2023年8月18日金曜日

高丘小学校と工業団地、安源寺、片塩の同級生

8月10日、お盆を前に長野の実家に日帰りで行ってきた。

雲一つない猛暑日、最高気温35.9度(長野市)にもなった炎天下を、飯山線立ヶ花駅から実家まで5.3キロメートルをこっそり歩いている。
実家や家族に話すと、心配されたり奇行を馬鹿にされたりするから。
11:32
草間のバス停。
10:54に立ヶ花駅を出発し、まっすぐ来れば1.5キロメートル、19分だが、あちこち寄り道したので38分歩いている。ここまで、歩いている人は誰もいなかった。

草間のバス停の待合所は、まるで何十年も使われていないかのように、壁の宣伝は古かった。

ここに高丘小学校がある。
11:33
 中野市立高丘小学校
帰宅後に調べて驚いた。生徒数158人、職員17人(2019年)という。
過疎というより少子化の影響で、1学年わずか20人程度。
しかし、我々のころはこの3倍、1学年60人ほどいた。

この高丘小学校と私の卒業した平野小学校の2つの小学校の児童は、中野平中学校に入学して一緒になる。高丘も平野も農村部の小学校で規模も同じ、30人クラスが2つある小学校だった。
クラスの名前も高丘は東組、西組、平野は松組、竹組だったから、1学年2クラス、60人というのは、ずっと長い間安定していたのだろう。(ただし我々の学年は5年生のときから花組、雪組になった)
11:34
1903年創立、校舎は当然のように新しくなっていた。

高校3年の夏休み、予備校などもないから数学の先生が数日だけ学校で補習をやってくれた。自由参加だったが、こちらも大学入試事情がよく分かっていないから、まじめに出た。その帰り、立ヶ花から自転車をこいでいると雷が鳴り始めた。当時は周りに建造物が何もなく延々と果樹園がつづき、動いているものが自分だけ、いかにも落雷の標的になりそうだった。必死にペダルをこぎ、近くに落ちたような大音響と同時に、道路わきにあった高丘小学校に逃げ込んだ。木造校舎の正面玄関で雨宿りをして雷雲の過ぎ去るのを待った。人生で一番雷が恐ろしいと思った日だった。

このあたり、50年前は何もない丘陵地帯にまっすぐな道路が1本だけあったが、いまや両側にくまごろう食堂やらガソリンスタンドやら、さまざまな建物と、新たに切り開かれた新しい道路ができている。

その極めつけは高丘工業団地。
私が高校を終えて上京した4年後の1979年から開発、分譲を始めた。
11:37
高丘工業団地入口
今回、新しいアプローチ道路もできたことに気が付いた。
高丘工業団地全景(中野市公式サイトから)
左下が信州中野IC、左上が千曲川。中央に高丘小学校。
右上から来る志賀中野有料道路に沿って立地している。
全体面積26ヘクタール、区画面積21ヘクタール。
11:39
オギワラ精機(農業機器、高見沢の子会社)、アクティオ(レンタル建設機器)、そして工業団地の中核をなす新光電気が歩いてきた県道から見える。
山は斑尾。

新光電気は1946年更北村(現長野市)で創業、富士通の関連会社として発展した。会社の沿革を見れば1979年に従業員は1000人を超え、翌1980年にこの高丘工業団地に工場を建て、1984年に2000人、翌85年に3000人を超えた。
この時期、東京や地元で就職した中学の同級生も数多くここに転職した。何人いたか、記憶があいまいだが、いずれにせよ皆定年退職しているはず。
現在4,848名(連結5,596名)(2023年3月)の一部上場企業である。

