2023年8月21日月曜日

中野平中学の記憶、創立の経緯、高丘と平野

 8月10日、わけあって飯山線立ヶ花駅から実家まで歩いている。

(別ブログ)
10:54に駅を出発し、途中の中学校に着いた。
ここまでまっすぐ来れば4.0キロメートル、50分だが、立ヶ花、安源寺の村中に立ち寄ったりしたから、炎天下を82分歩いてきた。
12:16
中野平中学跡地と歩道橋
歩道橋は私が中学2年に進級する昭和45(1970)年3月にできた。
歩道橋の下には土埃にまみれて誰も入らないようなバスの待合所があった。

中野平中学校は私の母校だが、すぐ北の田んぼの真ん中に新校舎を建て、2000年12月教室棟が、2002年には残りの体育館などが竣工、引っ越した。しばらく旧校舎はそのままあったが、とうとう見に行かずに壊されてしまった。

跡地には市役所が来るという話があった。
中野市は2005年に千曲川の向こうの豊田村を吸収合併したから市域が西に広がり、用地として最適であった。しかし現庁舎のある町の人々が中心街の空洞化を理由に反対したのかもしれない。

結局、広大な駐車場を持つカワチ薬品、かっぱ寿司、フランセーズ悠なかの(特養ホーム)になった。

県道から北に入って正門のあった場所に行ってみる。
12:18 正門あたり
カワチ薬品の裏の壁があり、母校の面影は見事なほど何もない。
懐かしの旧校舎は空っぽになってからも長年残っていたのだから、なんでもっと早く来なかったのだろうと後悔した。
幸い、中野平中学校竣工記念誌が手元にあった。
校章は中の字にリンゴと稲穂をデザインしたもの。
本書は総合竣工式のあと2002年12月に刊行されたもので、新校舎の記述が中心だが、創立以来の沿革など旧校舎に関する記事もあった。そこにあった懐かしい写真を転載する。
創立30周年の全景(1987)
私が卒業したのは1972年3月だから上の写真はその15年あとだが、ほとんど変わっていない。
違いを探せば、北東の隅、プールの北に格技室?ができ、周囲に民家が増えている。


今回、書棚に入れっぱなしだった竣工記念誌を初めて読んだ。
それによれば、
中野平中学校は昭和33年(1958)5月1日創立とされる。
まだ校舎はなかった。

戦後生まれた新制中学は、高等小学校2年間に1年間プラスしたものだから、各小学校に併設された。しかし戦後ベビーブームの子供たちが学齢に達し、どこも手狭になり、独立した統合中学の開設が望まれた。
中野市では9つの小学校に9つの中学校があったが、中心街を含む中南部、平野・高丘を含む西部、そして北部と、3つの中学に統合されることになった。

つまり創立の昭和33年(1958)は制度上の平野中学、高丘中学が廃止され、西部中学(仮称)平野部、高丘部が誕生し、そして校舎の建築が着工された年である。

年が明けて中野平中学と改称、校章、校歌が制定された。
第1回卒業生は昭和34年3月、校舎は第一期北校舎ができただけで、卒業式は相変わらず各小学校にあった平野部、高丘部で別々に行われた。できたばかりの校歌を歌ったようだ。

第2回卒業生は3年生のおわり、34年12月に校舎が完成、生徒一人一人が木製の椅子を抱いて田んぼの道を蟻のように歩き、新校舎に入ったという。3か月だけ新校舎で過ごし、(高丘クラスと平野クラスは混ぜなかったが)実質初代の統合中野平中学校生として、35年3月に卒業した。体育館などは完成していなかったため、廊下の交差点に式台を作り、四方向の廊下に平野2クラス、高丘2クラスの卒業生が参列、校長は四方をぐるぐる回りながら式辞を述べたという。

第3回卒業生は、高丘では1年生の時に大俣地区の生徒が編入され、2年生の時に移転、平野の生徒と一緒になった。プールはなくグランドも整備されておらず、水泳やクラスマッチは平野小学校を借りた。36年3月卒業。

第4回卒業生は37年3月卒業。中学1年のときに移転、高丘と平野が一緒になった。高丘から来た生徒は、小高い地域から来たから学校のまわりに澄んだ水が豊かに流れている小川が新鮮だった、と卒業生の寄稿文にある。

私は昭和47年(1972)3月卒業だから、第14回卒業生ということになる。
たぶん草創期のころ。県道の狭さが目立つ。
しかし校舎などは私の記憶と全く同じ。

高丘と平野。
隣り合う同規模の二つの小学校が一緒になるのだから、ライバルとしてお互いを意識する。
入学するときはどんなかわいい女子がいるのだろう?どんな男がいるのだろう?大いに興味があったものだ。そして同じ学年だけでなく、スポーツや生徒会で活躍している上級生たちに対しても、平野か高丘か、という目を向けた。

