2024年7月2日火曜日

香川9 金比羅と金刀比羅の違いは何か

6月11日、日帰りで香川県に来て、高松、国分、丸亀、善通寺に立ち寄って、最後は琴平に来た。

琴平、金刀比羅、金比羅(金毘羅)の関係が分かればいいなと思いつつ、善通寺から1駅だけ電車に乗った。

16:16
土讃線琴平駅
ここの駅舎も、隣の善通寺駅ほどではないが、古い。
1889年(明治22年)開業、1922年、駅が現在地に移転、1936年現駅舎竣工。
格子天井に市松模様の床は、おしゃれである。団体観光客に合わせたのか中が広い。
16:16
駅から西にまっすぐ道が伸びる。
両側に狛犬と石灯篭がならび、早くも参道のようだ。
正面の山は象頭山(ぞうずさん)、中腹に金刀比羅宮がある。
高松の屋島に似たメサ(火山性の残丘台地)であり、この独立峰の北(右)のふもとは善通寺、西に越えれば三豊市にいく。

とりあえず、駅からまっすぐ歩く。
16:21
旗を持ったガイドに連れられた行列とすれ違う。
今時珍しい。
向こうはJR琴平駅。

公園があって子どもたちがボール遊びをしていた。
高い灯籠がある。
16:22
金刀比羅宮北神苑。
名前は立派だが、地元の子供たちにはただの広場。

高灯籠は、幕末の1860年に完成、高さ27メートルは日本一。光は丸亀沖まで届き、船上から海の守り神、金比羅山を拝むとき目印になったという。
他に高い建造物もなく、夜は灯りもなかった当時は見えたかもしれないが、本当かと思って地図を確認すると、西は象頭山、東は小さいが如意山があって、瀬戸内海は割と狭い範囲からしか見えなかったと思う。しかし彼らは見える範囲が分かっていて、船がその場にさしかかると手を合わせたのだろう。

高灯籠のすぐ隣は琴電・琴平駅。
16:22
琴電・琴平駅
こじんまりとした終着駅。
「琴電」は高松琴平電気鉄道株式会社の略。
「ことでん」と略称しうる電鉄会社は、ほかに琴平参宮電鉄(琴参)、琴平急行電鉄(琴急)があり、かつて善通寺の陸軍第11師団のそばまで行っていた路線は琴参である。

琴平は、今では考えられないが、昔は四国の玄関口高松と同じくらい重要な場所だったようだ。
1.国鉄土讃線の琴平駅は1889年讃岐鉄道の駅として開業した。
しかし、2.琴参が、1922年に丸亀―善通寺間を開通させ、翌年琴平まで延伸した。
3.現存する「ことでん」高松琴平電鉄は、その前身のひとつ、琴平電鉄が1927年、高松栗林公園から琴平まで開通。
4.琴急は一番遅く1930年に参入した。しかしすでに過当競争であり、1944年鉄道路線を廃止、琴急は琴参に吸収合併された。そして琴参も1963年に鉄道事業から撤退、現在はバス路線のみ維持している。
16:23
大宮橋。下は金倉川。

橋を渡り、突き当りまで行き、左折、南に歩くとだんだん土産物屋や食堂が増えてくる。
16:29
一の橋西詰めまでくると、西に琴平宮まで向かう表参道の一番下にでる。
骨付き鳥、中野うどん学校など讃岐名物の看板が並ぶが、平日夕方のせいか観光客はあまりいない。こういうところはもう少し賑やかなほうが雰囲気ある。

「日本最後のご当地ラーメン」という讃岐ラーメンの看板があるが、どういう差別化を図っているのだろう? 麺がうどんだったりして。
16:30
右の西野金陵本店は1789年創業、金刀比羅宮のお神酒を作っている。
その隣の御宿・敷島館は、2019年共立リゾートがかつて国の登録有形文化財に指定された「敷島館」の古材を用い、中は現代的に、外は老舗のホテルを再現したもの。
しかし琴平は全体的に外部資本が入らず、小さな土産物店まで長い歴史を持っているような(要するに古い)町である。
16:32
歩く人の多くが杖を持っていたので記念に買ったのかと思ったら、レンタル杖。
一本100円。
持てば荷物(邪魔)になるかと思うが、雰囲気は出る。
石段は785段あるらしい。
16:33
石段が始まると両側の店も近くなってこんぴら参道の雰囲気が出てくる。

さて、金毘羅さんとは何か?

