2023年8月27日日曜日

平野小学校、愛育学校と明治の学制

長野市で35.9度にもなった猛暑の8月10日、
物好きにも、飯山線立ヶ花駅からてくてく歩いて、母校、平野小学校まできた。
途中、立ヶ花、安源寺の部落に入り、中野平中学を見て、まっすぐ来れば4.2キロメートル52分の距離が倍の1時間41分かかった。
12:35
平野小学校正門
向こうはマクドナルド、しおざきがある江部の交差点。
かつて道路の左は農協生活センター(スーパー)、右の、校舎の裏は旧平野村の役場を中野市農協が平野事業所として使っていた。

そうした周辺部が今どうなったかも興味があるが、もう暑くて疲れてきたので、寄り道せず目的地の小学校にさっそく入ってみた。
12:36
グランド、校舎の位置は変わらないけれど、きれいに建て替わり、昔の面影は一切なかった。

帰宅後、実家からもらった「平野小学校百年史」に昔の写真があるかもしれないと、書棚の奥から引き出し、初めて開いてみた。
前のブログで書いた中野平中学建て替えの「竣工記念誌」が建設工事や在学生徒の様子を載せた写真集のようなものだったのに対し、この百年史は写真より数字、史実などの記載が中心で、古い文書のカタカナ混じり漢文読み下し文をそのまま転写したのが多い「書籍」であった。文字も小さい。

当地は子弟の教育に熱心だった信州らしく、江戸時代から寺子屋教育が盛んで、本書にはそのあたりから書かれている。

「百年史」が発行された昭和50年(1975)3月は、小学校を卒業した6年後、ちょうど私が高校を出て上京したときだが、当時の紙、印刷技術は今ほどよくなく、写真は別のページに紙を変えて印刷されたもの以外、残念ながら不鮮明であった。

さて、百周年は1973年。その百年前は1873、明治6年である。
この年、片塩村命徳寺に開校された愛育学校が起源という。

(そういえば、前々回のブログで片塩のカブトムシのペア300円の看板のとなり、命徳寺の前を通ったとき、たしかに愛育学校跡の碑が道路から見えた。その時は知らなかった)

明治政府は明治5年、学制を発布した。
全国を8大学区に分け、各大学に1つの大学を設け、各大学区は32中学区に分け、区ごとに中学を設ける。さらに中学区は210の小学区に分け、1小学校を設けることにした。つまり、全国に8大学、256中学、53,760の小学校を作る計画だった。

「学制」実施直後、幕末以来の大学南校(開成学校)が第1大学区第1番中学、東校が第1大学区医学校となったが、他はとん挫した。しかし小学校設立は全国で進む。

当地、現平野地区は、第6大学区(本部新潟)の第15中学区(本部飯山)に属し、第42番小学区となった。
こうして明治6年、命徳寺を臨時校舎に借用して第四十二番小学愛育学校が設立された。
区内の11か村は、東江部、西江部、岩船、吉田、片塩、安源寺、草間、立ヶ花、栗林、牛出、大俣である。人口 3,359人のうち、6歳から13歳までのものは455人(男227、女228)であった。

(今の部落は当時、高井郡の村だった。実家の過去帳にも「信濃國高井郡岩船村 小林清七 天保十二辛丑年」と書いてあったな。)

愛育学校はその後、東江部村施主庵、さらには明治7年西江部村天寧寺に移転し、低学年の子は通うのが大変であるから、遠方に4つ支校をつくった。1号支校(吉田、岩船)、2号支校(安源寺、草間)、3号支校(牛出、栗林、立ヶ花)、4号支校(大俣)である。
 
明治8年(1875)には安源寺を含む西の5か村が啓発学校を設立、独立した。明治11年には大俣支校が田麦に設立された好徳学校に併合される。その結果、愛育学校は、今の平野小学校の通学区域と同じになった(七瀬は別)。

ちなみに、高丘小学校の設立は1903年としている。1875年の安源寺・啓発学校を起源としないのだろうか?

