2024年10月26日土曜日

山形12 酒田の北前船、米1石の意味

9月19日、山形県に来た。早朝から米沢、山形、新庄、鶴岡を見て、今回の最終地、酒田にきた。

本間家本邸を外から見たあと、だんだん暗くなってきたが、行くべきところが見つからない。
地図に日和山公園があった。
(日和見山のほうが正確だが日本語はこういうものだ。)
本間邸から1.1キロ。普段なら大したことがない距離だが疲れてきた。
しかし、ここに行けば、江戸時代に海を見て出航日を決めたように、酒田港が上から見えるはず。
酒田市役所の北を通り、西にひたすら歩く。
17:46
丘に向かう上り坂が見えた。
17:47
空き地の向こうに古い大きな家が残る。
あとで地図をみたら明治28年建築の料亭を利用した観光施設「山王くらぶ」の裏側だったようだ。
17:47
左の枝道。下り坂なので酒田港に行くのだろう。
17:48
日和山の坂下
かつては商店街だったのかどうか。
道路ものっぺらな舗装でない。
17:50
日枝神社
17:51
日和山は西が公園、東が日枝神社になっている。
日枝神社境内には光丘神社、光丘文庫がある。
本間家三代目の当主光丘(みつおか)は、学問を修めるため文庫を兼ねた寺院を建てようとした。宝暦8年(1758年)から40年近くにわたりお上に願い出たが、新寺建立の禁止政策により、果たせなかった。
はるか後世の大正時代になって八代目当主、光弥(みつや)は、光丘の遺志を継ぎ、先祖伝来の蔵書2万冊と建設費、及び維持基金として10万円を寄贈し、大正14年(1925年)に1925年光丘(ひかりがおか)文庫が開館した。

しかし、もう暗くなっていたので神社のほうには行かず、港が見える公園のほうに急いだ。

酒田は自然地形としての入り江はないため、港は最上川と並行する新井田川の河口にできた。信濃川河口の新潟港と同じである。
17:52
手前が酒田港、向こうが最上川
間にある石油タンクのようなものは、全国漁業協同組合連合会・酒田油槽所とあるから、漁船の燃料タンクだろうか。
17:53
日本海側に落日の明るさが残る酒田港
9月19日の酒田市の日の入りは17:43。
ちなみに日の出、日の入りというのは、太陽の上辺が水平線に一致した時刻である。(太陽が少しでも出始めたとき、完全に沈んだとき)
17:53
日本最古級といわれる木造の六角灯台(明治28年築)がみえる
17:53
こちらの方向、39キロ先に飛島(酒田市、2017年の住人210人)があるはずだがよく分からず。
17:56
公園は広い芝生の斜面もあり、いい感じ。
園内には酒田を訪れた文人墨客を紹介した29基もの文学碑があるらしいが、暗くて、疲れていたこともあり、一つも見なかった。
斜面の下には日本列島の岸と日本海をかたどった池が掘られ、北前船が浮かんでいた。
17:57
「河村瑞賢と湊町酒田の繁栄」
「千石船と西廻り航路」
この案内板を見るといろんなことを書きたくなる。

まず「港」と「湊」の違い。
港は水の部分をさし、湊は陸の部分をさす。つまり入港、港湾工事、不凍港に対し、湊町、三国湊である。森進一の歌は「湊町ブルース」のほうがよい。しかし湊は人名用漢字であり、常用漢字(1981年までは当用漢字といった)ではないことから、すべて港になってしまった。

それから千石船。
ここまで北前船と書いてきたが、北前は大阪など上方で北陸方面を指した言葉で、北陸では弁才船、千石船と呼ばれた。
千石とはどのくらいか?
1石=10斗=100升=1000合
いっぽう、1 俵=4 斗=400 合
だから一石は2.5俵。千石は2500俵になる。

だいたい1合(=180mL)は150gだから、一俵は60kg、一石は150kg(180リットル)と
なる。千石船は150トン載せられるということだ。

ちなみに日本人は老人、女子供も平均すれば、1日3合x365日、1年で1石食べる。(副食物がないともっと食べるが、足りない分は麦、粟、稗、芋などで補った。農作業に必要なカロリーは2石くらい必要らしい。日本陸軍の兵站は兵士一人、1日6合として計算した)
すなわち前田家100万石というのは加賀・能登・越中の大半を領して100万人養えたということだ。江戸時代、全国の米の取れ高は3000万石であり、人口も3000万人だった。もっとも、五公五民、藩によっては六公四民、農民は6割も年貢として取られたわけだから、不作のとき飢饉になるのは当然である。

江戸時代、武士の俸禄(給料)は米だった。
槍もちを従えたり馬に乗れたりする100石、200石取りというのはいいとして(五公五民なら半分が収入)、微禄なものは5人扶持というのがあった。一家5人が1年暮らせる米ということである。これは一人一日5合で計算した。一人当たり5合x354(旧暦)=1770合=1石7斗7升である。これはほぼ5俵に相当した。5人扶持なら25俵(約9石)で、これを12で割って毎月支給された。

また戦国時代、大名の動員兵力は1万石に対して250人と言われた。
関ヶ原でも石田三成・5,820人/19.4万石、小西行長・6,000/20.0、大谷吉継・1,500/5.0、井伊直政・3,600/12.0、福島正則・6,000/24.0、藤堂高虎・2,490/8.0 である。これは1万石の領民が1万人、うち男が5000人、15歳から25歳までが1000人、そのうち4分の1が足軽として戦場に出たとすれば辻褄が合う。

