2020年1月1日水曜日

上田城、上田高校と安藤病院

12月29日、帰省する。
毎年元旦は一人暮らしの叔父と二人で過ごすため、年末長野に帰っていた。
彼が昨年亡くなった後も習慣で年末に帰省する。
母が老いて私の布団を出せなくなり、弟の奥さんに面倒をかけたくないので日帰り。

結婚した息子が、上田城見物で日帰りなら俺も行こうかな、という。
朝早いぞ、と言ったら前夜泊まりに来た。
朝6:15 薄暗いなか家を出る。
この時になって初めて妻が行かないことを知った彼が
「え? そしたら親父の鬱陶しい蘊蓄、一人で聞かなくちゃいけないじゃないか」と不安がる。

大宮発7:18のあさま自由席はガラガラだった。
一人で6人ボックスをいくつも占領できるほどだが、二人席に仲良く座った。
遠くに富士、妙義、浅間をみながら朝食の幸せ。
上田駅8:26着。
城の場所を確認するのに駅前広場で地図を見たのだが。
8:30
ゲームキャラクターのような十勇士。
こんなもの作らなくてもいいのに。
本来、自治体というのはセンスのない観光地化(景観破壊)を防がねばいけないのではないか?

8:33
とりあえず大体の方角に歩き始めてすぐ。
開店前の店の中で若い女性が小学生のように四つん這いでたったったったと、雑巾がけ。見れば登録有形文化財・みすず飴本舗、飯島商店。

昔、どの家にもみすず飴があった。
おいしいというのではなく、信州中野から日帰りで別所温泉、鹿教湯温泉あたりへ行くと定番みやげだったから。頂いて菓子盆の中にビスケットやせんべいと一緒に入れられ、いつまでも残っていた。
8:35
残る城壁の前にさっそく例の十勇士、穴山小助。
置かねばならない必然性がない。
上田人のレベルを疑う。

しかし、10メートルも歩いたら昔の立派な上田の人々を顕彰するパネルがあった。
8:36
明治維新で城内7つの櫓が民間に払い下げられ、4つが破却、2つが1キロほど離れた遊郭に移築された。昭和16年になってその2つが目黒雅叙園に売却、上田を離れて移築されることになり、市民が立ち上がる。みすず飴の飯島氏らが中心になり全額市民の寄付金で買い戻し、もとの上田城内に復元移築した。
物資も人手もない昭和19年着工、完成は24年。
このころの上田は今のような自治体による観光開発など考えていなかったが、未来の我々に大きな財産を残した。
8:40 
市内はあちこちに武家屋敷が残る。

8:43
堀と塀のある所に出たら、県立上田高校だった。
既にここは大手門の内側、上田城三の丸に入っている。

真田、仙石、松平の代々城主は本丸、二の丸でなく、ここ三の丸の中に四方を濠でめぐらせた御館に住んだ。その跡地がそっくり旧制上田中学になり、館の表門は学校の正門になった。
8:44

濠のほとりに史跡説明文かと思ったら上田高校の校歌である。
作詞は上田中学校国漢科だが、 作曲は岡野貞一。
あの故郷、朧月夜、紅葉など日本の名曲を作った人物である。
聞いてみたい気がする。

しかし、この校歌、ここは濠すなわち敷地の外ではないか。
8:46
と思って振り向いたら上田高校同窓会館。
ずいぶん大きい。
高校の正門と濠を挟んで向かい合っている。

そうか、この道路も含めて一帯が上田高校の勢力範囲なのか。
ひょっとして上田というのは、政治、経済、教育あらゆる分野で上田高校出身者が牛耳っているのではなかろうか。

東の正門を過ぎ北に回ってみる。
8:48 氷が張っている。
小さな小石(重ねて極小)を拾って強く投げつけたが割れなかった。
濠の向こうは体育館のようだ。

北側には自転車や車が入れる門がある。
年末29日の日曜だが、クラブ活動だか高校生が一人入っていったので我々も入る。
8:49
土塀の内側の弓道場なんて江戸時代みたいではないか。