金比羅さんを初めて聞いたのは小学校のころ。
ふるさと信州中野の岩船には部落名ともなった岩船地蔵があり、その横に浄清寺という曹洞宗の寺がある。この寺と地蔵堂の間に、神仏習合の時代を思わせる、「金毘羅大権現」と彫った石柱と鳥居をもつお堂があった。

ひとびとは、その一帯を、「お地蔵さん」とも言わず、もちろん浄清寺ともいわず、「こんぴらさん」と呼んでいた。
そのせいかどうか、小学生のころ、部落の氏神・岩水神社の御柱祭で、「岩水神社の歌」、「中野小唄」に加え、「金比羅ふねふね」を歌った。一日中、柱を引っ張って部落内を練り歩き、その間何度も繰り返し歌ったものだから、今でも歌詞を覚えている。

金比羅船船
追い手に帆かけてシュラシュシュシュ
回れば四国は讃州那珂の郡、象頭山
金比羅大権現
一度回れば
(以下最初に戻り、永遠に終わらない)

歌詞など渡されなかったから「追い手に帆かけて」のところは「お池に帆かけて」と歌っていた。もちろん「讃州那珂の郡、象頭山」も何であるか知らず、象頭山(ぞうずさん)は「ゴゾサン」と歌った気がする。

ちなみに今、那珂郡は存在せず、海側の多度津、善通寺があった多度郡と合併し、仲多度郡となった。つまり琴平駅、金刀比羅宮は、仲多度郡琴平町である。
16:34
石段は785段のうち、ここで22段目。

今から登る神社の公式名称は「金刀比羅宮」である。
琴平町は、江戸時代、那珂郡金毘羅村といい、明治6年に琴平村と改称した。
つまり琴平は金刀比羅の簡略表記のようであり、金刀比羅と金毘羅がそれぞれ何であるか分かればよい。
16:35
「手荷物預かります」という幟。
このあたりで荷物が重く感じる人がいるのだろう。

16:37
100段目にある松浦百段堂という土産物店。

16:38
105段目に鳥居と地図があった。
鳥居の文字は「世界平和」と「四海平穏」
16:38
御本宮まで「あと685段」とある。
その先に白峰神社と奥社がある。

さて、金刀比羅と金比羅。
さきに琴平は金刀比羅の新表記ではないかと書いたが、逆かもしれない。
こんぴらさんの正式名称「金刀比羅宮」の由緒によれば、象頭山(琴平山)の中腹に大物主命をまつったコトヒラ神社が建てられたのが始まりとする。表記は万葉仮名のような「金刀比羅」と簡単な「琴平」の両方あったのではないか?
(コトヒラが何かは不明だが)

仏教、特にこの地域に縁のある空海が持ちかえった真言密教には、もともとインドの様々な民間信仰、神々が取り込まれている。その中にクンビーラという、ガンジス川のワニを神格化した守護神があった。その宮殿がインドの象頭山(ガヤーシールシャ、伽耶山とも)にあったせいか、クンビーラは、象頭に似た琴平山のコトヒラ宮境内にあった真言宗松尾寺の本尊・釈迦如来の守護神となったという。

つまり、金刀比羅(コトヒラ)と金比羅(クンビーラ、のち金比羅大権現)は、金、比(毘)、羅と共通文字は多いが、偶然の一致にすぎず、両者は由来からして全く違うものだろう。

一方は地名・神社名、他方は神ということである。
16:39
168段。
神社と仏教神が一緒になるのは、当時は普通のことで(神仏習合)、コトヒラ宮は祭神の大物主命より、松尾寺守護神だった金毘羅大権現のほうが有名となった。
そして、ワニや蛇は水に関する神で、海神、水神として、海上安全、海難救助、また農業では雨乞(あまご)い祈願をされるようになったわけである。

(航海の神・港の神としては、住吉大社が有名であるが、こちらは海を越えて三韓征伐をした神功皇后と海の神である筒男三神をまつり、また遣唐使船などが出発した難波津にあったことで海・港の神となった。)