相変わらず誰も歩いていない道路を東に進む。
道が平たんになった。
11:42
高丘郵便局は昔から道路わきでほこりっぽかったが、廃屋になっていた。
11:44
このあたり頂上。
菓子司「しおざき」の看板とともに中野の市街地がみえてきた。
11:44
高丘郵便局は道路の向かいに少し引っ込んで新しくなっていた。
11:46
県道の崖から中野市街地を見る。
かつては自分の家が分かった。
年取って目が悪くなったのではない。
以前は岩船のお寺の赤い大屋根とか、お宮の森、北信病院とかの目印に加え、田んぼから何軒目と数えられたのだが、その田んぼにも住宅が立ち並び市街地が拡大し、また、かつての目印を隠すように新しい大きな建物が建ってしまった。つまり私の知らない町になってしまった。
延徳方面
たしか安源寺の高見沢誠の家もこのあたりだったと思うが、もう分からない。
彼は高校卒業後、今の若者には珍しく、どこにも勤めずいきなり農家を継いだ。
遠足の前に着ていくもので悩むなど、恥ずかしがることや躊躇すること、心配することが私と似ていて、休み時間はよく一緒に便所へ行く仲だった。
11:47
少し歩いて再び崖から南を見る。
手前は安源寺だが、その先は草間の部落になる。
1975年初めて帰省した夏休みのある夜、高校を卒業して各地に散ってから初めての同級会の相談をするというので草間の勝山隆夫の部屋に数人集まった。彼はトランペットがふけ音楽が得意だったが、最近ジルバを覚えたといって、桜田淳子「十七の夏」をかけ踊って見せた。

歩いてきた県道が東の中野市街地に向かって大きく開け、見晴らしのいい地点にT字路がある。安源寺から上今井橋を経て飯綱町まで行く三水中野線(県道505号)である。
この道は、T字路から始まってすぐ、安源寺部落の氏神、小内(おうち)八幡神社の境内を分断する。
11:49
小内八幡神社と県道
9世紀の創建といわれ、近隣八カ村の総鎮守だった。延喜式神名帳(927)に高井郡6社の一つとして記載がある。室町戦国期は高梨氏の庇護を受けたが、上杉武田の川中島合戦で本殿焼失、その後の国替えで高梨は去り、本殿は飯山藩主松平忠倶が再建したという。江戸時代から馬市が有名で、越後などからも人馬が集まった。
11:49
分断された神社の参道は西に200メートルほど伸びている。
11:50
本殿を振り返る。
11:49
神社の北にあった高見沢秀茂の家は駐車場になっていた。
彼の家は「株式会社高見沢」で、おじいさんが創業社長、父親が専務、学校一の資産家だった。
その後、彼は順当に跡を継ぎ社長となったが、たまにもらう年賀状の住所は長野市になっていた。本社に近い便利なところに自宅を建て、ここを処分したのだろう。

彼はがっしりした体格に物おじしない性格、何事も積極的だった。我々よりませていてエッチな話だけでなく、一般知識もあったから、授業中、先生の問いかけにはうるさいくらいすぐ応答していた。先生も授業が楽だっただろう。野球部ではキャッチャー、みんなの人気者で、3年間心配事、悩みなど何もないような男だった(恋愛は知らないが)。

我々の中学から4年制大学に行く者は極めて珍しかったから、私と話が合ったのか、帰省した時は実家の畑しか行かない出不精の私を誘ってくれ、町田憲一と3人でたびたび会った。長野に免許取り立ての彼の車で行ったときは怖かった。
スキーにもいった。いちばん近くの湯田中ごりん高原で軽く1~2時間滑って、帰りに栗和田のバイパスの食堂で遅い昼食をとったとき、彼は豚汁を残した。痛風になったという。若くして贅沢なものばっかり食ってるからだと憲一と言ってやった。
11:52
三水中野線(県道505号)は広い立派な道になっていた。
ここをまっすぐ行って右に行けば牧山(栗林)の部落。
松島周一の家は牧山部落内でも山に一番近く浜津が池のそば。彼はしばしば不良的な行動をとったが、顔は優しく盆栽が趣味だった。私は彼の影響を受け、日曜など二人してよく山中を歩いてランや松などの幼苗をとった。あるとき彼の家を自転車で訪ねると、彼は軽トラを運転して山の畑のほうから下りてきた。ずいぶん慣れた様子だった。