私の学年に関しては高丘出身者のほうが何事も積極的で、勉強、スポーツもできたように思う。
しかし草創期の昭和30年代に通った叔母によれば、平野のほうが何でもできたという。
しかも平野出身者は強気で、統合中学の名前を平野中学にするべきだという人もいたらしい。統合名「中野平」は平野中学の逆だからいいではないか、となだめたとか。
統合前の平野中学と高丘中学の校章

どうしてそんなに過去の平野が強かったのか、昔は不思議だったのだが、今回記念誌を読んで初めて分かった。
まず建設の経緯である。

当時は戦後まだ10年しか経っていない。子供が増えて建設は急を要したが中野市は金がなかった。場所が決まったところから順に建設することになった。
そこで立ち上がったのが平野地区江部の山田顕五氏だった。北信濃随一の豪農、代々山田庄左エ門を名乗った大地主の当主で、まだ40代だったが人徳もあった。建設予定地が平野と高丘の間にあれば良いのだが、まとまった土地はなかなか得られるものではない。彼は連日連夜地権者の間を奔走し、ようやく平野の西のほう、片塩と江部の間、まんざき(松崎)田んぼに用地を得た。
しかし、今では考えられないが、金融機関は市に(市長、助役、収入役の印があっても)金を貸さなかった。そこで、彼が保証人となり、建設委員会が肩代わりし、中野市があとで返済したという。

以上、地域紙「北信ローカル」の記者兼編集者の佐藤君雄さんが「記念誌」編集委員の一人としてあとがきに書いていらした。

こうして出来上がった中学の場所は、平野でも高丘寄りの片塩に近い。しかし中心の平野小学校にも近く、平野の中学という印象が強かったことが、平野が強気だった要因か。

また、平野の子供のほうが何でもできたというのは、高丘にはプールがなかったこともある。平野の人はみな水泳がうまかったが、高丘はせいぜい親の目を盗んで篠井川、千曲川で遊ぶくらいしかできなかったから、ほとんどの人が泳げなかったらしい。(第4回卒業生寄稿文)
また、平野は中野の町に隣接していて買い物にも歩いて行けるが、高丘は遠かった。車社会でなかった昭和30年代、この差は大きく、平野の生徒の優越感、自信につながったかもしれない。

しかし、我々の学年は今面々を思い出すと男も女も平野出身者はおとなしく、高丘は元気で目立つ人が多かった。それぞれの小学校の校風というものだろう。

竣工記念誌にあった旧校舎の写真を何枚か載せる。
1.正面玄関(南校舎)  2.教室風景
3.管理棟(南校舎1階) 4.正門

1.3.玄関のある南校舎の1階は校長室や職員室など。2階は3年生の教室だった。
2.教室の机、いすは木製だったかスチールだったか記憶にない。
4.正門を入ると右は校庭、野球のバックネットがあり、土手にはかねちょろがよくいた。左は技術室、理科室が続く。
1.プールと第二体育館 2.冬の校舎と高社山
3.体育館 4.経緯度標

1.プールの北、第二体育館(格技室)は私の時代にはなかった。
3.三年生の冬、我がクラスの男子は休み時間になると便所に降りたついでに体育館の南側に行きたむろした。日の当たる壁に、電線の雀のように並んでおしゃべりしていた。

さて、卒業して51年、旧校舎の敷地のまわりをまわってみる。
12:17
正門跡のそば、技術室跡の南側あたりに川が流れている。
かつてグランドと校舎の間にあった川の名残か。
当時、大部分は暗渠にしていたが、一部は石段があって水を汲んだり足を洗ったりするようになっていた。もっとも私の時代には体育のあと足を洗うようなこともなかったが。
12:19
学校の裏に回るとかつての田んぼだったところに新校舎が建っていた。
中央にとんがり屋根の展望台が目立つが、興味はないのでこれ以上近づかず。
12:21
フランセーズ悠なかの(特養ホーム)
このあたり、北東の隅、体育館の北の音楽室があったところ。

高輪ゲートウェイを思わせるヘンテコな名前の特養ホームの駐車場に無断で入っていく。
このあたりにプールがあった。
12:23
駐車場の南の端、つまりプールの南。
藪の中に庭石のような大石がいくつか残っていた。
12:23
藪の中に足を踏み入れ痕跡を探していると、「力」を表す造形を3つ合わせたモニュメントを見つけた。
見覚えがある。先輩の残した卒業記念物だろう。
新校舎に持って行ってもらえず、放置されたまま。
そのうち朽ち果て廃棄されるのだろうか。
12:26
体育館の南に当たる場所。
地面のコンクリートや松などの植木は特養ホームでなく、中学校時代のものに見える。
12:26
特養ホームとカワチ薬品の境界
このあたりは左がグラウンド、右が体育館、向こうに南校舎が見えた場所である。
かつて半地下だった川は、地上に出て狭い水路になっていた。