校舎の正面まで来たら正門が開いていた。
8:51
中から出て、再び入る。
ついさっき8:47には開いていなかった。
中途半端な開門時間は決まっているのだろうか?
この表門は松平時代1790年に再建されたもの。

8:51 高校の中とは思えない。

8:53
土蔵?の前の黒い石碑は校史だった。
1875年、長野県最初の中学校として第16中学区予科学校が設置された。
のちに各府県に1中学とされたこともあり、小県郡立中学→長野県中学校上田支校→長野県尋常中学上田支校→長野中学上田支校となったが、1900年県立上田中学として独立。
長野、松本、飯田とともに長野県では最も古い4校の一つである。

1975年(昭和50)は上田高校から東大に15人入ったことを覚えている。
(この年、長野高校は35人だった)
今はどうだろう、と公式サイトを見たら過去5年で、1,3,2,1,1であった。
長野県の進学校の学力は、1977年に小学区制にして以来、全国区でなくなって久しい。
8:53 
スーパーグローバルハイスクールに指定されているようだ。

上田高校から北へ行くと広い通りに出た。
大手通り。
旧三の丸の中だから市役所や中学、小学校などが多い。
8:58
上田市上下水道局料金センターの前に猿飛佐助。
また別のパターンの真田十勇士である。
いったい、何十個設置しているのだ?
税金無駄使い、景観劣化以外になんの効果もないことが分からないのか?
上田の民度は落ちているのではないか?

大手通を西に行くと三の丸と二の丸を分ける空堀にぶつかる。
9:01

9:02
上田城は千曲川の河岸段丘の上にできた。
南は断崖だから、東、北、西を濠で囲み、その外が二の丸。
さらに空堀が囲み、その外が三の丸。
本丸、二の丸が公園になっている。

9:03
二の丸から本丸の櫓をみる。
真田昌幸は武田信玄、勝頼の二代に仕えたが、1582年の甲州征伐のあとは織田政権に組み込まれる。しかし3か月後に本能寺の変、信濃は北条、徳川、上杉の草刈り場となった。
真田はとりあえず徳川につく。それまで北の真田本城にいたが、1583年に上田城を築城した。その後上杉につくことで徳川から独立。第一次上田合戦で徳川の大軍を撃退し、豊臣系の大名となっていく。
9:05
二の丸と本丸の間の橋

関ヶ原で昌幸、幸村は西軍についたため九度山に蟄居。上田城は徹底的に破壊された。
東軍についた信之が上田領を安堵されたが、城が破壊されていたため三の丸跡地に屋敷を構えて統治した。
信之は1622年に松代に転封され、そのあと小諸から入った仙石氏が上田城を再建した。
本丸には真田神社がある。
二度の大軍の前にも落ちなかったから受験生に人気があるとか。
井戸は場外に続いているというが。

南の眼下には新幹線。
以前は帰省するたびに在来線の車窓から櫓がよく見えた。しかし新幹線の高架ができてしなの鉄道からは眺めが悪くなった。

9:08
眼下に駐車場。以前来た時を思い出す。
2006年5月3日、2か月前に切除不能のがんが見つかった父の見舞いに、一家5人、叔父から車を借りて帰省した。
子どもたちは大学2年、高校2年、中学2年である。
多分朝5時くらいに埼玉を出たのではなかろうか、小諸で高速道路を下りて、懐古園、国分寺跡とごくごく短時間立ち寄って上田城に来た。
駐車場が広くてすいていて、年に1、2回しか運転しない私はほっとした。

駐車場からは直接、本丸西櫓のすぐ下まで登れる。
上田城は車窓からいつも見ていたが、来たのは2006年が初めてだった。
9:13
本丸から西の二の丸へいく。
上田城というのは天守こそないものの、濠など縄張りが良く残っている。
東京から1時間の新幹線の駅からも歩いてすぐ。
私は松本城より好きだが、あまり有名でない。
六文銭、真田の城でもあり観光資源としてのポテンシャルはかなり高いと思う。