室町以降、瀬戸内の海上交通の発達、また塩飽水軍などの活動とともに、金比羅信仰は広く航海、漁労関係者の間に広がった。祈祷で大きな木札を賜った漁師たちの中で難破した際に、船に祀っていた木札につかまって命拾いしたという話も信仰を強めた。

江戸時代に入ってからは、廻船の発達で、全国に金比羅権現が勧請され、さらに伊勢参りのように、金比羅講を組織しての琴平詣でが全盛を極めるに至った。先に書いた民謡の「金比羅船船」は、元禄のころから、彼らが道中で歌ったという。リズムと言いメロディといい、今聞いても新しいから、当時は流行っただろう。

琴平山を望みながら航行する船が賽銭などを樽に入れて流し、発見した人、船が金刀比羅宮に届ける(代参)という風習「流し樽」は、現在も(儀式的に)行われているらしい。

・・・
石段を登り続けると土産物店が切れた右手に掃海殉職者顕彰碑の案内板があった。
16:42
掃海殉職者顕彰碑の由来「ああ、航路啓開隊」。
第二次世界大戦では、瀬戸内海はじめ日本近海、港湾に各種機雷が7万6千個も敷設された。終戦時には主要な港、水路80か所以上がことごとく閉鎖されていて、戦後は旧海軍関係者が風浪寒暑に耐えながら掃海に従事した。しかし掃海完了までの6年間で79人が殉職したという。

実際の顕彰碑は林の奥にあるらしく、その手前に掃海母艦「はやせ」主錨が展示されている(写真奥)。
16:43
大門(おおもん)到達。365段。
大門を過ぎると束の間、なだらかな道が続く。
桜の馬場という。春は桜が咲く。馬場は道の意味でも使うと何かで読んだが、ここはどうか?
16:45
桜の馬場の参道脇の石の柵(玉垣?)には寄進者の名前が彫ってある。大きな石には石州益田・右田源右衛門とあった。信仰は瀬戸内海だけでなく全国に広がっていたことが分かる。だいたい海に関係ない信州中野にも金毘羅さんがあったのだから。

ちなみに、ここの金刀比羅宮を総本宮とする神社は全国に存在し、
ウィキペディアに乗っているものは、
・金刀比羅神社、金刀比羅宮が34社
・琴平神社が12社
・金比羅宮・金比羅神社が7社。
実際はもっとあるだろう。例えば信州中野岩船の金比羅大権現や、文京区の金刀比羅宮東京分社(別ブログ)は、この数に入っていない。


さて、玉垣の後ろには、「金弐百萬圓」という寄進者の住所氏名を彫った石柱が並んでいる。
16:45
反対の右側は「金壹百萬圓」という石柱。
伏見稲荷の寄進鳥居を思わせる。
この石柱を建てる費用はいくらだろう? 
百万円とは別に払うのだろうか、それとも込々だろうか?
などと下らないことを考える。

漁業協同組合や水産会社が多いが農協もあった。
昭和46年奉納で「大阪府堺市 美木多金刀比羅講」というのが目についた。今も講が現存するのだろうか?
16:46
竹中工務店は「金壹封」だったが、百万の柱の間にある。
百万なのかそれ以上なのか分からない。

16:49
神馬舎、高橋由一館などのある平地に到達。431段目。
本宮まであと354段、奥宮まで950段くらいか。

高橋由一は、江戸時代生まれの洋画家で、名前を知らなくとも「鮭」の絵を見た人は多いかもしれない。岸田劉生と絵の感じが似ている。金刀比羅宮は彼の油絵27点を所蔵する。
16:50
今治造船(株)奉納のプロペラ
16:51
プロペラの前にクスノキの巨木。何の説明もない。
比較の為にA4の紙をおく。
16:52
こちらはイチョウの大木。
高橋由一館の前にある。白いのはA4。

