2019年1月21日月曜日

与野駅、田辺製薬大宮寮

1月19日、浦和西高に用事があって与野駅、東口に降りた。
1981(昭和56)年、就職してから2年間、この駅から通勤した。
びっくりするほど何もない駅前広場
千八寿司は昔からあった。
曽布川と昼飯で並の握りを食べたことがある。

2019年のこの日、土曜の8時前だから人は少ないが、JR駅前で平屋、二階建てしかない街並みの様子だと、40年間ほとんど発展していないようである。「奇跡のように残った」というほどの有難味はないが・・・

駅前広場から北浦和方面に伸びる商店街(?)
平社さんが通ったというパチンコ屋があった気がする。

再び北のほうに目を向けると広場の線路側に公衆便所。
これも昔からあった気がする。

 ここから独身寮のあった北東方面に向かう。
旧中山道に出るまでの短い道
左側にレコード店があり、買わなかったがたまに入った。
CDプレーヤーの発売が1982年10月だから、まだレコードの時代。

旧中山道に出たところの交差点。
ここにケヤキの木があった。

2010年に倒木の危険があるとのことで伐採されたらしい。
与野駅改札口外に切り口が展示されている。
写真をみるとワイヤーで補強されているのが分かる。
樹齢300年ということで仕方がないということだが、200年、400年であっても、この2,30年で弱まり切られたのではなかろうか。彼にとって、近年の変化は急激なものだったであろう。

中山道をほんの数十メートル北に行くと
右側にラーメン屋があった。

一年後輩の小川君と一緒に寮に帰ったとき、たまたま入り、安いラーメンをおごってあげた。
彼は大学入学後、進路変更して獣医学部に入りなおしたから、同期のものより年長であり、また極真空手の練習で毎週東京に出ていくこともあり、あまり社内の人と付き合わなかった(私がダンスを始めてから飲み会を堂々と断ったのに似ているかも)。

私はスマートにおごることが下手で、めったにおごらなかったのだが、彼が数年後に退社するとき、たった一度のことでお礼を言われてしまった。
こちらはすっかり忘れていたのに、彼の人柄を最後に見た気がした。

そのラーメン屋の先から東へ入ると住宅街。
左側の渋谷家はそのままだった。

この道の先、交差点の北東の角のソバ屋は美容院になっていた。
右側にカウンターだけの飲み屋があった。ここは鈴木龍さんや小山さんと入った。
さらに先には小さな寿司屋。ここも曽布川と入った。めったに客など入らぬような店で、生ものなど大丈夫かと心配したが、マグロがうまかった記憶がある。

あのころは駅から離れた住宅街にぽつんとある飲食店が、不思議とやっていけたようだ。
今はアパートが増え、その場所も分からない。

上木崎小学校
向うに見える建物はなかった。
グランドの東は昔国鉄、いまJRのアパート。

JRアパートの北側は片側1車線の狭い道だったが、さいたま新都心に近いせいか、新しくなって景色が一変した。写真右奥に入る細い道に辛うじて記憶アリ。そこを入っていくと右に三菱金属の研究所があった。 写真右手前を下ると産業道路との交差点。

この交差点の北西の角は、小さな林で、月ぎめ駐車場があった。
桐生工業野球部出身の市川君が入社間もなくトヨタのカリーナだったか、チェイサー?、マークIIだったか忘れたが、豪華な車を買って置いていた。その土足禁止、絨毯のしかれた車に乗せてもらい、鈴木弘と3人で湘南の海に行ったこともある。

彼は甲子園が近いチームで4番を打っていた実力者で、東京工場にあった硬式野球部を長年けん引した。(一方、我々の研究所の野球チームBeaglesは、軟式でキャッチボールをしていた程度の者もいる同好会だった)。
彼は私の7歳下であったが、寮のロビーで素振りなどしていると親切に指導してくれた。躰の柔らかさとパワー、ももの太さは私が初めて間近に見た一流アスリートのものだった。

交差点から南の産業道路は拡張されておらず、景色が残った。
左側の焼肉大洞門は昔もあった。入った記憶はない。

一方、北の大宮方面はさいたま新都心に近く、人家が少なかったせいもあり、車線が増えて一変した。

産業道路を北に少し歩くと、左に三菱金属の研究所があった。
西の正門は中山道に面し、奥のグラウンドは産業道路に面するという広大な敷地で、当時はセキュリティーなどという言葉はなかった。産業道路からグラウンドに自由に入れたので、寮から山本達郎と出かけ、彼はエースの石井さんの控え、私はセカンドの控えだったから、二塁けん制やダブルプレーの練習をした。

この交差点で産業道路を渡る。
右側にソバ屋があり、カレーうどんなどを食べた。
産業道路側の並びにはラーメン屋があり、寮食のない休日の昼など利用した。
二軒ともない。
かつての田辺製薬大宮寮
東京工場の閉鎖、新卒の多くが大学院出身となり、入居者減少。私が入ったときはすでに一人部屋で、さらに3階がそっくり空室になった。

1990年代になって研究所の隣の戸田寮を新築したことで、この敷地を売却した。

角のコンビニが昔何だったか思い出せない。

表札に大宮宿舎とあるので、やはりどこかの寮になったのだろうか。
しかし独身寮でなく家族も住めそう。

田辺製薬大宮寮はコの字(Hの字)型になっていて、真ん中が食堂やテニスコートだった。
冷暖房はなく、夏暑いと廊下や卓球台の上で裸になって寝る人も出た。
寮の北の方は畑だった。
誰も通らない道路(農道)でバレーボールの練習をした。
金沢の井上、立教の石川が上手だった。

寮の裏、東側に回る。
芝生に囲まれたテニスコートがあったが、誰もやらなかった。
会社に行けばもっと広いところがあったからだ。
有機化学研究所の名手(なて)さんがキャッチボールで暴投し、管理人さんの部屋のガラスを割った。

管理人の伊藤さんは私と同郷、小布施の人で、81年の夏か秋、どこかの会社から転職されてきた。谷中に住まわれていたことでも話が合い、私の顔を見ると意識的に北信濃の方言を使われた。
楽器の販売をされていたようで、管理人室に家庭料理をご馳走になりながら、別人のように上手なハワイアンの演奏を聞かせてもらった。

それまでの管理人さんが厳格であったのに対し、非常に人当たりが柔らかく、皆と徹夜マージャンをされ、よく負けておられた。

寮生のUさんが失恋して落ち込んでいるとき
「今までタダでやれたんだから得したと思いなさい」とユニークな慰め方をしていらした。

私が年賀状をやめたせいか、音信不通になったが、元気でいらっしゃるだろうか。

当時は寮と与野駅の往復で、2年住んでも、すぐ裏に寺があることを知らなかった。
神社仏閣や散歩に興味がなかったし。
景元寺 本堂が公民館みたいである。


上杉謙信はうそっぽいな。

寺から出て寮の東側から西を見ると、畑の代わりに建て込んだ家と、その向こうにさいたま新都心のビル群が見えた。

2年間住んだのは大宮市北袋2-385。

当時寮生の間では公団住宅を申し込むのが流行っていた。抽選は3か月に一回、駅から近いところの倍率は高く、菅野さん島津さん山田治民さん鈴木龍さんらは、駅から離れた上尾の団地に出て行った。長崎さんは結婚前に当たらず民間アパートだった。

落選通知のはがきを集めると倍率が優遇されたが、私はそれを使う前に、予定より早く東大宮の瓦葺団地が当たってしまった。寮を出ざるを得なくなり、結婚するまで1年間ひとりで遠い2DKから通うことになった。


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