この道を牧山のほうに曲がらずまっすぐ行けば千曲川の旧川床に出て、その先、上今井橋を渡らずに北へ行くと大俣。
中学の通学区で立ヶ花とともに一番遠い部落である。そもそも大俣は平野でも高丘でもなく、長丘地籍であった。
ここには倉島郁夫と浅沼利夫がいた。
倉島は以前、録風機のことでブログに書いた。

浅沼はよく見るとハンサムな顔をしていたが、本人もまわりも最後まで気づかなかった。英語の本読みを当てらると、早口言葉のようにして異常に速いスピードで読み切る男で、中野平中学から長野高校に進学した秀才3人のうちの一人である。
11:53
県道から西のほうに降りていく安源寺の村内の道も景色が変わるほど広くなっていた。
この右側に酒井昭利の家があった。

彼は昭和44年(1969)4月、1年2組の教室で初めて見たときから元気が良かった。言語的反射神経と語彙力に優れ、つまりダジャレを連発していた。席が後ろの高見沢秀茂とやりあうだけでなく、ボーっとしている前の小林睦美、さらにその前の言葉少なな小林広行もいじっていた。根が優しいのだろう、皆にちょっかいを出した。

運動神経も抜群だったが、当時スポーツ好きの男子がみんな入った野球部などには入らず、私と同じく、ちょっとふざけた運動部だった剣道部に入った。顧問も上級性もいなくて一番偉いのが小林睦美だったから、遊びのような部活だった。

女の体についての知識の深さは、藤沢新浩と双璧をなしたが、その正確さについて我々は判断できなかった。
女子にはもてたが、3年の秋に失恋した。すると、彼はその悔しさ、苦しさを吹っ切るために勉強に打ち込み、わずか1~2か月で英語が学年でトップクラスになってしまった。

高校は別だったから会う機会はなくなった。
お互い就職、進学して長野を離れたある夏、帰省して東京に帰るとき、彼も車で東京に行くというので乗せてもらった。志賀草津道路が白根山のふもとに来たとき、路傍の駐車場に入り、朝食のおにぎりを食べた。確か彼は名古屋のほうに就職したと思ったのだが、東京のどこに行ったのか、私はどこで降ろされたのか、どんな話をしたのか記憶にない。

いつだったかの同級会のとき、別人かと思うような太った体で遅れてきた。後から思うと心臓が悪くむくんでいたのだろう。
その後、彼は若くして亡くなった。東京でそれを知り、1か月くらい遅れて憲一と焼香に来た。安源寺の八幡神社に車を停めたことを思い出す。

来た道を戻る途中、高見沢の特産事業部(食と農業関連)の事業所があった。
11:56
その前の銅像に見覚えがあった。たぶん高見沢の家の庭にあったものだ。

この安源寺には小林広行もいた。幼馴染?の高見沢けさみが「ひろちゃん、ひろちゃん」と慕っていたが、クールでスマートな男だった。あまり話をしなかったが、水泳がクラスで一番速く、クラスマッチのときだったか、私に「飛び込んだら手のひらを上に向けてすぐ浮き上がって水をかき始めたほうがいい」とアドバイスしてくれた。大人になって同級会で中野市の農業の話になったとき、分析が鋭くて驚いたことがある。

再び小内八幡神社の前を通る。
11:57
安源寺の秋祭りは近隣で一番賑やかで、夜になると中学生たちは隣接する片塩、草間、栗林だけでなく他からも集まった。私も、気になっている女子に会えるかもしれないと期待して、一度だけ遠く岩船から来たことがある。

11:59
安源寺は高丘地区の一番東で、坂を東に降りれば平野地区の西の端、片塩になる。
12:03
左の旧道を行けば片塩の村中に入り、片塩のお宮や吉見の家があった。