しかし自治体のすることは観光売込みではなく、戦前の上田市民のように、復元と維持である。貴重な上田城は観光業者のためにあるのでなく、現在と将来の国民のためにある。
9:15
二の丸を囲む空堀
この西は三の丸ではなく、絵図では小泉曲輪とある。

9:16
小泉曲輪の北は沼のように見える百間濠になっていて、いまは上田市営球場である。
今、二の丸の周りは空堀だが、絵図を見れば水がある。
9:23
百間濠の西はため池があり、今は上田高校第二グランド

このあたりで戻る。
9:30
櫓内部は冬季休館。
しかし無料で城内くまなく歩ける。
小諸も昔はこのように無料だったのだが。

9:31
再び本丸に入る。真田石。
さっき歩いたときは南の駐車場を見ていたから気づかなかった。
2006年家族で来たときは一番印象に残っている。

二の丸を出て二の丸通りを北へ向かう。
9:39
この時間で氷点下1度。長野や中野より寒いと思う。
JAの温度計の向こう、文化財的建物は小県教育会。
上田高校が小県郡立中学であったように、ここは小県郡という独立地域の首都だった。
第九高等学校を長野県に誘致するとき松本と争ったり、上田蚕糸専門学校を国に設置させたり、教育熱心な土地柄である。

・・・・
今回上田では上田城の他にもう一つ見たいものがあった。
9:44 
安藤病院。なんと52年ぶりである。
1968年(昭和43)夏、弟がここに入院した。
家の前のブドウ畑で小学校2年の弟が古い手製の椅子に乗り、棚に手を伸ばそうとした。
柔らかい土の上で、椅子は足の間隔が狭かったから倒れた。彼は股関節を傷め、歩けなくなってしまった。中野で自転車屋を開業していた昌親叔父が、椅子を作った責任もあるといって病院を探し、遠く離れた上田のここを勧めた。

はるばる父が連れていくと、ギブスをつけられ、すぐ入院となった。
「カンセツエンだそうだ」と暗い顔をした親たちを覚えている。
カンセツエンとは一生歩けなくなるかもしれない病名に思えた。
母が付き添いとなって1か月、夏休みの間中彼らはここにいた。
その数年前に自家用車(ミニバン)を買ったころで、6年生の私は、父や叔父が車で見舞いに来るとき一緒に乗ってきた。
9:45
今は道路も広がり周りもコンクリートになっているが、当時は土の道や空き地が多く、私は病院の周りでバッタをとったりした。水色のツユクサが生えていたことを覚えている。
しかし関節炎とは、まあ、そうだったのだろうが、安易な病名である。
今でも関節炎でいきなりギブスを1か月もはめるのだろうか?
しかし当時の親たちは医者を信じるしかなかった。
9:46
夏休みが終わるころ、我々の前で石膏でできたギブスがノコギリで切断され、細い足が出てきた。

中野の近くには北信総合病院もあったし、長野や飯山には日赤病院もあった。
しかし子供が歩けなくなるかもしれないと思えば父も母も必死だっただろう。
9:47
安藤病院の周りも武家屋敷がある。
ここも三の丸の中だ。
清明小学校の脇から朝通過した市役所、上田高校を再び歩き、駅に向かった。

しなの鉄道は10:23発。
10:30
坂城のそば、狭い谷を国道18号、信越線、千曲川が並行して通る。
新幹線ができる前、帰省するたびに上田城の櫓に続いて見た岩壁である。
今回は息子と話していたせいか、車窓から櫓を見るのを忘れてしまった。

長野駅11:07着
昼めし用に駅ビルの神戸屋でパンを買い
11:41の長野電鉄で中野の実家に向かった。
12:17

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