2023年12月21日木曜日

関宿3 城の跡地は畑と八千代牛乳の牧場だった

ずっと気になっていた関宿にやってきた。かつては関宿藩の城下町であった。

また、江戸川と利根川の分流点でもあるから、鈴木貫太郎記念館を見た後、江戸川の堤防にやってきた。
江戸川を航行する船を取り締まった関所も関宿城本丸も堤防の下に埋まってしまい、かつての面影は全くない。
2023₋12₋13 11:20
スーパー堤防の斜面は広い。そのぶん昔の景色は失われた。

堤防から降りてすぐ史跡案内板があった。
11:22
「関宿城大手門と城を囲む堀と土塁」
土塁も堀もよく分からない。
ここは城内でありながら、地面は江戸川と同じレベルである。
廃城以降も洪水があっただろう。あるいは土塁を削って堀を埋めたのだろうか。
とにかくここに大手門があったようだ。

説明板を見ていたら後ろを歩いていく人にあいさつされた。
鉄道から遠く離れ、かつ川に囲まれ文字通り陸の孤島のような田舎の人は、純朴で愛想もいいのかな、と思ったら隣に新興宗教らしい大きな寺があった。
11:23
ほんみち本部直轄関東出張所
堤防から見えた寺の様な大屋根はこれだった。
ほんみちは、1913年(大正2年)に大西愛治郎によって創始された。大阪府高石市に本部を置く新宗教。天理教からの分派である。野田市は霊波之光(1954創立)の本部もある。

大手門跡から100メートルほど「城内」に深く入ると四つ角があって説明板があった。
これがなければただの農村である。
11:26
説明板は「武家屋敷の区割りと教倫館」
先月、文京区で開かれた全国藩校サミット2023には、藩主家の久世氏は登壇したが、藩校・教倫館の関係者は出席されなかった。この藩校跡地に何もないところを見るとサミットに参加されるような人々も今やいらっしゃらないのだろう。
案内板は極めて傷んでいるが、観光客もいないからか修復もない。
読めば、外堀(大手門の場所)の内外に90余名の家臣が住んでいたという。
この辻は桜町通り(南から歩いてきた道)と小姓町通りが交わる。今や見通しの良い四つ角だと思っていたが、よく見ると少しずれている。武家屋敷が立ち並んでいたころは「鍵の手十字路」として、城の防衛を考えた工夫だった。

それにしてもこれだけ跡形もなくなった城下町は珍しい。
明治維新で家禄を失った士族は、職を求めて関宿を離れただろう。本丸含め城は度重なる水害と江戸川の拡張に飲み込まれ、さらに水運が衰退してからは農地を持たない人々にとって、ここに住む理由がない。みな東京や周辺の鉄道のある街に移り、屋敷も更地になったと思われる。

大手門の内側でありながら、誰もいない「農村」を進むと家畜のにおいがしてきた。
ふたたび鍵の手の十字路に出た。

「関宿城の曲輪」という案内板があった。
11:28
その古地図を見れば大河に接し、堀のような沼のような水域に曲輪が浮かんでいる。
地面より水面のほうが広い。
めったにない兵馬の攻めには強いだろうが、毎年洪水を心配するような城とみた。

この案内板のあたりは内堀、すなわち三の丸の外の堀があったところのようだ。
辻をまっすぐ北に行くと、三の丸の東を経て発端曲輪へ。
右(東)に行くと久保町通りで武家屋敷が並んでいたらしいが、今右を見れば飼料タンクと牛小屋があるだけ。
11:28
久保町通りは今、ただの農村の細い道。

辻から西は三の丸、二の丸を経て本丸に向かう道。
11:29
西へ続く道に「八千代牛乳・飯塚牧場」という看板が見えた。
「遊びに来ませんか」という牛の絵が描いてある。