昭和47年3月(1972)、3年2組が卒業するにあたり、吉見邦夫は、皆仲が良くて別れを惜しむ15歳の我々のまとめ役となってくれた。卒業文集には森田健作の「友達よなくんじゃない。今はつら~いけど」の歌詞を書いていた。酒井や秀茂のようにはふざけないリーダーで、鈴木京子がクラスで一番信頼していた男だった。
彼は高校を卒業して板橋の高砂鉄工に就職、私は新河岸の寮に2回ほど遊びに行った。買ったばかりのステレオがあり、中島みゆきの「時代」や太陽に吠えろのテーマを聞かせてもらった。初めて聞いた「アザミ嬢のララバイ」には感動した。彼は数年で辞めて故郷に帰った。たしか新光電気に転職したのではなかったか。
12:04
大川
片塩の人は大川といっていたが、いま標識を見れば「一級河川・江部川」とある。
江部と草間の間を通り、篠井川と合流、そして千曲にそそぐ。
昔は川岸がこれほど小ぎれいではなく、川幅も広く、水量があって、いかにも大魚が潜んでいそうな流れだった。

大川のこのすぐ下流に安部倫世の家があった。プライベートビーチならぬプライベートリバーというか、庭先に大きな木の枝が鬱蒼とかかる大川が流れていた。彼は中学3年の冬、松島美智子からベージュと焦げ茶色の手編みマフラーをもらった。松島はそれまで目立たなかったが、運動神経も頭もよく、卒業するときになって私はようやく彼女の魅力に気が付いた。
12:06
「教育歴史博物館」なるものができていた。今調べたら2003年からあったようだ。
「田中新左ェ門・辨蔵記念館」「田中歴史文化財団」「人に教育 教育は人なり 田中武徳」「江戸・明治・大正時代の教育史を今に伝える(国内最大級の展示)」と看板がいっぱいあるが、立ち寄らず先を急いだ。

この看板のあたり、道の反対側(南)に小林睦美の家があった。
ちょっとぼけたところもあったが、癖のある酒井や私も剣道部のキャプテンとして彼に一目置いていた。
彼は足の裏を鍛えなくてはならないと、裸足で裏山を走る練習メニューを考えた。竹刀を片手に七瀬から登り、大俣に降りて安源寺を周ってくるという長距離で、途中で素振りが入る。県道以外は未舗装の土の道で、所により木の根があったり砂利道だったりする。道端の農家のばあさんが古い靴を貸してやると、憐れんでくれた。
夏の暑い時期は水中で体を鍛えると言って、毎日放課後はプールで遊んだ。もちろん野球部やバレー部、バスケット部はちゃんと練習していた。
暑くてもたまには防具をつけて打ち合いをしなくてはいけない。そんなとき外のほうが風があって涼しい、と夕方のグラウンドでやった。ところが、だだっ広くて範囲が決まっていないからどこまでも逃げられる。ただ疲れただけだった。こんな練習にもみんな従ったのは小林睦美の人徳による。
彼も若くして亡くなった。
12:09 命徳寺
手前の畑に「ミヤマ・ノコギリ・カブトムシ販売中」(サカイ)の看板。
カブトムシはペア販売で300円~ 
12:11 片塩交差点
この奥が西江部。
この5月に4人殺害事件が起きたとき、この先が封鎖され、この交差点がテレビに映った。
12:15
ようやく中学の前の歩道橋が見えた。
右側のファミマの場所には、最近までかっぱ寿司があったが、50年前はカントリーというドライブインレストランだった。
そうだ、安源寺・草間の同級生で一人忘れていた。藤川次男。
我々は買い食いするといってもせいぜい菓子パンくらいだったが、彼は学校の真ん前のカントリーでラーメンを食べているところを先生に見つかった。勉強もスポーツもセンス良くこなし、口数は少ないが存在感があった。音楽のテスト(皆一人ずつ好きな歌を歌う・伴奏無し)では尾崎紀世彦「また会う日まで」をイントロから身振りまで入れてかっこよく決めた。
我々が高校卒業して上京した年の秋か冬だったか、突然連絡があり、赤坂見附で会うと自己啓発セミナーの勧誘だった。相変わらずさわやかで、私に気がないとみるとそれ以上誘いもせず、世間話をして別れた。

皆元気にしているだろうか?
会いたいな。

(続く)

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