前のブログで、高丘と平野のライバル関係、統合中学の位置の悪さ(片塩の東)などについて論じた。しかし、当時の中学設立に奔走した人々の祖父の時代は、西の立ヶ花から東の岩船まで、片塩にあった愛育小学校の区域だったことから、中野平中学の場所もそれほど不自然ではなかったのかもしれない。そして二つの小学校は歴史的に双子のようなものだと分かった。

明治13年ころの就学者数が興味深い。(両江部は明治7年末に合併)
    学齢者 男 女  就学者 男 女
江部村 84  33  51  31  27 4
片塩村 38  19  19  20  18 2
岩船村 52  22  30  12
吉田村 65  33  32  20
合計  239 106 133  89  83 6

母集団が少ない時の男女比のばらつきを考えながら、乳幼児死亡者が多かった時代の男子の少なさ、女子児童の就学率の圧倒的な低さなどがわかる。

明治15年、西江部天寧寺の仮校舎では狭かったことから現在の平野小学校の場所に洋風校舎が新築された。白亜の壁、玻璃窓には行人をして足をとどめさせたという。ある婆さんは校舎の中にお宮を見て驚いたが、これは江部の神社が窓ガラス(玻璃)に映っていたもの。ガラスを初めて見た人も多かった。

しかし、高井郡は明治12年に下高井、上高井に分かれ、下高井郡(1町56か村)が13個に区分、戸長役場を設けた。岩船、吉田は中野町と一緒になり(戸長役場中野)、江部、片塩、七瀬は西のほうと一緒になった(戸長役場は安源寺)。そして明治19年には小学校令が発布、小学校の統廃合が行われた。
その結果、吉田、岩船は中野学校に入り、江部、片塩は安源寺学校にはいり、せっかく新築された愛育学校は空き家となってしまった。

明治22年、市町村制の施行にともない、県の合併計画により江部、片塩、吉田、岩船の各村は合併して平野村となった。(七瀬は田麦などと合併、長丘村となる)。安源寺、草間などは合併して高丘村となった。
(なお、このとき吉田は北の一本木、新井、栗和田との合併を希望し、西条は岩船、江部などとの合併を主張した経緯は興味深い)

この平野、高丘、長丘といったきわめて人工的な地名は、明治22年に作られたものだとすれば納得する。その地の土豪などの苗字つまり狭い地名が広い範囲に広がっていく例が多いが、独立した数個の村(各部落)の合併ではこうした名前にならざるを得ない。

さて、明治22年(1889)平野村の成立によって旧愛育学校の地に平野尋常小学校(修業年限4年)が復活、開校した。

そして就学者の増加により
1907年(明治40)には教室棟1棟(平屋、のちの南校舎)
1908年には修業年限6年となり、雨中体操場、職員室、教員住宅などが新設された。
1934年には二階建て北校舎が増築
1949年には新制中学用に南校舎東側が二階建てとなる。
1950年8月の校舎配置図
私が入学したのは1963年だから13年後である。中学生は統合中学に移り、また役場も移転してかなり変わっているが、こういう図があると、記憶を引き出すのに役立つ。
給食室(廊下にガリ版印刷があった)、宿直室(冬は雑巾がけのお湯をもらった)、理科室はこの図の通りだが、音楽室は北校舎二階の東端、その西は古い農機具などを展示している郷土室だった。
南校舎1階の東端は家庭科室、東の体育館に行く途中に東便所があった。また、北校舎の北東に北便所が新設されたことを思い出す。
体育館側の中庭には、小鳥小屋、ウサギ小屋があり、小学校5年生のときは岩石園が完成した。

小学校5年生のときは養護学級ができ和組とした。それまで各学年は松組、竹組の2クラスだったのだが、和組に特別感を持たせないように、他のクラスも一気に改名した。すなわち1年から順に、松・竹、春・夏、藤・菊、月・星、花・雪、美・徳となり、そのクラス名は卒業まで使うことになった。すなわち私は5年松組から花組になった。
百周年記念のころ(1974、昭和49)
私が卒業(昭和44年3月)して5年後、ほぼ変わっていない。