さて、西回り航路。
それまで例えば加賀から大阪に米を送るには(加賀藩は毎年7万石ほどを大阪で換金していた)、敦賀まで船、そこから馬で陸送して琵琶湖、淀川の水運を使ったが、運賃が高く米も傷んだ。そこで藩では寛永16年(1639)、下関を回り、大阪まで蔵米を運んだ。これが西回り航路の始まりである。

出羽の最上氏が改易された後、村山地方には北日本最大の天領があった。幕府はここの米を江戸まで運ぶよう河村瑞賢に命じた。彼は1671年、酒田から津軽海峡を周って仙台から南下し、(それまで危険な房総沖を避け、銚子で川船に荷を積み替えていたのを)一気に伊豆まで南下させ、風待ちして江戸に入るという東回り航路を開拓した。
翌1672年、彼は酒田から太平洋より穏やかな日本海を周って大阪に入り、さらに紀伊半島を周って江戸へいく西回り航路を確立した。距離は東回りの倍になったが、より安全であり、出羽の米は西回りが主流となった。

瑞賢は伊勢の貧農の子に生まれた。13歳で江戸に出て奉公しながら、お盆で川に流される野菜馬を拾って売ったりして金を貯めたり、明暦の大火では木曽福島の材木を買い占め、莫大な利益を得た。その後、幕府の公共事業を請け負うようになる。ほかにも全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。その功により晩年には旗本に加えられた。ここ日和山公園には瑞賢の銅像がある。

幕府米の輸送として開かれた西回り航路は、その後、国内の輸送に大きな役割を果たす。
北前船は1年に1航海で、3月下旬大阪をたち様々な商品(下り荷)を寄港地で売りながら5月下旬に蝦夷に到達した。上りは7月下旬に蝦夷を出発、イワシ(肥料)や各藩の米、もちろん最上の紅花なども積み、11月上旬、大阪に戻った。冬は海が荒れる。
17:57
縮尺1/2の復元模型「日和丸」
思ったより小さくてびっくりした。縦横高さが2分の1だから実物はこの8倍だが、それでも1000石すなわち2500俵も載るのだろうか?
1984年、高田屋嘉兵衛が所有していた北前船・辰悦丸が復元建造された。これは全長29m、幅9m、深さ3mで載貨重量が約225 t(1,500石)という。また、2005年に建造された「みちのく丸」は全長32m、幅8.5m、深さ3m、帆柱までの高さ28m、千石積み(150t)であった。ここ日和山公園の1/2模型は長さ10.6m、幅3.2mというから、まあ1000石載るのかな。
ちなみに京都伏見と淀川を結んでいた船は十石船、三十石船である。

・・・・
すっかり暗くなり、脚も疲れた。
もう見物はやめ、ゆったり座って夕食をとりたかった。
駅に戻る途中で何かあるだろう。
大きな病院があった。
18:11
道の両側が本間病院
あの本間家と関係あるのかどうか不明。

柳小路をこえ、アーケードの中町モールにも飲食店がない。
駅のほうに戻るため国道112号を北に行っても、灯りが少なくほとんど商店がない。
酒田の中心はどこなのだろう? 駅に向かって歩いているうちに何かあるだろう、と楽観していたが、驚くことに住宅ばかりでほとんど何もなかった。

駅のそばに定食屋があったが満席。
周りを探すが、小さな飲み屋が何軒か集合した長屋、スナックみたいなドアで中が見えない焼肉屋、駅前ロータリー角の居酒屋・大庄水産くらいしかない。
建物は二階建てですらなく平屋が多い。空き地も目立つ。これが人口9万の駅前だろうか。南の酒田南高校のほうは住宅地のように灯りすらない。
酒田は北前船の時代のように、JRの駅より港が中心なのだろうか。

ミライニにはいると二階にフレンチレストランがあったが、おしゃれなグループが食事するところのようで、ちょっと入りずらい。
疲れたので図書館でぶらぶらして、もう一度定食屋に行ったらガラガラに空いていた。

せっかく酒田に来たのだから新鮮な海産物を食べるべきだった。
山居倉庫の川沿い、湊のほうに飲食店があったのだろうか?

メニューに最上どりムネ肉チキンカツというのがあった。
19:47
チキンカツ定食 1000円

最上どりというのは、新庄を中心とする最上地方で餌の30%を米にして育てたブランドチキンらしい。他の鶏肉との味の違いは分からなかったが、とにかく大きかった。ご飯はお替り自由というが、それどころでなく、カツを平らげるだけで難儀した。

しかし、長い一日、置賜、村山のあと、最上を歩いたことなどすっかり遠い日のように忘れていたが、この最上どりで新庄城址や最上峡を思い出した。
食べながら朝からもらった山形各地の地図やパンフレットをリックから取り出した。
米沢、山形、新庄、鶴岡。よく歩いた。
そして酒田の地図をみたが繁華街はどこだか最後まで分からなかった。

・・・
おおた食堂の真ん前、ミライニ前の高速バス乗り場を20:40に出発、翌朝5:45、新宿についた。
人との会話はほとんどなかったが、山形の地形、市町村の場所、距離感に関してはなんとなくわかった。

(終わり)

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