八千代牛乳というのは千葉北部酪農農業協同組合(組合員数:酪農25戸/肥育10戸)の生産者が搾った牛乳で、指定飼料のみで育てているから消費者意識の高い生協などが採用している。1951年、旧八千代町酪農家を中心に組合結成して生産したことからこの名前がある。
千葉北部と言いながら八千代市は船橋と成田の間であり、25戸の生産者は八千代・八街・佐倉地区が5戸、成田・香取・銚子地区が5戸、大多喜・白子地区が8戸、関宿地区が7戸と、千葉全県に広がっている。しかし関宿は狭いから密度としては圧倒的に高い。
本当にこのあたり、牛舎が多い。
鈴木貫太郎以来の「酪農の町・関宿」とはこのことか。

歩き進むと右手の大きな農家は高木という表札だった。
このあたりは大手門の中でも内城に近いところだったから重臣たちの屋敷が並んでいたであろう。
隣は牛舎。
11:31
飯塚牧場でなく高木牧場と書いてある。
小屋の中には牛がいっぱいいた。子供が来れば喜ぶだろう。

北酪・八千代牛乳の公式サイトに行くと生産者名簿があり、関宿地区として飯塚一男氏、高木武雄氏の名前があった。
11:32
さらに進んで左手にも牛舎?があるが、牛はいなかった。
こちらが看板のあった飯塚牧場だろうか。

牛舎の間を抜けると江戸川の堤防にぶつかる。
堤防の脇に石碑があった。夏の間、烏瓜のような植物に覆われていたか。
11:35
関宿城址
このあたり本丸のようだ。ここに三層の天守があったという。
幕末まで確かにあった城が、これほど痕跡をとどめないのは、全国的に見ても珍しい。
11:36
説明板には本丸の三分の二が残されたと書いてあるが、今までの案内板の地図だと大部分が江戸川改修で削られ、残っているのは4分の1程度であり、それが正しいと思われる。
11:38
歩き過ぎて本丸跡を振り返る。4分の3が右の堤防の下になったと思われる。
左の田んぼは二の丸との間の堀の後だろうか。

関宿城天守を模した県立博物館が行く先に見えた。
博物館への農道は遠くでぐるっと回りこんでいる。堤防の上を見上げると博物館の駐車場のようだった。近道したくなって堤防を上がった。
11:40
上がり始めると土が異常に柔らかくて靴が埋まる。
見ると野沢菜のような葉物野菜が生えている。人為的に種を蒔いたものだろう。

一般に堤防にはアブラナ科の植物は良くないとされる(根株が腐るとミミズが増え、それを食うネズミが巣食って堤防に穴が開く)。しかし、ここはスーパー堤防である。斜面を緩やかに広く取っているから、堤防の上も牧草地として利用してよい。
そう思うと藁くずがまいてあるように見えた土も牛糞だらけのような気がしてくる。注意しながら足を運んだ。

堤防の上に上がると巨大ロボットのような機械があった。
11:42
浚渫機が展示されている。
関東の山々から運ばれた土砂は、川底を押し上げていく。関宿が北総台地ではなくただの平地であり、川底と高さが大して変わらないからには、絶えず川底をさらわなくてはならない。
この機械はキャタピラーがついているから、自力で川原を動いて土砂をすくうのだろうか? でもそれならブルドーザーと変わらなくなってしまう?
二本の角は何だろう?
11:43
こちらの浚渫機は船に乗せて使うもののようだ。
11:44
浚渫機の前の堤防に、江戸川を西にわたる橋が架かっていた。
自動車は通れない。
地図を見れば、ここから水閘門まで行って川面を見ることもできそうだったが、面倒に思えてやめた。
いまグーグル鳥観図で見てみる。
水閘門(流量を調節する水門と船を入れて水位を調節する閘門をあわせたもの)。
左上に利根川からの分流部(江戸川流頭部)、
右に関宿城を模した県立博物館がみえる。
橋を渡って行ったら行ったで記憶に残っただろうと思う。

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