2024年10月19日土曜日

山形10 鶴岡の慶応生命科学研究所と致道館

9月19日、山形県に来た。早朝から米沢、山形、新庄の城跡、最上峡、そして庄内平野の鶴岡まで来て、この県の広さを実感した。

鶴岡では駅から鶴ケ岡城まで2キロほど歩いてきたが、鶴岡らしさ(あるのかどうか不明だが)というのを感じることができなかった。

しかしお城はいい。

15:30
本丸堀
15:32
本丸から二の丸に渡って大宝館を振り返る。

二の丸には県道47号が通っていて、西へ行くと大山街道に入る。尾浦城のあった羽前大山に至る。
15:37
その県道の南は芝生の斜面と低地。
沼のような百閒堀の名残であろう。百閒堀は二の丸堀の一部で、その南が三の丸だった。
(輪郭式平城だから三の丸はぐるりと二の丸を囲んでいる)

このあたりは明治の廃城後から堀と斜面だったのかと思ったら、1970年代の航空写真(国土地理院)をみれば、斜面に民家が並び、低地には野球場と屋外プールがあった(市民プールは室内に建て替えた)。つまり鶴岡市はそれらを片付けてこの芝生の景色を作ったことになる。

ふかふかの芝生を踏んで坂を下っていくと野球場跡に、百閒堀を一部復活させるような池と新しいビルがある。ビルの表札を見ると
15:35
慶応大学先端生命科学研究所(キャンパスセンター)
そうだ、鶴岡だった。

Institute for Advanced Biosciences, Keio Universityといって、略してIABという。
1999年、山形県、庄内地域市町村、慶應義塾の3者による協定締結式があり、
2001年、IABが竣工した。初代所長は慶応湘南藤沢キャンパスの環境情報学部・富田勝教授(1957年生まれ)。父親はあのシンセサイザーの冨田勲で、カーネギーメロン大学准教授時代はアサヒスーパードライのテレビCMに出演していた。

彼はもともと工学部数理工学科の出身で、言語処理や人工知能を専門とし、日本でもアメリカでも天才的な優れた業績をあげたが、1990年に帰国後、生命科学に関心を持つ。

彼は生命体(細胞)をコンピュータ上で仮想し、生きていること、つまり「自発的な状態の変化」、もっというと、たんぱく質の形の変換、酵素量、基質、生成物など各成分の量の変化、また環境に応じた速度定数の変化、すべてを微分方程式で書いた。もちろんこれらの量は相互に関連するから連立微分方程式となり、代数的には(紙と鉛筆では)解けない。しかしコンピュータでオイラー法を使って近似的には解ける。(解くというのは、任意の時点での各成分の量を求める、すなわち細胞の状態を求めること)

その結果得られた仮想細胞こそ、125の遺伝子を持ち、その遺伝子産物が生きているように機能するE-cellである(1997)。当初、私はそれほど関心なかった(内容もあまり知らなかった)。しかし、2001年、日本生理学会年会(京都、同志社大学)の特別講演を聴いて、初めて彼を生で見て、その斬新さ、可能性の大きさに衝撃を受けた。

そもそも生物学というのは形態、行動の比較、観察などから始まり、臓器、組織、細胞の形態、機能の研究、すなわち細かい方向に進んできた。分子生物学など細胞の中の成分研究は生物学の花形だった。しかしこれらは、丸ごとの生命体から、ミクロへミクロへと進み、各成分の精製分離を必要とした。ところが各分子はもはや化学の領域で生物ではない。そして細胞成分をすべてくまなく研究し、それを混ぜても生命はできない。20世紀の研究はミクロへ、純粋成分へと進んだ結果、生命から離れてしまったのである。

各成分は、適切な空間的、時間的分布をもって相互関連することで生命が生まれる。彼は各成分を集め、生きた細胞を再構築したのである。つまり各分子がシステムとして動き生命となるシステムバイオロジーを始めたのであった。

カーネギーメロン大学?のホワイトボードに数式を書きなぐり、英語で議論したあとビールを飲むテレビCMは好きではなかったが、この講演にはしびれた。
細胞外のグルコースを瞬間的に0にしたあと1秒後の細胞内ATP濃度など、実験では求められないことも計算で予測できる。

