2017年10月14日土曜日

立川、自衛隊駐屯地の歴史

10月14日、箱根駅伝予選会に出かけた。
スタート地点は、立川基地の中。
迷彩服の自衛隊員も駅伝コースのそばにいらっしゃる。
 選手控室にあてられた体育館の北には、東部方面航空隊本部の建物がある(上の写真右側)
よく見れば、かなたに格納庫がいくつも見える。
駅伝一色、一見、ただの運動場に見えても、やはり自衛隊の基地なのだ。
ここには固定翼の戦闘機隊などはなく、格納庫の中はヘリコプターだと思われる。

さて、このあと、基地を出て、レースのゴールとなる記念公園の原っぱに向かった。
各大学、悲喜こもごもの予選会がすべて終わり、みな立川駅、西立川駅に向かう中、ひとりで逆方向に向かい、朝スタートした立川基地を訪ねた。
出入りした門はまだ閉まっておらず、迷彩服の隊員が4人いらした。
 写真をとてもいいでしょうか?
 あの奥の、記念碑も撮っていいでしょうか?
と了解をとってから、急いで写してきた。


裏には紀元二千六百年と書いてあった。
両手が持つのは地球だろうか。戦前の記念碑に似合わないデザイン。

 維時昭和八年五月四日( )聖駕この地へ幸し給ひ、親しく陸軍航空の威容を・・・・天覧の光栄に浴す。すなわち碑を以て之を不朽に伝ふ

飛行第五戦隊の碑

ここ、立川飛行場は1922(大正11)年、帝都防衛の陸軍航空部隊の中核拠点として開設された。前年に岐阜県各務原で編成された飛行第五大隊が移駐し、1925年に飛行第五連隊へと昇格した。
本来、大隊が集まったものが連隊であるが(たとえば普通科連隊は4個大隊を含む各種大隊からなる)、番号が変わらず昇格したということは、飛行機の重要性が増し、各大隊に補給や整備部隊などの大隊、中隊が付属し、そのまま発展したことを示す。

しかし昭和に入り、実際には、各連隊から戦闘大隊、中隊を抽出、動員するうち、連隊の中の飛行機部隊を独立させたほうが合理的となる。

かくして1938年、立川の飛行第五連隊の戦闘大隊は飛行第五戦隊に改編され、翌年、柏飛行場(千葉県)へ移駐した。そのため立川飛行場は戦時中、実戦部隊がなく、陸軍航空部隊の研究・開発・製造の一大拠点となった。
(なお飛行戦隊は46個で開戦し、終戦時までに92個戦隊が編成されている。)
立川駐屯地のホームページから

これを見ると今の昭和記念公園というのは、実に広大な、陸軍航空研究所の研究、工場群の跡地である。
今の公園内には大きな池や丘や、川まであるが、返還後に掘ったり盛ったりしたのだろうか。


ここは戦後、米軍に接収され、朝鮮戦争時には一大補給拠点となった。
その後ジェット大型機の運用が可能なように、米軍が滑走路の拡大を図り、用地を買収しようとした。1957年、国と反対住民がもめ、全学連が加わり、その後の学生運動の原点となった砂川事件の舞台にもなった。

なお、米軍立川基地が返還されるとき、跡地に東大が引っ越す話があった。
長野で新聞を読んだ記憶がある。
学内(文系や病院をもつ医学部)の反対があり、実現しなかった。

しかし数十年たち、結局本郷キャンパスが狭くて工学部の一部などが柏に移転した。その柏キャンパスは、この立川から第五戦隊が移った先の陸軍柏飛行場の跡地であったことが面白い。


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