2020年1月20日月曜日

頌栄女子学院、受験の思い出

1月19日、練習で五反田の品川区総合体育館に来た。
1月5日に島津山を散策したので今回はその北まで足を延ばす。

2週間前立ち寄った本立寺をすぎ、国道1号線を渡りしばらく歩くと頌栄女子学院。

前回来たのは2005年2月。
末娘が中学受験した。
15年ぶりの正門。懐かしい。
あの日の朝、ここは受験生、保護者、塾関係者やら大そう混雑していて、父親らしく落ち着いて激励もできなかった。
Nバッグをしょった娘は、私にバイバイと言って人ごみの中を一人入って行った。
まだ小学校6年、可哀想で、せつなかった。

あの日、15年前の2月5日、
夜中、妻に起こされた。
「・・気持ち悪くて・・だめ・・吐き気がする・・・ストレスかもしれない・・」
上体起こしたままうつむいて苦しそう。
このところ連日暗いうちに起き、弁当作って受験の付添に行っていた彼女も限界だったようだ。
「・・○○ちゃんかわいそう。
・・あんなに頑張ったのに全部落ちちゃって。
・・こんなんだったら1日に雙葉なんか受けさせないで、頌栄の1回目を受けさせてやればよかった・・・」
と泣き出した。
なんと言ったらいいかわからず
「もう今さらしょうがないんだから、眠ったら?」
「・・お弁当作らなくちゃいけない・・・あと30分で目覚まし鳴るから、もう起きる」
でも、彼女は布団の上に上体起こしたままうつむいて動かない。私も完全に目がさめた。
「多分わたし無理だから今日はお父さん連れて行って・・・」
「ああ、連れて行く」
「でも○○ちゃん、嫌がるかなぁ。不安に思うかもしれない」
そのあと妻は下におりていき、私はまた眠ってしまった。

末娘は1月に埼玉の中学2つ受けた。
両方とも練習、滑り止めのつもりが片方は落ちた。

本番の2月、
1日は記念受験。当然不合格
2日、第一志望のT女学園 不合格
3日、T学園 二次 不合格
この日は、夜ネット速報で不合格を確認したあと、翌日4日目の受験校を決めるのが大変だったらしい。4日目は2校願書を出していた。ダンスの練習から帰宅した私に、遅くまで起きていた母娘は、T学園三次に挑戦すると宣言した。T学園三次は募集定員も少なく、偏差値はかなり高い。一次、二次で落ちた人が受かるとも思えないが、やはり第1希望に行きたいという。
 毎年文化祭で姉のダンスを見に行っていて、彼女にとって中学受験というのは、ここに行くことだったようだ。

4日、姉や兄なみの偏差値がないとまず難しいT学園の三次に妻と娘が挑戦している頃、私は、仕事を休んで、唯一合格した埼玉の中学へ〆切ギリギリの入学手続きに行く。

連日ダンスの練習で夜11時過ぎに帰宅していた父親にようやく仕事が回ってきた。
大宮から東武線に乗り換え、日光連山が見える冬の晴れた田んぼを電車が走る。
通勤通学と反対方向だからガラガラ。東岩槻で降りて、のどかな田んぼを歩いた。
田んぼの水は凍っていて、脇には、100円の野菜無人販売に大根。
学校は新しく、評判をよくしようと、一生懸命。よく面倒見てくれそうだった。

そのあと私は五反田に頌栄の願書を出しに行った。T学園3次はほぼ無理と思うので翌5日、受験シーズンの最後にある頌栄2次に挑戦するのだ。
駅を下りると、埼玉とは全然違う都会。校舎も緑が多く、品の良い女性になるような気がして、私も妻もまあ、気に入っていた。
午後から出社。
夕方まで待っていたけど何の連絡もなし。ないから4日日も不合格だったんだろうと推測。例のごとく11時過ぎに帰宅したら、みな寝ていた。
そしてその夜、妻が風邪で吐いて、泣く。
 
5日、土曜日、全て落ちたところに妻が倒れた絶体絶命の中、首都圏最後の試験。
朝2人で並んで駅まで自転車こぐ。娘はけっこう明るくて
「おとうさん、面接のとき、特技だとか言ってダンスしないでよ」とくぎをさす。
ここは両親と3人で面接受けるのだ。
川越線・埼京線で埼玉指扇から大宮、池袋、新宿、渋谷を過ぎ、はるばる恵比寿まで来て山手線に乗り換える。5日目ともなると、もう電車の中も受験小学生はあまり居ない。長い道中、社会の勉強でもしようかと思ったけど、ボーとしたまま、五反田に着いた。