ここから本宮まであと354段。
朝から歩き続けた。
私は、戦前と同じ生活をする自信がある。タクシーなど乗らずに歩き、冷房やエスカレーターも不要だと思っているし、テレビのニュース番組で熱中症を大げさに言うのに腹を立てている。マスコミが軟弱な日本人を作っている。私は粗食にも耐えられるし、カビが生えても食べちゃうし、ケガで出血しても、消毒も手当てもしない。自分の胃酸と免疫機構のみを信用し、テレビや本が言う健康情報のほとんどは、もっともらしい嘘だと思っている。
つまり生命力に自信があり、普通の人が登る石段など、何の問題もないと思っていた。

1. しかし疲れた。
2. 私は同時に、世間の人と行動が少しずれていて、神社仏閣のご利益というのに興味がない。本殿に行ってもお参りしない。

という2点で、もう石段を登らないことにした。
よく考えたら、自分が登ることに全く意味がないことに気づいたのである。
要するに、歩くのに飽きた。

簡単に予定を変更できるのは一人旅のいいところで、これが誰かと一緒だと、登り続けても、途中でやめても、どちらかが面白くない。
16:53
桜の馬場を下っていく。
登るときに追い越していった陸上部の学生が追い越していった。
彼らは自分を疲れさせるのが目的なのだろうか?
彼らが上り下りするのと、人々がお参りするのも、どちらも意義がある。
私は疲れさせるのもお参りするのも意義が見いだせないから、途中で降りている。
16:55
ところどころで登ってきた平地をみる。
讃岐平野というのは、小さな独立峰(残丘、ビュート)の他は水平である。大昔はこの象頭山を含めた多くのビュートが瀬戸内の島々で、それらが浮かぶ海が隆起して讃岐平野になったのだろうか?
16:56
土産物店は続々と店を閉めていた。
17時までのようだ。
17:06
参道からまっすぐの一の橋を渡る。
17:09
50分前に通過した大宮橋と琴電琴平駅
17:10
向こうにJR琴平駅が見える。
予定より早く下山してしまったので、来るとき通り過ぎた坂出に立ち寄ることもできた。
しかし面倒になった。

琴電は高松方面が30分ごとに、すなわち毎時12分と42分に発車する。(香川県の主要都市、善通寺、丸亀、坂出、高松を結んでいるJRより本数が多い)
予定よりだいぶ早く琴平を切り上げたのに、なぜか反射的にダッシュして改札を通った。
17:10
乗客は高校生が多い。
この日の朝、「ことでん-JRくるり~んきっぷ」(2200円)を買っていた。JRの志度~高松~琴平と琴電全線がのれる。高松から一番遠い琴平までJRで980円、琴電なら730円。だから2200円というのはそれほど安いわけでもないが、スイカが使えない四国で切符をいちいち買わなくてよい。

初めて乗ることでんが発車してから途中下車してみたい駅を探したが、とくになかった。
ほんとに参拝客を運ぶための線路のようだ。

ぼーっと車窓を見ていたら、栗熊と羽床の間で、右(南)を見るときれいな円錐形の山があった。
17:27
堤山(羽床富士)

このあたりは、新幹線から見る南近江に似ていると思った。小さな独立峰と瀬戸内・琵琶湖につながる低地というのが共通点だが、両者の地形の形成については知らない。

ちなみに、讃岐七富士というのがあって、数多い円錐型独立峰の中から7つの美しい山を選んでいる。この堤山(羽床富士)、丸亀の飯野山(讃岐富士)、そばを通った六ツ目山(御厩富士)のほか、残り4つは東讃の白山(三木富士)、西讃にある爺神山(高瀬富士)と江甫草山(有明富士)、南部の高鉢山(綾上富士)である。

陶(すえ)駅を過ぎ、畑田駅が近づくころ、左(北)を見ると、また円錐形の山があった。
17:38
十瓶山。 右は「火ノ山」の裾
こんなきれいな形でも七富士には入れてもらえない。

琴平と高松とのあいだは何もなかった。
しかし最後も讃岐平野らしい景色が見られて良かった。

終点、高松築港駅の手前、高松市の繁華街、瓦町で琴電を降りてみた。
スマホの時計を見れば18:10。まだ空は明るい。
帰りの夜行バスは20:30発。
だいぶ時間があるが、もう見たいものはない。
今すぐ帰って庭の野菜を見たくなってきた。
飽きっぽいのか、たった1日でこれでは、何日も旅を続けるのは性に合わないようだ。

(香川見物、終わり)


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