2017年10月1日日曜日

護国寺・25年前の記憶

長野から来た弟が行ってみたいというので、出かけた。
家から3.5㎞。
ご近所カテゴリーには入らない。
自転車で不忍通りをまっすぐ行けばいいのだが、上り下りがあるのでバスにした。

バスは護国寺惣門前に止まる。
惣門に並んで何の案内もない大きな門がある。
京都の御所みたいな塀。
すべての瓦に菊の御紋。
(写真を拡大すれば見える)


護国寺は綱吉が母、桂昌院の願いを聞いて建立した祈願時で、檀家を持たなかった。そのため、幕府瓦解して経済的な苦境に陥いり、境内5万坪の多くを失った。東側の2万5千坪は皇族墓地になった。その入り口がこの門である。

昨年11月、三笠宮崇仁親王が101歳で亡くなられ、斂葬の儀が行われたのはここである。中に入れなくとも、記帳に来れば何か見えるかもしれないと思ったが、結局来なかった。

護国寺は、普通、地下鉄の駅がある仁王門から入るから、惣門前はあまり人がいない。
入るとすぐ音羽幼稚園。民家のように見えるのは僧坊か。


護国寺に初めてきたのは
1992年11月だから25年前だ。
田辺製薬、薬理研究所の顧問をされていた東大名誉教授、熊谷洋先生が亡くなられ、葬儀の手伝いに来たのである。

現在葬儀は、桂昌殿で行われるようだが、25年前はこんな建物はなかった気がする。
葬儀会場はもっと小さく、今日と同じ秋晴れ、西日を浴びた下駄箱だけ覚えている。
桂昌殿

建物名は、桂昌院からとったものだろう。
野球ユニフォームの生徒は、日大豊山の学生だろうか。

25年前、手伝う仕事が何もなかったのか、式典などの記憶が全くない。
覚えているのは、葬儀が終わり、本殿を見物したことくらい。
2001年8月、目白フォーシーズンホテルで学会のあと、鳩山邸から歩いてきた。
そのとき、石段を上がった右側に鳩山和夫?一郎?の銅像があった。
たしかに、音羽の自邸は近いけれど、私物が公的な境内にあって違和感を覚えた。
今日、探したけれど銅像はなかった。撤去したのだろうか。
本堂(観音堂)

明治16 年と大正15 年の火災で多くの堂宇が焼けたが、元禄時代に作られた本堂は残った。国重要文化財。
象頭、獅子頭。
さすが幕府が後ろにいただけあり、豪華である。

本堂内部。

25年前、松岡さんや奥山さんと大きな曼荼羅を見た気がしたのだが、今は小さいものが横にあるだけ。
あれは何を見たのだろう?

この写真を撮った後、撮影禁止という注意書きを見たので、写せなくなった。
本尊がある場所に鏡があった。
奥のほうには立派な仏像がたくさんある。
欄間には牡丹の彫刻。
伊藤若冲を思わせる群鶏図。
全て色が剥げているが、奉納された立派な額が多い。
天井は中央に竜、両側に天女が4枚ずつ。
人がほとんどおらず、十分鑑賞できる。

西側の壁には原田直次郎が奉納した「騎龍観音」
直次郎は鴎外のドイツ留学時代からの友人で、ステッキを持って気取った鴎外、岩佐新との三人の記念写真は有名である。

弟によると、これは複製で本物は国立近代美術館にあるらしい。
今日は第一日曜で無料だから、行ってみようかという。
長野の田舎にいてなんでそんなことまで知っているのだ!?


護国寺にも富士塚がある。
斜面にあるので、円錐型がよくわからない。


十分満足して、仁王門を後にした。


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