2019年1月17日木曜日

本妙寺と下瀬坂

染井霊園の北口から17号に出る途中、坂を下りて登った右側に寺がある。
法華宗徳栄山本妙寺。

2013年以来、何回か前を素通りしていた。
しかしこの寺こそ本郷の本妙寺が移転してきたものとは知らなかった。

いまも本郷5丁目、北の方から菊坂に下っていく道に本妙寺坂というのがある。
何回も自転車で降りている。

この寺は1571年駿府に創立した。
1590年家康とともに江戸入府。
場所は転々とするが、1636年本郷丸山にうつる。
寺のHPによれば、
「本郷丸山に替地をうけ、約6000坪の境内に九間四面の本堂や千仏堂、客殿、書院、庫裡、鐘楼、山門等完備し、塔頭寺院も十二と七堂伽藍の整った大寺院」とある。

goo地図 (明治40)門前に塔頭7院もみえる。

ところが、1910(明治43)年、この地に移った。

2019-01-13

山内の史跡一覧が示されているとつい入りたくなる。
正月だし。
本堂の廻り縁から右に回ると墓が広がる。
向こうの大屋根は慈眼寺。

今写真を拡大すれば、千葉周作成政墓 と読める。
となりは北辰一刀流を継承した三男の道三郎だろうか。

なお、竜馬がゆくで出てきた千葉さな子は周作の姪である。
周作の弟、桶町千葉道場の創設者、定吉の娘。
明治12年没の定吉の墓は雑司が谷霊園にある。


これが面白かった。
本因坊は囲碁のタイトルの名前だと思っていたが、本来は安土桃山時代の棋士、日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系のこと。 
以降5人の名人を含め名棋士を輩出、江戸期を通じて囲碁四家元、将棋三家元の中で筆頭の地位にあった。道策・丈和・秀和・秀策・秀栄などは、中でも高名である。

明治以後にもその権威は受け継がれるが、昭和13年、21世本因坊秀哉が引退した際、その名跡を日本棋院に譲渡し、家元制から実力制に移行することとなった。 
昭和16年第一期本因坊戦が開催され現在まで続いている。
つまり世襲時代最後の棋士が秀哉であり、ここ本妙寺でも中央最大の墓石になっている。

歩いていると遠山金四郎景元の墓もあった。
遠山の金さんがなぜ庶民に人気があったか?
家督を継ぐ前の放蕩時代に入れ墨を彫って庶民的であったとか、北町奉行時代、水野忠邦が天保の改革で寄席や芝居を禁止しようとした時、それに反対して取り締まりを緩和したとかの話がある。

なお、本堂の脇に明暦大火の供養塔がある。

明暦の大火というのは振袖火事ともいわれ、1657年1月、江戸城天守閣を含む江戸市中6割を焼いた火事。この火元が本妙寺とされている。しかし寺が取り潰されなかったことから阿部邸からの失火を引き受けたとの説もある。

しかし明治時代に寺と墓地を引っ越すのはどんな感じだったのだろう。
墓石はいいとしても、土葬された骨も移したのだろうか?
そもそも、東の法真寺、西の長泉寺の隣接2寺が動かないのに、なぜ本妙寺だけ明治になって動いたのだろう? 跡地はただの住宅だから動く必然性がない。

そんなことを考えながら下瀬坂に出た。
2019-01-13
坂名はこの右下に海軍下瀬火薬製造所があったからである。
下瀬火薬というのは化学的にはピクリン酸だが、扱いが難しく、使える爆薬にするには工夫が必要だった。
海軍技師下瀬雅允(→ )の墓は近くの染井墓地にある。
その火薬製造所は1929年に移転、
そのあと1944年東京外事専門学校(東京外語大)が一橋からきて、
2000年に府中に移転した。

跡地は「西ヶ原みんなの公園」と特養老人ホームになった。

下瀬坂と本妙寺は全く関係ないが、距離、時間とも、ごくごく近くで見たので一緒に書いた。


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