遠足の行き先(昭和49年度)
春秋、6年間の12回のうち、私のときは更科峠、もとどり山、飯山城址は記憶にない。
代わりに飯盛松(当時アカマツとしては日本一の巨木、国天然記念物、昭和45年枯死)に行った。
年間計画(昭和49年度)
これをみると休暇は、
中間休み 5日(5/30~6/3)
夏休み 20日(7/30~8/18)
中間休み 3日 (10/3~10/5)
年末年始 11日 (12/28~1/7)
寒中休み 5日  (1/31~2/4)
年度末休み 10日(3/22~3/31)

中間休みというのは要するに、田植え休み、稲刈り休みである。私のころはもう少し長かったような気がする。
この二つの農繁休業と寒中休みを足して13日、それを考慮しても夏休みが短い、と子供心に思ったものだ。

さて、2023年、猛暑の中に戻る。
12:38
新しい体育館の場所も昔のまま、敷地の東の端にある。
これは何代目になるだろう?

初代は1908年(明治41)、明治15年の校舎の北側に雨天体操場が新設されたことを書いた。二代目は1922年、グランドを拡大するため、校地の西側、県道の脇に移転したもので私も記憶がある。まんなかに太い丸い柱があった。大人が見れば体育館の真ん中に柱などとんでもないと思うだろうが、低学年の私らには鬼ごっこや「源平」などの遊びのときに便利なものだった。
私が3年生から4年になる時、1966年(昭和41)3月、校地の東に新しい体育館が落成した。
これが三代目だから、写真の体育館は四代目ということになる。

新体育館の前に頌徳碑があった。私の在学中は南西の隅、県道側にあったものである。
昭和12年(1937)に建てられた。明治の平野地区の教育に尽力された丸山富次郎氏を顕彰するものだが、もちろん小学校時代は知らなった。今回改めて見るまで日露戦争の記念碑かと思っていた。
12:37
プールは体育館の北に移転したようで、元あった場所には「いこいの井戸」があった。
プールは昭和34年完成。
プール
たぶん6年生のころ(昭和43年夏)。
隣は竹内徳吉ちゃん。賞状を持っているのは小林きく枝ちゃんと蟻川淳一っちゃん。

運動は得意ではなかったが、鉄棒の懸垂の回数とともに、水に潜っている時間は、圧倒的にクラスで一番だった。二位に30秒以上差をつけた。「死んじゃったんじゃねぇか?」という声を聞くのが快感だった。
12:39
校地南側の道路
かつて、グラウンドの南側はポプラ並木が続き、道路と校地の間には水量豊かな川が流れていた。車社会というのは道路を広げると景色を一気に変えてしまう。
丸山タカオちゃんと依田トシカズちゃん。たぶん5年生ころ。
ヘリコプターで撮った平野小学校通学域(昭和43年)

6年生のころ、東京の警視庁から交通安全のキャンペーンだったか、ヘリコプターが小学校に飛んできて、男女一人ずつ児童を乗せてくれることになった。成績が良くて児童会長をしていた私が乗ることになり、先生が急遽、承諾書の印鑑をもらいに家まで走ってくれた。
祖母は近づくヘリコプターに手を振り、少しでも高いほうが分かるだろうと、軽トラの荷台に乗ったらしいが、私には全く見えなかった。

小学校の6年のとき好きだったのは、沢田啓子ちゃん、津金須美子ちゃん、西原真利子ちゃん、田中りつ子ちゃんの4人。中学にいくと3クラスに分かれる。卒業して雪解けの泥道を歩いて昭和44年春、中学の体育館前に貼りだされたクラス分け名簿を見に行った。

誰と一緒になるかなぁ、と見たのに、なんと彼女らは4人とも別のクラスに行ってしまった。
  4人と同じクラスになれるのは(1/3)^4= 1/81
  3人と同じクラスになるのは(1/3)^3 (2/3) 4= 8/81
  2人と同じクラスになるのは(1/3)^2(2/3)^2 6=24/81
  1人だけ同じクラスになるのは(1/3)(2/3)^3  4= 32/81
  一人も同じクラスに来ないのは(2/3)^4= 16/81
つまり、(1+8+24+32)/81=80%の確率で彼女らと一緒になるはずだったのに。

勉強はできたが、中学受験もするような今の6年生と違い、畑や田んぼばかりの中で育った小学生はこんな計算はできなかったし、確率という概念もなかった。

(続く) 

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