2020年1月2日木曜日

済生学舎跡と長谷川泰

12月11日、休暇を取って本郷台地の西側の斜面を歩いた。
目的は本郷の坂道の写真を撮るため。
はるばる文京区の南端まで来て東に曲がり、神田川に向かう石丸坂、建部坂、富士見坂とみて、坂道のブログに書いた。
しかし年内に書けなかった写真と話もある。

富士見坂を上がり右折、本郷給水所公苑の南、順天堂大学センチュリータワーの北壁は蔦で覆われている。
そこに済生学舎発祥の地という案内板がある。
2019-12-11
済生学舎は医師国家試験のための予備校だった。

明治政府は、富国強兵策の一環としてドイツ人医師を招き官立医学校(東大)を建てたものの、たった1校であり、少数エリート教育による官吏、研究、教育者の養成に向かってしまう。

一方で、それまで無免許であったわが国の医師について今後、西洋医学を学び国家試験に合格したものでなくてはならないと規定したため、一般国民を済(すく)うための医師の育成に大きな問題を生じた。

その結果、各地で新しい国家試験のための医学予備校が設立された。
とくに明治9年、長谷川泰によって設立された済生学舎は、受験希望者を多く集めた。
東京にあって無試験でいつでも誰でも入学でき、しかも医術開業試験と同じドイツ医学を学んだ東大医学部関係者が講師に来ていたからだ。

ここまでは以前薬学昔々で書いた。

案内板の裏に回ると説明がある。

はて? 発祥の地が現「本郷2-7-8」とあるが、(本郷元町1丁目66番地)それはここではなく、道路の反対側、給水所公苑の敷地である。
明治12年冬に焼失、移転したのが同じ「本郷2-7-8」というのは、今の給水所公苑のあたりで動いたということか?
2つの意味でよく分からない案内板である。

明治15年、現在の湯島ガーデンパレスの場所に移った後の方が有名である。

この学校は専門学校令のでた明治36年に廃止されるまで全国最大規模を誇り、吉岡弥生、野口英世はじめ9000人以上の試験合格者を出した。
医師全体は4万3000人(明治25年)、うち新しい西洋医は半数の2万人程度と考えられるから、この予備校の明治医学界への影響は大きかった。

廃止に当たっては長谷川と山縣有朋の確執が言われている。
長岡藩と長州藩の出身であるがどうだろう?

長谷川泰という人物は薬学と縁が深い。
以前ブログにも書いたが長岡出身。
東大出身者が世に出てくる前の時代、医療、医学の中心にいた。
薬学雑誌の創刊号にも祝辞を寄せている。
しかし衆議院議員となり、医薬分業運動をつぶそうとした医師たちの中心にいたのも彼である。

さて、明治36年、済生学舎が廃止されると学生達の中から有志が集り、廃止宣言の10日後には同じ教師により済生学舎同窓医学講習会として神田三崎町で授業が行われた。
翌年には生え抜きの講師、石川清忠が私立東京医学校を設立。同じく講師の桂秀馬、長谷川のかつての書生・長岡出身の川上元治郎らの協力で、山根正次が私立日本医学校を設立した。

1910年(明治43年)3月 、二つの医学校が合併し日本医学専門学校となり、10月には 私立東京医学校のあった千駄木に統合される。大正15年には日本医科大学に昇格した。
(ただし日本医大の公式サイトでは、日本医学校を前身とし、東京医学校を吸収したとするようである)。
だからよく見る明治40年のgoo地図の千駄木には東京医学校と書いてある。


再び富士見坂を南に戻って、順天堂大学センチュリータワーの正面に来ると、ここにも済生学舎発祥の地の碑があった。

こちらは順天堂が建てたので、長谷川泰が佐倉順天堂の佐藤尚中、松本良順(初代堂主・泰然の実子)に学んだことから書いている。
これを読むと明治9年の発祥の地はやはり水道局のほうで、明治12年の火災で移転したのが、水道局の南に隣接するセンチュリータワーの一角ということか。
すると裏の案内板は両方の場所の中間に建てていることになる。
明治15年にはここから今湯島ガーデンパレスのあるところに移転した。

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