地下鉄1駅のれば正門前の高輪台駅につくが、緩い坂道を歩く。
徒歩10分だが受験生は見えない。

歩きながら、中学受験させるべきではなかった、と思った。
彼女は上の二人と比べてあまり勉強が得意でない。
二人が中学受験したからその流れで塾に行き始めたが、思ったより成績は伸びなかった。
勉強態度が悪いから叱ると泣いた。
それも、もう今日で終わり。最後の最後。

正門前で娘と別れると、本館うら、保護者控室の体育館(講堂)へ向かった。

2020年、15年ぶりに行ってみる。
右に以前はなかったマンション。
グランドメゾン白金台
2009年 (平成21) 7月竣工
今ネットで見たら、77平米1LDK、家賃月35万円

その奥にも当時なかった建物(右)。 頌栄のグロリアホール。
礼拝堂、講堂としても使われる多目的ホールのようだ。
左は頌栄2号館、3号館。

2005年2月5日に戻る。

願書を出したのが、〆切ぎりぎり前日だったからか、面接も午後かなり遅い組になった。午後、解熱剤を飲んでくる妻を待ち、体育館に並べられた椅子で読書したり、面接用の想定質問を考えたり。
「カトリックにもとづく教育をどう思うか? 中等教育にどういう現実的利点があるか?」面接に出るわけがないようなことまで考えた。

眠ったり起きたりしているうちに妻がきた。
だいぶ良くなったというけど、顔色悪い。
節分にまいて拾い集めた殻つき落花生を持ってきていたので勧めた。
朝から食べた殻の多さにあきれながら弱弱しく笑った。
並んで座りいろんなことを話してやると、彼女も少し元気になってきた。

長く待って、面接控え室に移動、また待って、廊下に出ると娘が立っていた。
親子3人、ようやく会えた、という感じ。朝から一人で心細かっただろう。
暗いうちに不本意にも別れた妻は、娘がいとしくて抱きしめたかったのではなかろうか。

面接は娘が想像以上にしっかりしていて、彼女に言わせると私と妻の答えは最悪だったそうだ。
2020-01-19 この柵の向こうも頌栄の校地
港区の保護樹林となっているほど木が茂る斜面の下に、思い出の体育館のほかに校舎1棟と運動場があった。
山の中のような環境が気に入り、数日前には考えてもいなかった頌栄だが、ここでもいいな、と思った。

面接も終了、3人で帰宅。
入学手続した埼玉K学園と頌栄、どっちにしようか。
埼玉の入学金35万円捨てて、頌栄でもいいな。
ただ、埼玉から五反田は遠い、
遅くなるからクラブも思い切りできないし、
友達も作りにくいし、、、、
なんてその夜は大いに迷う。
ところが、

翌6日、日曜の朝、頌栄はネットで発表しないので私が合格発表を見に行く。
3日連続の五反田。
番号、何回見てもなし。

ふつうは本命、チャレンジ、滑り止めを試験日の集中する1日から3日にうまく配し、3回でどこか受かる。それが5日間全滅というのは前代未聞、稀有な例だろう。

本人は5連敗、6連敗でさぞかしショックだろうと思ったが、思ったより元気で、帰宅すると家に居なかった。私が頌栄不合格の電話をした直後でも、兄のキャッチボールに付き合ってから友達と遊びにいったらしい。翌朝は筋肉痛だといって起きてきた。
一方妻の体調はまだ回復しなかった。

4月、娘は8校出願、7校受験でたった一つ受かったK学園に行った。
しかし、そのご生徒会役員、クラス対抗合唱会ではピアノ伴奏に立候補、野球部のマネージャー、学園祭のクラス劇、音楽バンドを作り(独学の)バイオリンを弾き、両親にはまったくない積極性で6年間を目いっぱい楽しんだ。

そして大学受験は姉、兄よりも成績がよく、6年前とは正反対に受けた4校すべて合格、第一志望校に進学した。
頌栄を含め、2月1日から5日まで5回のどれかに合格していたら、6年間の中高生活は優秀な生徒に埋もれ平凡なものになり、たぶん大学受験での成功もなかったのではないか。

15年前、切なかった2月5日の思い出である。

2020年、この日帰宅すると彼女は彼とアパートを見てきたと言った。
3月入籍するらしい。
15年前、彼女は何を考えていただろう?
たぶん忘れているだろうと思い、頌栄女子学院の話はしなかった。


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