2020年1月6日月曜日

東五反田を歩く。清泉女子大、本立寺

1月5日、冬休みも終わり。
ダンスの練習で五反田駅、品川区総合体育館にきた。
横浜のTさんと組んでいた時、埼玉指扇からここまで来て練習していた。
数えたら2012年だから8年前か。
そのころから真面目にレッスン、練習、競技会を続けてきたが、上手になっているのだろうか?

2時間半ほど練習して16時、冬の夕方は早いが、東五反田の山の手を散歩した。
16:04 島津山の高級住宅街。
文京区の西片や大和郷よりも豪邸が多い。

16:05 清泉女子大
1934、ローマからスペイン系の修道女3人が来日、
1935、麻布に伝道のための清泉寮を設立。
1938、高等女学校の卒業生を対象にした清泉寮学院となる。
1946、横須賀と長野に清泉女学院設立。
1950 横須賀で4年制女子大となる。
1962、横須賀から現在地に移転
この地は仙台62万石伊達家の拝領屋敷(16,680坪)プラス抱え屋敷(5,990坪)だった。
のちに島津本家(公爵)の屋敷になり、GHQ接収、解除後に清泉が日銀から購入した。

長野市の清泉は城山にあった。
高校のとき信州中野から長野電鉄で通学する美しい清泉の女子高生がいた。
となりの通学区の南宮中学の友人に聞くと泉山さんといった。話しかけるどころか、目さえ合わせられなかった。

島津公爵といえば日本の政財界を牛耳っていた薩摩閥の頂点、殿さまである。
毛利公爵がもっぱら山口防府に暮らし東京に豪邸を作らなかったから、ここが一番だったといえる。

建物はジョサイア・コンドル設計、大正4年竣工。なるほど湯島の岩崎邸に似ている。
当初2万8千坪あった敷地は、昭和恐慌で昭和4(1929)年には8千坪を残し、周辺部を売却、宅地として分譲された。その後も戦時中に大邸宅の維持が困難となり、島津家は日本銀行に売却した。

島津邸は敷地の一番南、正門側にあるので家々や木々の間からかすかに見える。

暗くなるから急いで歩く。
こういう豪邸は相続できるのだろうか。
16:10
やはり売らざるを得なかったのか、落ち葉に覆われた管理物件がある。
駐車場にはアウディが止まっていた。

16:11
幕末の絵図を見れば文京区が旗本だけでなく下級武士の御家人などの小さい屋敷が多かったのに対し、このあたりは大名家の下屋敷と田畑が多かった。さらには本郷、小石川あたりが無計画に小さな家が建ったのに対し、こちらは昭和になって分譲されたから比較的敷地が大きいのだろう。

16:13 寿昌寺
寺入り口の隣に右へ入る狭い路地があり、進むと民家と古いアパートが並ぶ。看板から北側の土地はこの寺が所有しているようである。
幕末の絵図によれば、伊達家、寿昌寺、本立寺が隣接して3つで占めており、明治以降それぞれ中心部だけ残して周りが民家になった。

豪邸を見ながら進むと国道一号線に出る。
右へ行けば先月歩いた白金高輪から六本木に至る桜田通り。
左へ行けば五反田駅北口をすぎて戸越銀座、馬込に向かう。
この大通りを右にいってすぐ、本立寺がある。

ちょうど住職が門を閉めていらした。
寺の関係者以外立ち入り禁止、16時閉門という注意書きをみたあと、
彼と目が合あってしまった。
「なにか?」
と問われたので、慌てて
「いえ、関係者ではありません。たまたま通りかかったものですから」
「初詣でしたらどうぞ」
とっくに16時は過ぎている。
いえいえ、もうお時間なのに申し訳ないですから、と遠慮したのだが、勧められたのと、史跡案内板のある地蔵堂が目に入ったので、お言葉に甘えた。

16:19
入り口は小さいが、中は広い。
左側の墓域は島津山の東の谷になっている。

16:22 突き当りは本堂
城南大空襲で境内に150発の焼夷弾を落とされ建物はすべて焼失した。
第二十世住職が1966年に斬新なデザインで再建したという。
中には日蓮上人像と大曼荼羅が本尊として安置されている。