生命を理解するには、各成分を取り出して研究してもダメで、時々刻々と変わる細胞内の全成分をその時点での存在量を損なうことなく、システムとして理解するのが重要である。それがシステムバイオロジーである。彼の得意分野である情報(ドライ研究)から進めた成果がE-cellだったが、生の細胞をシステムとして実験台の上で調べるウェット研究も必要である。

折しも、多成分の生体試料が質量分析できるようになった(田中耕一、2002年ノーベル賞)。
遺伝子ゲノムは不変だが、そこからの転写物・transcripts(mRNA)、その産物であるタンパク質・troteins、タンパク質が生産、消失させる代謝物・metabolitesは時々刻々と変動し、それぞれの集合体、トランスクリプトーム、プロテオーム、メタボロームを丸ごと測定、研究するウェット研究の拠点として、彼が所長となったのが、ここ鶴岡のIABであった。

2003年には私も生理学・physiologyのシステムバイオロジー、フィジオ―ムの産学協同プロジェクト(リーダー、京大・野間昭典教授)にかかわることにもなり、仮想心筋細胞をコンピュータ上に作った。だから鶴岡IAB、富田勝、という文字はいつもネットで見ていた。

本来、富田は慶応の環境情報学部(湘南藤沢キャンパス)の教授だったし、理工学部は日吉だから、慶応のサテライトキャンパスを作って移るとしても、東海道線沿線の神奈川、静岡県あたりなら分かるが、なぜ山形県だったのか、不思議だった。
下のほうの郊外にIAB、メタボロームキャンパスがみえる。
知っている人もいないし、体力も時間もないので行かなかった。

この二の丸の外、百閒堀の後にできたビルは実験棟ではない。
実験棟(バイオラボ棟、メタボロームキャンパス)は鶴岡駅の北、徒歩20分の田んぼの真ん中にある。(IAB発のベンチャー、クモの糸の素材、スパイバーもある。)

航空写真を見ると、鶴岡市というのは羽越本線の北側、とくに青龍寺川の西には駅近にも関わらず農家と水田しかない。よほど土地の利用規制をきちんとやっていたのだろう。それがIABを誘致するにあたり、その田んぼの真ん中の土地を用意した。
誘致条件が良かったのかもしれない。
鶴岡のIABについて、よく「緑あふれる田園に囲まれた」という枕詞があったが、本当に田んぼの真ん中だった。ただし駅からは鶴ケ岡城よりずっと近い。

より広いバイオラボ棟、メタボロームキャンパスがあれば、駅から遠い、このキャンパスセンターの役割は何だろう? せいぜい、来客を城址など名所旧跡に案内したあとの休憩スペースとしか使わないのではないか?

2023年3月、富田所長は65歳の定年で退職された。

過去のブログ

東北公益文科大学(大学院)
慶応IABの建物と同じ棟に同居している。
ここもIABと同じく、1999年設置の庄内地域大学設立準備委員会が中心となり、2001年に山形県と庄内地方市町村が共同で創立した。本部(学部)は酒田。


午後の木の影が伸びた、芝生の坂を上がり県道に戻る。
15:40
数少ない石垣の遺構。
二の丸の東南にあった隅櫓の台のようだ。鶴ケ岡城は天守がなく、ここと本丸北西の二階二層の隅櫓が天守の代わりだった。

隅櫓跡の向かいが有名な藩校・致道館である。
二の丸堀の跡の道路を渡るので旧三の丸に入る。
15:42
致道館・表御門
ここは藩主が通る御成門だった。
受付に二人の職員がいるが、入場無料。
15:42
破却もされず、戦災にも会わず、当時の様子がよく残っていることから国指定史跡(全国で現在1905件)となった。
門は表御門の他に2つあり、生徒は東御門から、藩の重臣や教官は西御門から出入りした。門ではなく御門とするところに、学問、学校に対する尊敬心がみえる。