これと同じアングルで撮った白黒写真があった。
南校舎(左)と体育館の南の壁

中央の植え込みを見て思い出した。
中学3年の陸上クラスマッチ、私は2000メートル走にエントリーした。女子にいいところを見せたくて、数日前から岩船と西条の間の果樹園の間を何回か走って準備した。

当日、クラスで同じ種目にエントリーした何人かと集まってウォーミングアップしたりしたが、疲れてしまうので出番まで植込みのまわりの芝生でまったり座ってくつろぐことにした。ところがプログラムが伸びてなかなか出番にならない。
そのうち寝転んでいたK山が女子のブルマでも見ていたのか、●起してしまった。誰かが面白がって触ったりした。肝心のレースなど他は覚えておらず、くだらないことだけ記憶にある。
12:26
カワチ薬品とかっぱ寿司の駐車場
私やK山が寝ころんでいた芝生の植え込みからグラウンドを見たのと同じ方向である。

岩船や吉田の生徒は西の正門ではなく、県道から東門に入り、写真の左、グラウンドから一段高くなっている道を通ってきた。

再び竣工記念誌から写真を借りる。
バレーボールはグランドの東の端だった。
私は球技一般が苦手だった。
丸谷仁子がサーブを豪快に空振りした姿を思い出す。
フォークダンス
我々が3年生のとき初めて文化祭が行われた。生徒会で文化祭名やプログラムを考えた。
私は選挙管理委員長で年1回しか仕事がなかったが一応、生徒会役員の一人だった。仕事がない無能大臣でも一応閣議に出るように、準備会議に出ていた。
試行錯誤の最初だから2日間を埋める出し物など考えつかず、有力役員の鈴木京子の希望もあって両日とも午前午後にフォークダンスを入れた。
美術の時間だったのか、自発的だったのか、私は黒地に黄色い落ち葉を貼りつめた文化祭ポスターを作った。
応援部
白黒写真だが顔を見ると我々より後の時代のようだ。
中野市と下高井郡(中野平、南宮、高社、山之内、木島平、野沢温泉、市川の7中学)の地区大会前には運動部の壮行会があった。
体育館(兼講堂)
剣道部の練習場所は、舞台で時代劇でもするように、体育館の狭いステージの上だった。
もちろんフロアとの間にはネットがあり、バスケット部のボールにあたることはない。ネットの網目の一つを相手の顔とみて素振りした。
剣道部は我々が2年になったとき、学校が廃品回収の収益で防具を5セット買って発足した。ほとんど我々のクラスばかり、まとめて入った。
水泳クラスマッチと中山晋平音楽祭

3年生の時突然クロールが速くなってクラスマッチにも出た。
確か25メートル無呼吸で17秒だった。

しかし連日、放課後になるとプールで遊んでいて(当時は監視員もなく自由にいつまでも使えた)、ある日、飛び込みに失敗、底に激突し顔面を強打した。
やっとプールサイドに上がると、新井信行がやってきて「歯がない」と笑った。そのあと、呆然と座り込んでいる私を置いて、この日泳いでいたクラスのもの全員が広いプールに潜り、ついに小さな歯のかけらを探し出してくれた。
そのあとすぐ、青木歯科に行き、くっつけてもらおうとしたのだが、治療はあれよあれよとすすみ、かけらを出す前に金歯をつけられてしまった。
以後、高校、大学と大事な時代、一番目立つ歯はきらりと光るようになり、顔に若者らしいさわやかさがなくなった。幸い結婚相手は見つかったが、結婚後、白い義歯に替えさせられた。
12:31
ぐるっと回って大した遺構は見つけられず、もとの歩道橋に戻ってきた。
「高社とこしえに北にそびえたち、南果てしなき野には香る風、ここ松崎に地を占めて、」という校歌だが、野はなくなり、高社山も小さくなったような気がする。

当時、放課後になると歩道橋を渡る人はほとんどおらず、倉島郁夫や高見沢誠と上っておしゃべりした。好きな女子とか、返って来たテストの点数とか。
中学2年9月 燕岳登山
中学3年4月、油壷、鎌倉を含む東京方面への修学旅行

3年2組はいいクラスだった。
もちろんいじめなどなかった。(もっとも当時は全国的になかった)
いじめをしようとしたらそいつが孤立しただろう。
12:32
歩道橋の上で目を反対に転ずると昔通りの細い道が残っていた。
左側に沢田啓子の家があったが、表札は違っていた。
このすぐ先に平野小学校がある。

(続く)

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