なお、大曼荼羅(だいまんだら)とは、題目(南無妙法蓮華経)のまわりに仏や天台系の学僧たち、インド・中国・日本の神々の名号などを漢字・梵字で書いて配置したものである。曼荼羅といえば主尊のまわりに多くの仏像が配置された密教系の絵図を想像するから、文字ばかりの寄せ書きのようなものが曼荼羅というのは違和感ある。

また、たいていの寺では本尊といえば仏像だから、曼荼羅が本尊とは、これも慣れないが、日蓮宗(法華宗)はこうらしい。
本師堂。
樹木葬墓地分譲の幟があったので質問すると、パンフレットが事務所にあります、と住職は閉館した本師堂を開けてくださった。まだ事務員さんたちが何人もいらして笑顔で迎えて下さりますます恐縮する。

本師堂の中には釈迦如来があった。
仏教で悟りを開いたもの、すなわち仏像の中の最高位である如来は、主に4つある。
浄土宗系は阿弥陀如来、真言宗は大日如来、薬師如来は各宗派にある。
しかし釈迦如来は少ないらしい。
住職は海外にも行かれ、また南アジアの僧たちもここに来日する。そのとき、ブッダはどこだ?といつも聞かれ、釈迦如来の必要性を感じたという。(確かに日蓮上人像では国際的でない)

ちょうど、有力檀家のお一人、北島明子さんが釈迦如来を寄付されることになり、その機会に(2013年)本師堂を建てたとのこと。
完全にバリアフリー、土足のまま入られるから法事で年寄りが玄関で難儀することもない。
16:31

写真を撮っていいかと伺うと如来像の前の薄い遮蔽スクリーンをあげて下さった。
住職は第22代中島大成氏。
NGO団体アーユス仏教国際協力ネットワークの副理事長でもいらっしゃる。その活動、会合にも使われるらしく、如来像の前には映写用のスクリーンが下りてそのまま発表会、講演会のステージになる。
壁は吸音材が貼ってあり横にピアノもあった。結婚式もできるらしい。

毎年かなりの数の墓じまいをされるらしく、残る檀家も埼玉神奈川ハワイにまで転居される家も多い。ねんねん檀家が減っているという。
寺はそのままだとじり貧になると危機感を持っていらした。
釈迦如来の上の天蓋はガラスの円盤で極めて現代的、その上の(写真中央上部、黒い丸)の大曼荼羅は照明で文字が浮き上がるように設計されている。
天井は高く、横のキャットウォークからは花びらをまけるようになっている。
設計者と施主が十分話し合わないとこれだけのものはできない。

だんだん暗くなってきたが、事務の女性が樹木葬の場所に案内してくださった。
16:46
島津山の上だから開放感がある。
骨壺が1つ、2つ、4つ入る墓が用意されていた。
自分の墓地に関心があるのは事実だが、文京区からは遠い。
16:48
戻る途中山下家と書いてある墓をさし、落語家、喜劇俳優の柳家金語楼のものだという。
昔NHK番組「ジェスチャー」に出ていて、幼い私が物まねをして大人を喜ばせた記憶がある。

このまま帰ろうと思ったのだが、樹木葬のパンフレットを渡すという彼女についていったら住職が待っていてお屠蘇を入れて下さった。
いろんなお土産をいただいて辞去した。

すっかり暗くなり、入り口近くの地蔵はよく映らなかった。
16:56
帰りの山手線でいただいたパンフレットを見たら墓域に能勢家墓とある。
縁起を読めば、
北摂津に知行地を持つ旗本、能勢頼次の五男、能勢頼永が1647年、妻の七回忌に下大崎にあった江戸下屋敷に恵性寺を建立した。ところが幕府の新寺建立禁止令によって取り壊しを命ぜられる。そこで上目黒に本立寺という住職不在の寺があったたため、これを廃寺とし、寺号、山号をこの地に移したという。

本立寺でいただいたお土産
御供物、お屠蘇の杯(住職の娘さんがデザイン)、カレンダー、パンフレットなど。

ほかにホッカイロを頂いた。
裏に娘さんデザインのお地蔵さんと「お参りして帰ろ~(かいろ~!)妙建山本立寺」と書いてあった。

千駄木からは遠く、縁ができたとは言えないが、決して忘れられないお寺となった。


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