15:43
表御門を入ってすぐ左に聖廟
孔子と顔淵の聖画が掲げてある。
学ぶのは論語など儒学のテキストだったから、教育の源のようなものである。

講堂
致道館の「致」という文字が変だな、とじっと見ているうちに分からなくなった。
あまりうまくないけど藩主の筆だろうか。
致というのは致命傷、極致、一致など、到というのは到着、殺到、
どちらも至るだが、前者は概念的、後者は場所、時間などに使う。

当時のテキスト
論語、礼記、大学、孝教
儒教で最も重要な四書五経は、四書が『論語』『大学』『中庸』『孟子』、五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』である。

致道館の由来は「君子学んで以て其の道を致す」から。
人々の手本となる君子は、学ぶことでその道を完成させる(道を極める)。
致道館の学制と教科内容
高校相当の年齢になっても中国の古典を読むだけというのは退屈だろう。もっとも自学自習で、古典に基づく作文の訓練にはなっただろう。

朝暘学校
明治9年竣工、同16年火災で焼失

致道館は明治6年(1873) に廃校となり、その後、鶴岡県庁舎、鶴岡警察署、朝暘学校、朝暘(ちょうよう)尋常小学校などに使われ、1951年に国の史跡に指定、1965年から保存修理がはじまり、1972年一般公開された。

こういうものを保存、公開していると、やはり市の品格が高くみえる。
水戸弘道館もよく保存されているが、鶴岡は入場無料なのが良い。私のように通りすがりの大して関心のない人も入ってみる気になる。
全国藩校一覧
数えなかったが、幕末で藩は292、藩校は250校程度とされる。

加賀金沢には6つも書いてある。一般に加賀藩は明倫堂(朱子学)、経武館(武術)の二つが有名だが、幕末には洋学の壮猶館などもできた。表にある金沢の中学東校、西校はこれら藩校が明治になって名を変えたものだから、この一覧表は注意を要する。

校名の多くは教科書だった四書五経からとったから同じ名前の藩校も多い。
藩校は天明年間(1781~)から急増し、医学、のちには算学、洋学、天文学なども教え、藩によっては総合大学の様相を呈するものも出てきた。
272校のうち、47校は明治維新の後に開校したものである。

15:48
論語の素読の声が聞こえたので誰かいるのかと思ったら、スピーカーがあった。

外に出ると、致道館敷地の隣に藩校とは対照的なデザインの建物。
15:49
荘銀タクト鶴岡(鶴岡市文化会館)
カブトガニのような、いや、鶴岡市域となった出羽三山をほうふつさせるような屋根。建築家ユニットSANAA(サナア)妹島和世氏の設計。

その向こうは鶴ケ岡城の外堀の役も果たした内川。
古地図を見れば、往時は内川の岸まで致道館だった。
武術稽古所さらには矢場や馬場まであったという。

ちなみに、これは鶴岡に本店を置く荘内銀行が寄付したわけではなく、命名権を取得しただけ。タクトは指揮者が振る棒のことだろう。

致道館は駆け足でざっと見ただけで退出した。
受付の窓口で、お礼を言いながら鶴ケ岡城の縄張りが分かるような地図はないかと尋ねた。すると女性が奥に行き、なにやら探して一枚持ってきてくださった。皆さん親切である。
三の丸は役所と侍町で、そこから外の町人地に出るには木戸があった。
町人地は三日町、十日町などの名がついている。

二の丸を通る県道に戻り、致道館の北側を東に向かった。
15:54
致道館、西御門

15:55
致道館の向かいは鶴岡市役所
古いものが残っている町なので、何か残せなかったか?

もともと鶴岡をじっくり見る時間も知識もなく、お城を見ればいいというつもりだったので、あとはただひたすら駅に向かって歩く。もちろん来るときとは違う道を。
15:57
鶴岡カトリック教会
1903年(明治36年)建築の天主堂を持つ。国の重要文化財。

15:59
鶴岡駅までの道はどこも広く、朝から見てきた米沢、山形、新庄と同様、城下町という雰囲気はない。
もっとも車社会の今、50年前の小柳ルミ子の「格子戸をくぐり抜け・・(私の城下町、1971)」のようなところは全国にないのかもしれない。

(まだ続く)

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