地震で一部が崩れ、明治28年愛知県から旧犬山藩主・成瀬正肥へ、修復を条件に無償譲渡される。その後多くの市民からの義援金で工事が行われた。
その後、成瀬家は2004年まで私有していたが、いまは犬山城白帝文庫の所有となり、市が管理している。

国宝として有名だからか、こんな田舎なのに外国人がいっぱい。
イスラムの格好だからインドネシアだろうか。

実は入場券を買うかどうか迷った。
私は現地に来るだけでよい。
周囲の地形、堀や石垣など外の縄張りを見るだけで満足する。
今までいろんな城に上り、建築素人としては似たような内部に飽きたこともある。
観光客で混雑する狭い階段をのぼり、団体客の品のない会話も聞きたくないのだ。
しかし、東京から、二度と来ないだろう犬山まで来て、国宝の中に入らないというのも、のちの会話に困ると思い、550円を払った。
晴れているから景色も見たいしね。
現在修復中で、眺めが半減しているのは残念。
とにかく城の階段は狭い。
最上階へは、普通の住宅仕様の階段。いや狭さはあっているが、勾配はもっと急だ。
ここを荷物を持った観光客がすれ違う。
でも早朝に金華山、馬の背道を上った来たから、ぜんぜん平気。

木曽川は西に流れる

この眺めこそ登った理由。

歩いてきた犬山遊園駅方面

ここは信長、秀吉、家康、誰もが重要視した要衝に立つ。
だから歴代城主は、信長の叔父・織田信康、のちに池田恒興や織田勝長など。
小牧長久手や関が原のときは秀吉軍や西軍の拠点となった。
江戸時代になり御三家が成立すると、それぞれの藩を体制を支えるために幕府は付家老として、信頼できる大名を送り込んだ。三河以来の譜代大名である成瀬正成は尾張藩の職制上最高の立場につき、犬山城を与えられ、以後成瀬家が明治維新まで続く。

しかし、万石以上の城持ち大名でありながら陪臣扱いされた成瀬氏は、維新後紀州や水戸の付家老と運動して、独立藩となり、犬山藩知事に就任した。
成瀬家代々。左のお二人はプレイボーイに見えるが。

11代成瀬正勝は国文学者で東大教授。
12代成瀬正俊(1930 - 2008) 犬山城を財団法人犬山城白帝文庫へと移管。
13代は当主が長男成瀬正浩だが、
城主は長女の成瀬淳子である。
淳子は一族から選ばれ、城を管理する財団法人犬山城白帝文庫のの理事長になった。

なお、日本女子大創立者の成瀬氏は長州藩士で関係ない。
この日は日曜だが待ち時間もなく、すんなり上がって降りてきた。

江戸時代からある天守は12あるが国宝は
長らく姫路、松本、彦根、犬山の4つであったが、2015年に松江城も指定された。
今回で松江以外4つ登ったことになる。
行った城、登った城はいくつになるか、リストをつくろうかな。
犬山城の特徴である唐破風が見えないのが残念。

城を出たところで南山大学の学生がアンケート調査をしていたので協力した。
観光に関する卒論に使うらしい。

広場に出る。
あった、あった。城の一等地に下山順一郎像。
長井、丹波とともに東大薬学部初代教授3人の一人。
明治3年犬山藩の貢進生に選ばれ大学南校に入学した。東大薬学の第一期卒業生である。
東大、東京薬科大(初代校長)にも銅像がある。

この日は本来、薬史学会2日目で、会員は薬史ツアー。
くすり博物館の標本・古典文書など専門的見学の後、この銅像も訪問地の一つだが、私は早く帰京するのでその前に一人で来たということだ。

犬山神社。忠魂碑

断崖の上の城は、木曽川の対岸から見てみたい。

犬山城正面入り口広場からまっすぐ南下する道、本町通りが観光メインストリート。
観光客が行き来する。


本町通りを南下し始めてすぐ右に犬山市文化史料館「城とまちミュージアム」に入る。


犬山城と成瀬家伝来の文化財を管理する白帝文庫もここにある。

成瀬家はじめ御三家についた5家について「付家老のお仕事」という企画展をやっていた。

通りの向かいはからくり展示館。
犬山祭りに用いられる「山車からくり」と、高価な玩具として楽しまれた「座敷からくり」がある。茶運び人形の実演があるらしいが、先を急ぐ。

からくり人形は動いていなければつまらない。
私はむしろ展示館前の長屋門の方に興味があった。
何の手入れもされず、何の説明板もない。ただ撤去するのが面倒というだけで残っているのではないか。このあたりが犬山のすごさかもしれない。

古い町並みを台無しにする唯一の4階建てコンクリートは、犬山市福祉会館。
この辺りに大手門があったらしい。


犬山市は人口7万3千
京大霊長類研究所、明治村なども有名だが、中心市街は思ったより小さい町であった。
名鉄犬山からの駅前通り

かつて全国小京都会議に加盟していたが脱退、
また平成の大合併でも協議会から離脱したのは好ましい。

別ブログ
20191101 長良川と命がけ岐阜城登山
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千駄木菜園 総目次

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