2020年8月14日金曜日

田中角栄邸の今昔

梅雨のおわり7月26日、文京区の西の端から目白通りを東に歩く。
日本女子大を過ぎると田中という表札。
15:43
初めてこの門をみたのは1983年10月、会社の305周年記念パーティが椿山荘であったとき。帰りに目白駅まで歩いて気が付いた。

田中は1972年に総理就任後、74年に金脈問題で首相辞任、76年にはロッキード問題が浮上した。しかし1983年というのはがまだまだ力があった。大平、中曽根らは田中の支持がなければ総理になれなかった。
私が門前を通った1983年10月はロッキード裁判の一審で懲役4年の有罪判決が出て即日控訴した月である。
しかし、12月の総選挙では22万票の圧倒的支持で当選。判決は関係なかった。
このとき参議院議員を辞めて新潟3区から出た野坂昭如は落選した。
あの頃の目白御殿は、毎日有力政治家が門を出入りしていた。

枡形門のように、門が二重になっている。
ここでも内部はうかがえず。
記憶ではだいぶ間口が狭くなった気がする。

しかし1985年2月7日、田中派内で竹下登が創生会を結成、怒りまくった田中は毎日酒を飲み、20日後に脳梗塞で倒れた。このとき66歳。言語障害、行動障害が残り、以後、国会には一度も登院できなかった。

1987年7月、竹下が経世会を旗揚げ。正式に田中派から分かれる。
10月 、竹下が謝罪のため田中邸を訪問(皇民党事件)。しかし眞紀子に門前払いされた。
11月 、 竹下内閣が発足。


1918年(大正7年)生まれ、
新潟に理研関連企業があったことから、上京、谷中の大河内正敏邸を訪ねるも会えず。建築事務所に就職、独立したころ、偶然大河内に会い、その後、理研の仕事をもらうようになって成長した。(科学者たちの自由な学園、宮田親平)

1972年7月、小学校卒の人がわずか54歳で総理大臣となった。
このとき私は高校1年の15歳。
「あと10年たっても64歳ですよ、大変なことです」とテレビで誰かが言ったのを覚えている。
1993年、寂しく死去。
そのあと宅地を切り売りしたのだろう。
2020-07-26 15:45
すぐ西隣は日本女子大学新泉山館

2020-07-26 15:46
田中邸東は目白台運動公園。

昭和を代表する人物としてアンケートを取ったら
1位、昭和天皇、2位、田中角栄
らしい。

昔の田中邸はどうだったか?
国土地理院地図 1990年ころ 
これを見れば道路側の大部分、北西の角は日本女子大になり、田中邸の一部は破壊されている。

google2020

梅雨が明けた8月3日、再訪した。
日本女子大新泉山館の脇の道を入っていく。
鉄条網

南の端まで来たが行き止まり。
塀は高く何も見えず。

ひとつ、田中邸であることを示すものを発見した。
屋敷内に猛犬放し飼い 
要注意
文京区目白台1-19-12(田中)
という板。

田中派から竹下派七奉行となった渡部恒三が、晩年にテレビでこんなことを回想していた。

「初めて選挙に出るとき、自民党の公認が取れず無所属から出た。ところが当選すると手のひらを返したように公認するという。角さんに呼ばれ500万の紙封筒を渡された。冗談じゃない、と断ったら、「まあ、邪魔になるもんじゃないから」と強引に押し付ける。それでも断ったら、封筒をびりびり破って、私に抱き着くようにして背広のポケットに札束を無理やりねじりこんだんだ。あれにはびっくりしたねぇ。」




お出かけ 目次へ  (ご近所から遠くまで

千駄木菜園 (総合)目次 (お出かけなど)

0 件のコメント:

コメントを投稿